金子正一の話 6
誰もいない教室で、頬をパンパンと打つ。そして、「ヨッシャ」と気合を入れる。今日は入念に気合を入れた。今日が勝負だと思う。昨日はあの後、今日の授業の準備を入念に行った。雅彦だけに気をかけてはいられない。学級経営は一つのほころびから一気に崩壊する、という話を聞く。一人の子どもに時間をかけすぎて他の児童を放置する。それによって、加速度的にクラスは荒れていく。そういう状況にする訳にはいかない。
「あ、先生、おはようございます」
「おはようございます。晃さん、今日は学校来るの早いね。早起きでもしたの?」
「今日は日直だから早く来たんだ。今日の目当て何にしようかなぁ?」
「あ、日直さんだったんだね。今日もよろしく頼むね」
朝の心地よい会話だ。クラスの児童とは柔らかく接する。
「うん、今日は朝のスピーチでドラクエのこと話すんだ」
「そうかい、先生も昔はドラクエ好きだったんだよ」
「えー、そうなんだ~!」
こういう会話を楽しいとは思わないが、こういう会話が子どもとの関係を作る。子どもの中で流行っているアニメやゲーム、どんどんと量産されるアイドルグループなどは確実にチェックしておいている。話が合う教師というだけで、一目置かれる。そういう努力すらしていない教師が多いので、それだけで差別化が図れるのだ。ひとしきりドラクエについて語っていると、日直の晃が聞いてきた。
「先生、今日はお休みいるかな?」
顔が曇るのを自分でも感じた。
「どうだろう?まだ連絡は来ていないよ。どうしたの?」
「いや、お休みいたらお見舞いカード書くからさ」
五年生ではお休みがいた時にはお見舞いカードというものを日直が書く。その日学習したこと、お見舞いメッセージなどを書いて届けるというものだった。昨日はあたふたしていて、書かせるのを忘れていた。こういう物から突破口を作ればいいのではないか?
「もし、お休み出たら書いて頂戴ね。昨日は雅彦さんが休んだけど、昨日の日直さんは書くの忘れたみたいだね」
「貴志だからしょうがないよ。先生、許してあげてね」
貴志はクラスで一番やんちゃな子だ。体は大きくて落ち着きがないから、よく周りの子とトラブルになる。しかし、根は優しい子で、飼育係の時には一生懸命お世話をするような子だった。
「いいよ。忘れることなんて誰もあるから」
晃との会話を切り上げ、職員室に戻る。時間は七時五〇分、まだ柏木さんからの電話はない。やはりここは先に電話をかけるべきか?それとも待つべきか?
五五分まで待って、こなかったらかけよう!と決心したが、やはり五五分になっても電話は来ない。かけようと思うが、やっぱり八時まで待とうかな?と気持ちが揺らぐ。電話とにらめっこしていも仕方がないので、恐る恐る受話器に手を伸ばした。
リリリリリーン
来た!後手に回ったことを少し後悔しながら、電話に出る。
「もしもし、北星小学校の金子です」
「もしもし、あ、金子先生ですか?柏木です」
「おはようございます。今、ちょうど電話かけようと思っていたんですよ」
「そうですか。じゃあ、ちょうどよかったですね」
「えぇ……で、どうですか?雅彦さんの様子は?」
「もちろん元気ないですよ。家の中でしょげています。先生、今日も一日休ませようと思うの」
「今日もですか……いじめについて何か言っていましたか?」
「クラスのみんなから避けられる、僕のことなんて誰も相手にしてくれない、って言っているって、昨日も話しましたよね」
「はい。でも、誰かが率先してそういうことをしているという感じはしないんですよ」
「その言い方だと、うちの子が元々クラスに馴染んでなかったっていうことになりますか?四年生の春に転入してきて、それからずっと浮いてたってことですか?」
「浮くというとあれですけど……自分から、積極的に話しかけていくタイプではありませんよね?」
「家ではそんなことないわ。参観日なんかの様子を見ていると、話しかけてないで自分一人の世界に入っている感じもなかったわよ」
「いえ、なんて言ったらいいのかな……」
「ここ最近そういうことになってるんじゃないの!だから、あなたの学級経営とか周りの子のいじめで雅彦は学校に行けなくなったんでしょ?もうちょっと真剣に考えてください。なんとかしてもらわなきゃ困ります」
「なんとかと言われましても……クラスの子には『いじめられていると言って学校に来れないんだ』と話してもいいんですか?」
「そんな訳ないでしょう?そんなこと言ったら雅彦がかわいそうでしょう?先生、デリカシーなさすぎですよ。だからいじめのことを気づかないんじゃないですか?」
