金子正一の話 3
二時間目の授業の終わりのチャイムが鳴った。、これから二十分間の中休みが始まる。子ども達は一斉に廊下に駆け出していく。グラウンドのサッカーゴールを取るのに毎日熱中しているのだ。いつもなら俺も一緒に混ざって遊ぶところだけど、今日はそうはいかない。
柏木は体調が悪いので今日は欠席、という話を朝して事なきを得たが、今日のプリントなどを他の児童に持って行ってもらわなくてはならない。その人選も考えなくては。
しかし、何よりもまず、今朝の電話の一件を管理職に報告しなくてはならない。こういう問題は熱いうちに叩くのが鉄則だと思っている。時間が経てば経つほどこじれるのは、同僚を見てきて学んできているつもりだ。また、正直に話した方がチームで対処できる。個人に責任がふっかけられることも少ない。その為の管理職なのだ。利用しない手はない。
しかし、柏木がいじめられている、という認識は俺自身なかった。確かに少し浮いている、という感覚はあったが、それをいじめとは認識していなかった。今の時代のいじめの定義は文科省からしっかりと打ち出されている。文科省では、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とある。これは要約すると、「私はいじめられている」と言えば、それは「いじめ」となるということだ。だから、今回の柏木のケースも定義から言うと、「いじめ」となる。
この定義では、「いじめる奴が悪い」となるが、いじめていた側もこの報告を受けて、「いじめていないのに、いじめていると言われて、いじめられた」と言えばそれは「いじめ」となる。こうなったら水掛け論だ。言ったもの勝ちの世界である。それを国が打ち出しているのだから、とんでもない話だ。
職員室に戻ると、教頭は眉間にしわを寄せてパソコンとにらめっこしていた。老眼が入ってきているのか、画面に近づかないと字が追えないらしい。教頭の事務仕事の量は膨大だ。休み時間と言え、休憩時間ではないのだ。
「あの、教頭先生…」
「なんですか?金子先生」
うーん、確実に機嫌は悪そうだ。しかし、もうこれ以上引き延ばすことはできない。
「ええと、ですね…少し相談が…」
「…はい、なんでしょう?」
教頭の眉間のしわが深くなったような気がした。
「ええと、今朝、うちのクラスの柏木さんから電話がありまして…」
「柏木…えっと、今日は体調が悪くて欠席している子ですよね。何かありましたか?」
欠席児童は黒板で一目でわかるようになっている。体調不良、と書いていたのだった。
「実は、体調不良という訳ではなく…お母さんから電話があって、『いじめられているから、学校に行きたくない』という話があったんです…」
話している最中から顔を見ることができなかった。仕方がないので眉間の辺りを見ていたが、話し終わった段階で頭皮がみるみる赤くなっていくのがわかった。怒ると人間って、赤くなるんだなぁ…とぼんやり思った。いや、思ってしまった。
「金子先生、どうしてそういうことは朝から言わないんだ!すぐに報告するべきだろう!」
「いえ、子ども達の対応に追われていまして…授業も始まってしまったものですから、報告が遅れてしまいました」
「言い訳するなっ!」
つばしぶきが顔にかかる。仕方がない、ここは甘んじて受けなくてはならない時だ。職員室にいた同僚の動きが一瞬止まって、腫物には触らないように動き出す。自分で何とかするしかない。
「すいませんでした。教頭先生、どのように対応していったらいいでしょう?」
「どのように対応したらいいでしょう?ではなくて、どのように対応するべきか考えろ!」
しまった。言葉を間違えた。「失敗したときは、改善策を用意してから報告しろ」という教えを守らなかった。すぐに、言葉を選んで話すことにする。
「今朝の柏木さんの話では、雅彦さんは学校でいじめられているから学校に行きたくない、と言っているそうです。具体的には、自分のしたい遊びをやってもらえないという感じの事を言っていました。確かに少し周囲となじんでいないところはあります。しかし、私自身としてはそれをいじめと認識していませんでした。なので、今日の授業が終わったらすぐに本人と話して、事情を聴いてみようと思っています。繰り返しますが、周囲の児童が目立っていじめているという様子は、私の見ているところではありませんでした。放課後の様子などはわかりませんが、そのような話を聞いたこともありません。雅彦さん自身に変わっているところがあるのは事実ですが、それをいじめと考えるのは少し安直な気もします」
一気にまくしたてた。浜田教頭は、大きなため息をついてギロリと音が出そうな感じでこっちを睨みつけて言った。
「とりあえず、話を聞かないことには話にならない。放課後では遅いと思うが、もう仕方がない。そうしなさい。その後、すぐに報告するように」
「わかりました。報告、遅れてすみませんでした」
「気をつけなさい。何だって今日はいろいろあるんだ…」
キーンコーンカーンコーン
予鈴が鳴ったので、そこで話は終わった。次の授業は社会か…俺は教室に向かうことにした。教室までの廊下で、六年生担任の岡部先生と一緒になり、声をかけてきた。
「大変だなぁ。雅彦いじめられてたってか?」
「はい…いじめられてるっていうよりは、ちょっと避けられているというか、浮いているというか…特別危害を与えている訳でもないし、無視をされている訳でもないと思うのですが…」
「そうだなぁ。俺も雅彦とは委員会とかで一緒になっているから、なんとなくそういう雰囲気はよくわかるな」
「ですよね…ちょっと変わっているというか…」
「そうだな。周りの子とうまくなじんでない様子はあるな。空回りするというか。それはそうと、さっきの話を聞いてたけど、今日の対応はまずかったな」
「そうですね。報告が遅れちゃったのはまずかったです。でも、朝はバタバタしていたので…」
「本当なら朝電話を受けた段階ですぐに報告するべきだ。そして、授業の補欠に入ってもらい、すぐに家庭訪問をすることの方がベターだったと思うぞ。保護者ってのは、電話をかけてくる段階で、かなりの学校に対しての不信感を持っている。電話がかかってきた段階で、警戒をしなきゃならないんだ。電話がかかってきた時に俺らがしなきゃならないことがあるんだが、なんだかわかるか?」
岡部先生は教頭と違って、真っ向から否定することをしない。相談しやすい人ってこういう感じなのだろう。子ども達からの信頼を得ていることもうなずける。
「うーん、精一杯謝ることですかね?」
俺は自分なりの答えを用意した。岡部先生と話すと、教頭と話すときよりも緊張する。教師としての資質を問われているような気がするのだ。
答えを聞きたいところだったが、教室についてしまった。岡部先生は足を止めて言った。
「謝るのはもちろんそうだが、一番必要なことは、『すぐに動くこと』だよ。結局行動で示すしかないんだ。だからこそ、今日の放課後、しっかりと話を聞いてこなきゃならないよ」
そういうと、岡部先生は六年生の教室に入っていった。確かにそうだなぁ…と一人納得してしまうとともに、浅はかな返答してしまった自分が恥ずかしくなった。
俺は、いつになったら、ああゆう教師になれるんだろうか?