金子正一の話 11
「すみませーん!柏木さーん!」
大きな声を出す。整理された玄関には、柏木さんのものであろう靴と、雅彦のものであろうとが並んで置いてあるので、留守ではない。その時、奥の方で物音がして、柏木さんが顔を出した。明るめの色のワンピースを着ているが、髪はボサボサでくたびれた印象を受けた。この家の雰囲気に服は合っているけど、人間は合っていない。他の家の人間が、この家の住人を装っているような印象を受けた。そして、案の定、顔は烈火のごとく怒っていた。俺は、なるべく刺激をしないように言葉を選びながら話す。
「すみません、勝手に入ってしまって。でも、どうしてもお話がしたかった…」
「ふざけないで!不法侵入よ!なんて、常識がないのかしら?おかしいとは思わないの!何にもできないくせに、人の家にまで入ってどういうこと?何が話をしたいよ!笑わせないで」
一息で言い切られ、あっという間に心が折れてしまいそうになる。「すみませんでした」と言って、ドアを開けて帰ることができたらどれだけ楽だろう。
「何とかいいなさいよ。校長に電話するだけじゃすまわないわよ。警察に電話もしなきゃ」
「ちょ、ちょっと待ってください。少しだけお話をさせてください。僕も何とかしたいと思ってはいるのですが」
「何よ、都合のことばっかり言って。そうよ、また、教育委員会にも電話しなきゃ!」
そこまで言って、ハッと柏木さんは手で口を覆った。
「教育委員会に電話されたんですね…だから、か」
予想はしていたけど、やはり先日の「担任を降りてくれ」は上からの圧力がかかっていたのだ。予想が真実だとわかった今、俺に残されている道は二つしかない。
「な、なによ!何か文句あるの!校長に言っても何も変わらないんだから、教育委員会に言ってなんとかしてもらうしかないじゃない」
動揺を怒りで隠そうとして大きな声で柏木さんは叫ぶ。大声を浴びながらも、俺の心は少し落ち着いていた。この話し合いをなんとかしてやり直すことができる道と、担任を降りる道、二つしか選択肢がないならやりたいようにやってやる。俺は大きく息を吸い込むと、真正面から柏木さんの目を見た。
「いいかげんにしてください!もっと前向きになんとかするって話にならないんですか?」
反撃を受けて柏木さんは一瞬ひるんだが、すぐに元の調子で言葉を続けた。
「前向きって何よ!前向きに考えているから、あんたが担任を降りればいいって話でしょ?」
「僕が担任を降りたら、雅彦はいじめられなくなるんですか?」
「だから、あの貴志って子も転校させなさいよ。雅彦がかわいそうだわ」
「言っていることめちゃくちゃだってわからないんですか?雅彦のために、雅彦のために、って言って邪魔なものを排除して、その先に何が残るんです?」
「わかったような口を利かないでよ。担任として何もできないくせに」
「だから、何とかしようとこうしているんでしょう!こんな不法侵入みたいなことをしないと、まともに話すらできないんですから!それで、どうにかしろって?笑わせるなよ!あんたは、親失格だよ!」
熱くなってきているのはわかっていたが、あっと思った瞬間には、もう遅かった。
「何て口を利くのかしら、まだまだ若いくせに!それがあんたの正体なんでしょ?もう話なんてないから、出ていってちょうだい。親失格ですって!親になったこともないあんたがよく言えたもんね」
明らかに柏木さんの様子が変わった。もうなりふりを構っていられない、という様子だった。
「い、いや。口が過ぎました」
「もういいわよ。名誉棄損で訴えてやる。ふざけんじゃないわよ。早く出ていけ!」
と言いながら、その辺りのものを投げつけてきた。スリッパ、靴べらなどを受け止めながらなんとかなだめようとする。
「言いすぎました。ごめんなさい。落ち着いてください」
「謝らなくていいから、早く出ていって!」
小さめの観葉植物の鉢を投げつけられた時、さすがに体で受け止めることはできなかったので避けた。鉢は、玄関のドアに当たり砕け散った。中の土が辺りに散らばり、予想だにしなかった最悪な状況になる。
「柏木さん、すみません。なんとか落ち着いてください」
「あんたのせいよ。あんたが来なきゃ、こんなことにはならなかったのよ。もういいから、帰ってよ…」
周りに投げる物がなくなり、肩で息をしていた柏木さんは落ち着くかと思ったら、今度は血相を変えて掴み掛ってきた。
「もういいから出ていきなさいよ。もう、いいって言っているじゃない!早く出ていけ」
「ちょ、ちょっと柏木さん。落ち着いて」
「早く出ていけ。もういい。あんたがここからいなくなることを私は望んでいるのよ」
無理やり玄関から押し出されそうになる。ここで外に出ていってしまったら、カギをかけられてもうおしまいだ。ここまでこじれたなら、警察ざたにもなってしまうだろう。俺も必死だった。
「ちょっと待ってください。柏木さん」
大声で叫ぶが、髪を振り乱しながら掴み掛る柏木さんには通じない。もうだめかも、と思った瞬間、自分でもどうしてそうしたかわからない中、俺は叫んでいた。
「雅彦!出てこい!お前はどう思っているんだ!この状況を!」
柏木さんが敏感に反応する。
「やめてちょうだい!雅彦には関係ないじゃない!いいから出てけって、この!」
「雅彦!いるんだろ!出てこい!先生と話をしよう。お前はいったいどう思っているんだ?いじめられているのか?なんで学校に来ないんだ。答えろー!」
これ以上出ないって大声で叫ぶ。すると、二階の方からストンストンと雅彦は階段を降りてきた。柏木さんが叫ぶ。
「雅彦!出てくるんじゃないって言ったでしょ!」
その声を無視して雅彦が言った。
「僕は自閉症だから、学校に行かないんだよ」
一瞬、時が止まったような気がした。「?」マークが音を立てて出てくるかないんじゃないかってくらい、俺はポカンとしてしまった。しかし、柏木さんの力が抜けて、へたり込んだ時に状況を理解した。
「僕は自閉症だから、学校に行かないんだよ」
同じフレーズをもう一度繰り返し、焦点の合わない目で雅彦はこっちを見た。柏木さんはへたり込んで、すすり泣き始めた。
全く予想していなかった状況を理解した俺は、辺りを見回す。ぐちゃぐちゃになった玄関、へたり込んで泣く柏木さん、そして自閉症の雅彦。
何を、どう始めていけばいいのだろう。泣きたくなったのはこっちだ。




