柏木郁子の話 2
コポコポとドリッパーにお湯を注ぐ。「の」の字に。焦らないようにゆっくり、そして均一に。コーヒー豆がプクッと膨らんで来て、鼻の奥をくすぐる心地よい香りを放つ。感じながら、大きなため息を一つ、意識してついた。ため息をつくと幸せが逃げるという話を聞いたこともあるが、すっと頭の上の方が軽くなった感じがした。
ふと時計を見ると、一〇時を少し回ったところだった。雅彦はもう寝ている。夫は、今日も遅くなるという。遅くまで働いて来る夫のおかげでこの家が建った。感謝はしている。愛情を感じているかどうか?と問われたら答えにつまることもわかっている。
今日は大変な一日だった。とうとう、あの担任に雅彦のことがバレてしまった。
雅彦が自分のことを自閉症と言いだして、もう一週間になるだろうか。朝、いつもと同じように雅彦の事を起こしに行ったら、いつもは布団にくるまっているはずなのに着替えをして勉強道具を準備していた。やっと学校に行ってくれるのね!と嬉しくなって、駆け寄ったら地獄に突き落とされた。
「お母さん、僕は自閉症です。自閉症だからいじめられていたのではないのです」
「え?」
「僕はいじめられていたのではないのです。だから、学校に行きます」
「ちょ、ちょっと待って、自閉症だって誰が言ったの?どこでそんな言葉…?」
「自分で調べました」
「自分で調べたって…そんな…」
聞くと、パソコンを使って膨大な知識を得たようだった。確かに雅彦は子どもの頃から興味のあることの知識は膨大だった。それは、ゲームのキャラクターの名前を全て言える、好きな車の一部分だけ見て車種を当てる、などのような趣味の分野だけの事だったのだが。
もちろん親としてその疑いがなかったとは言わない。子どもの頃から受ける検査では、何回も「発達障害の疑い有」という判定を受けている。しかし、親としてそんなことを受け入れることはできなかった。
それを、まさか息子の口から認める言葉が出るなんて思いもしなかった。
なんとか息子をなだめ、学校に行かせるのは思いとどまらせた。ほとんど、納得はしていなかったので、ほぼ無理やりだった。自分でこうだと思ったら意思を曲げない、それは学校に行かない、と言った時もそうだ。今度は学校に行くと言ったらテコでも動かない様子が見られた。それこそ、よく言われる自閉症特有の「こだわり」の部分なのだろう。
なんとかなだめることができた後に、絶望感に襲われた。そして、その絶望感は怒りに変わり、それは担任に向かった。激情の中、その辺りの分析はできていた。しかし、私自身を突き動かす感情の嵐に、私は抗う術を持たなかった。
コーヒーが落ち、それをカップに移す。椅子に座り、コーヒーを飲む。おいしい、と思わなかった。ただ、いつも飲んでいる香りを味が、私の細胞を刺激するだけだった。
ありもしないいじめについて文句を言っているのはわかっていた。解決策が見つかる訳もないし、事態が好転することがないこともわかっていた。ただ、現実を受け入れられない自分と、それを客観的に見ている自分がいた。行動に移る自分を止める自分に、力はなかった。
雅彦が「自閉症」だと金子先生に告白してから、先生は玄関掃除を手伝ってくれた。雅彦とは、ポケモンの話などをしていた。自閉症、という話題からは遠ざかるように。それは、彼の優しさというよりは、戸惑いだったのだと思う。私と同じだ。
自分とは違うものを前にした時、どうしてよいかわからなくなる。理解ができないものを前にした時、今までの自分が通用しない時、自分が否定されたように感じるからだ。彼もそうだったのだろう。いや、薄々は気づいたのかも知れない。
それも、どうでもよい。
底にたまったコーヒーは、泥ような色をしている。苦々しい気持ちで、泥水をすすった