金子正一の話 7
今日で雅彦が学校に来なくなって三週間が経つ。他の子ども達には具合が悪いで通しているが、さすがにもうごまかせなくなってくる。子ども達も純真なのか、悪意があるのか、
「先生、雅彦君学校来れないのって本当に具合が悪いの?なんかお母さんが、不登校だって言ってたよ。不登校なの?」
と面と向かって言ってくるので、返答に困る。
「学校に来てないってことで不登校って言ったらそうかもしれないけど、具合が悪くて来れないってのは本当だよ」
ウソは言っていない。心の病は本当だから。
いや、心の病なのだろうか?柏木さんのお母さんとのイザコザが雅彦を学校に来れなくしているのではないのだろうか?
この三週間、プリントはおろか電話も何回もかけてきたが、ここ数日は電話もつながらない状態だった。柏木さんの要求は、いじめの解決を求めている訳ではなく、「担任を替えるか、斎藤貴志を転校させろ」というものになっていた。それ以外の会話は成り立たなくなっている。管理職には何度も相談しているが、平行線のままだった。
正直なところ、電話が鳴るのが恐ろしい。電話がなると、その全てが柏木さんのように思う。そして、その電話先でこう叫ぶのだ。
「いつになったら担任変わるのよ!さっさと降りなさいよ、役立たず!」
と。
授業は今のところ滞りなく行えてはいるが、今後はどうなるかわからない。自分でも明らかに笑顔が減っているのがわかる。クラスの子ども達との会話も減った。何をどうしていいのかわからない。このクラスから降りたら、楽になるのだろうか?
過去に担任を降ろされた同僚を見てきた。その多くが授業崩壊が引き金となる。授業が成立しないので、教務、教頭、校長などの時間を取ることができる教師が教師に張り付く。張り付かれた子ども達の心は荒んでいき、担任の心はより荒む。そのうちに担任が学校に来ることができなくなり、教務などがその担任の代わりに授業を行う。そして、担任は人知れず辞めるか、勤務先を変えることになるのだ。みるみる表情が消えていく担任を見て、同情しながらも情けなく思ったものだった。
しかし、今ならその気持ちがわかるように思う。何をどうしたら解決するのかわからないのだ。こじれにこじれた、関係の糸はほぐすことができない。いっそのこと切り捨てたくもなる。切ってしまうということは、俺が担任を降りるということだが。
帰りの会を終わらせ、そそくさと教室を後にした。職員室に入ると、少し気持ちがほっとする。とりあえず今日も一日終えることができた。
できる教師が聞いて呆れる。自分の考えていた「仕事のできる教師像」はこんなはずではなかった。保護者との対応だって、もっとスマートに解決できるはずだったのに。
教科書を机に置いて力らなく椅子に座った。もう動きたくない。
「金子先生、ちょっと校長室に来て」
教頭が優しい声で言った。優しい声はあくまで無理をして出しているのがわかった。目は全く笑っていない。また、何かあったんだろう。
「もう、なるようになれよ」
と心の中であきらめにも似た言葉をつぶやいた。自分でも、行くところまで行ってしまうんだろうなぁとわかっている。これ以上は何があっても驚かないつもりだ。
校長室に入って、教頭が口を開く。校長は外出中だ。
「金子先生、今、教育委員会から連絡があって、金子学級では教師が子どもをいじめている、という匿名のメールが入っているそうだ」
驚かないつもりだったが、そこまでやるのか!と驚いてしまった。もう、完全に相手は手段を選んでいない。
「匿名……ですか?匿名って言っても、柏木さんしかいないですよね?」
「まぁ、間違いないだろうな」
と教頭は、いつもの苦虫をゴリゴリ噛んだような顔をする。
「……それで、どうなるんですか?」
「今、校長が委員会に行って必死で食い止めている。これが、食い止めることができずに公表されたら終わりだよ。議会にでも話が行ったら、金子先生だけじゃなく、校長や俺も飛ばされることになるかもしれないな」
「そんな……そんなことになりうるんですか?」
テレビの中でしか知らなかったようなものが、こんなにも簡単に自分に降りかかってくるとは思わなかった。教頭は目を細めて続けた。
「もう、金子先生だけの責任っていう訳ではいかないところに来ているんだ。俺や校長も含めて瀬戸際なんだよ」
「たかだか三週間子どもが来なかっただけ、しかもいじめの事実はない。そんなことで、僕たちが責任を取らされるんですか?」
「そうだ」
目の前がグワングワン揺れている。安定した俺たち公務員の安定って、こんなにも儚いものだったのか?
「そこでね、金子先生、相談なんだけど」
「……はい。なんでしょう?」
「あのさ、言いにくい部分でもあるんだけど。担任、降りてくれないか?」
「え?担任……をですか?」
「いや、今すぐとは言わないけど。このまま状況が良くならないなら、俺たち管理職が入るなりしなきゃならないと思うんだ」
「そんな……」
「今まで時間はあったし、なんとかすることもできたと思うんだ。でも、なかなか改善はされなかった。それは俺たち管理職の責任でもあるからさ。だからこそ、ね?」
絶句する、というのはこういう時に使うのだと思った。言葉が出ない。思考もうまくまとめることができない。
浜田教頭は苦く優しい顔をしようとする。無理をしていることはわかるが、教頭なりに担任を外れろというのは心苦しいのかもしれない。それでも管理職として、末端の教員の責任を取る気はなさそうだ。自然と睨みつけてしまっている自分に気づいても、もういい。「明日からとは言わないさ。金子先生にも心の準備があるだろうしね。とりあえず、そういう心つもりをしておいてもらえたらと思う。ま、ショックとは思うけど、君はまだまだ若いからさ、こういうこともあると思うんだ。気を落とさないで、な」
「教頭先生、俺……」
何か言葉を出さなきゃならないとは思うが、具体的な言葉は出てこない。そして、ほんの少し安心している自分にも気づいてしまった。俺は、担任から外されると言われて、ホッとしている。あの子ども達に、柏木さんにもう関わらなくていいと思って、よかったと思っている自分が確かにそこにいた。それは、ゆるぎない事実でもあった。
「いいんだ。なんとかするからな。金子先生の責任だけじゃあない。こういうことも、教員を続けているとあるさ。気にしないでいいからね。それじゃあ詳しいことは明日にでも話をするから。保護者説明会なんかも開かなきゃならないしね」
浜田教頭は、話を切り上げてしまった。それじゃあ、と言って校長室から出ていくので、俺もその後についていく。自分の席に座ってからも、しばらくは動けなかった。何をどうしたらいいのだろうか?わからなくなってきた。
呆然自失な俺に気づいたのか、目の前の岡部先生が声をかけてきた。