「じゃあ、どうやっていじめている人を見つけるっていうんですか?」
「その辺りは先生がうまくやってくださいよ!あの貴志とか言う子とか、いっつも周りの子に乱暴だって言うじゃありませんか?たぶんあの子が周りにけしかけているですよ」
「そうやって雅彦さんは言ったんですか?」
「言ってはいないけど、たぶん絶対そうよ。雅彦がちょっと勉強できるからって、ひがんでいじめてるんだわ。そうよ、貴志とかいう子を転校させてちょうだい」
「そんな無理な話……」
「とにかくどうにかしてちょうだい!それまで雅彦は学校に行けないんですからね!」
「と、とりあえず、雅彦さんって起きてますよね?少し話をさせてもらうことできませんか?」
「起きてますけど、話したくないって言いますよ」
「聞いてみてもらえませんか?雅彦さんがどう思っているのか聞かなきゃ、対応もなかなかできません」
「担任なんだから、その辺りのことはわかるでしょう?問題が解決するまでは、話をさせることもできません。雅彦がかわいそうです」
「いや、ですから、問題を解決するために、お母さんの口からではなく、雅彦さんの口からどういうことか知りたいんです」
「いやです。雅彦と話はさせたくないです」
「じゃ、じゃあ、今日の放課後とかお邪魔していいですか?電話じゃなくて、直接会って話をすることができたら、より……」
「無理です。もう、いいですから、なんとかしいてくださいよ!」
ガチャン、ツーツー
だめだ……柏木さんは明らかにおかしくなっている。当の雅彦はどういうことを話しているんだろう?四年生の始めに転校してきて、話があんまり合わないとはいえ、クラスの中でもやってきていたはずだ。話しかけて無視されるとかいう感じではなかったはず。むしろ、雅彦の方が色んな人に積極的に話しかけていたように思う。それに対して、貴志が何か裏でしているとは考えにくい。
結局、雅彦とちゃんと話をしなきゃ事態は何も変わらないことがわかった。ため息をつきながら、机のコーヒーに手を伸ばすと、浜田教頭と目が合った。偶然目が合うというよりは、睨みつけられている感じだ。仕方がない、報告はしなくてはならない。
「教頭先生、柏木さんからの電話でした」
「見てればわかるよ。その感じだとやっぱり収穫なし所か、よりこじれたんじゃないか?」
「……すいません。いじめをなくせ、いじめていた奴を転校させろ、家には来るな、で突っぱねられました」
肩を落としながら言うと、教頭の目がキラリと光った気がした。
「突っぱねられたじゃないんだよ!なんとかしなきゃならないだろう?」
「そうですね……とりあえず、今日は具体的に動いてみます。クラスの子にそれとなく状況を聞いたり、子どもにプリントを届けさせたりしてみますね」
「頼みますよ。でも、なんとか周りの子が『いじめられて不登校』という事実には気づかないようにお願いしますね」
教頭はやはり点数稼ぎに必死なのだろう。俺が自分でなんとかするしか、やはり方法はないようだ。
とりあえず、さっき名前が出ていた貴志に当たってみる。貴志は遅刻ギリギリで学校に来るから、中休みに話を聞くことにした。
二時間目の終了のチャイムと同時に、教室から飛び出していきそうな貴志を手招きする。「うげぇ」と絵にかいたような顔をする。呼ばれる=説教される、という図式が彼の中に出来上がっているのだろう。ま、あながち間違いではないけれど。昨日のお見舞いカードの件から切り出すことにした。
「何、先生?俺、なんか悪いことした?」
「何か怒られるようなことしたのかい?」
「いや……宿題、本当はやってきてませんでした。すみません。明日、やって必ず持ってきます」
苦笑いをしてしまう。でも、ここで正直に話せるということは、やんちゃに見えてもまだ子どもなんだな、と思う。
「宿題のことじゃないよ。昨日の日直のこと」
「え?昨日の?なんかあったっけ?」
「日直の仕事、全部やったかい?」
「やったと思うけど……」
「お見舞いカードは書いたかい?」
「え?昨日お休みいたっけ?」
「雅彦さんが休んだでしょ、気づかなかったかい?」
「あぁ、そうだね。んで、給食のプリンのおかわりジャンケンで勝ったんだ。お見舞いカード、書かなかった。すみません」
「いや、もういいんだ。でも、今回のカード、本当に書くの忘れていただけ?」
「え?なんで?」
「なんか雅彦さんにお見舞いカードを書きたくないのかな?って思って。雅彦さんのこと苦手だったりする?」
「いや、嫌いじゃないけど……」
貴志の顔が曇った。裏でいじめているから後ろめたい気持ちがあるのだろうか?
「けど……?」
「いや、なんかあいつ、ポケモンの話ばっかだし、こっちが何話してもポケモンの話に持ってくから、ちょっと、なんか……」
「それで避けたり、無視したりするのかい?」
グッと一歩踏み込む。貴志は慌てて言った。
「いやいや、そういうのはないけど、ちょっと困ったりはしてた。だって、委員会の話し合いの時かにもポケモンの話ばっかりなんだよ。最近はパソコンの話になってたっけ?なんかスペックがどうこうとか……わかんないんだもん」
少しすねた感じで言う。いじめている、というよりは困惑していると言った感じかもしれない。少し助け舟を出してやることにした。
「いや、いじめているとかは思わないけど、あんまり仲良くないような気もしてさ。どうしたんだろう?と思ったんだ」
「仲悪くはないよ。帰る方向同じだから、一緒に帰ったりするし」
「そっか。同じ方向だもんね。じゃあ、今日の日直とお見舞いカード書いて、帰りに届けてあげてくれないかい?」
「いいよ。今日の日直は真美だっけ?」
「真美さんには声かけておくからさ。よろしく頼むね」
「うん」
やっぱり雅彦はちょっと浮いている。自分の好きなことの話しかしないから、周囲と馴染めていないというのは確実だ。それを嘆いて学校に来たくない、いじめだ、と言うのは果たして本当のいじめなのだろうか?
「ねぇねぇ、先生」
「ん?」
「雅彦って、なんで休んでるの?誰かにいじめられてんの?」
子どものカンは恐ろしい。ドギマギしながら返答するしかなかった。雅彦と関わりのありそうな子にも何人か話を聞いてみたが、結局雅彦をいじめているような様子はなかった。ただ、口をそろえてみんな、「話が合わない」ということは言っていた。周りが合わせないのだろうか?それとも雅彦が合わせてないのだろうか?どちらにしても、「いじめられている」という雅彦の真意はどこから来るのだろう?プリントは貴志に持たせることにした。
その放課後、また柏木さんから電話があった。
「先生、ふざけないでよ!」
「え?どうしたんですか?」
「どうしてあの貴志って子がうちに来るのよ。あの子にいじめられているのに、その子が来て雅彦が嬉しいと思う訳ないじゃない!」
「いや、貴志さんは昨日の日直でして、そして帰る方向も一緒だというので持たせました。話はされたんですか?」
「する訳ないじゃない!インターホン押されても無視したわよ。雅彦の為よ。当り前じゃない!」
「雅彦さんが、無視したいって言ったんですか?貴志さんが来たから嫌に思ったとか?」
「雅彦はあいつが来たってこと自体知らないわよ。いじめっ子が家に来た、なんて言うと思います?どうしてあの子をよこしたの?デリカシーって言葉知ってます?昨日から私の話、何にもわかってないんじゃないですか?」
「貴志さんとは話をしましたよ。いじめなんて全くしてないって言うことでした」
「だから彼をよこしたってこと?私がウソをついているとでも言うの?そういう皮肉を込めてるの?」
「誤解ですよ。昨日の日直が彼で、お見舞いカードを書き忘れたので、今日の日直と協力して書きました。そして、貴志さんの帰り道に柏木さんの家があるので届けてもらったんです。貴志さんは雅彦さんとよく一緒に帰るって言ってましたよ」
「雅彦と一緒に帰るのだって、どうせいじめるためでしょう!一緒にいるからこそいじめられるってこと、教師なのになんでわかんないのよ!」
「……他の子にもそれとなく話は聞いてみましたけど、特に雅彦さんに対して何か特別なことをしているって子はいませんでしたよ」
「じゃあ、うちの子もウソをついているって言うのね?いじめられているってウソをついているってことなのね?」
「いえ、けど、なんだか話が合わないって言う子もいました。なんかそういう話とか言ってませんでした?」
「みんな僕の話を聞いてくれない!って嘆いてましたよ。話が合わないっていうことじゃなくて、みんなで無視しているってことなんじゃないんですか?」
「そうじゃないですよ。僕が担任としてみていても不自然に外したりってことはないです」
「だから!そういう風にするってことは、担任も含めた学級ぐるみのいじめじゃないのよ!雅彦の言うことが信じられてないっていうの?自分のクラスの子を信じられないって言うの?」
「ですから!ですから、、雅彦さんと話をさせてくださいって言っているんです!いつでもすぐに駆けつけます。学校に来てくださってもいいですし、今からすぐにお邪魔しても構いません。実際に会って話をさせてください!」
「……だめよ。そんなことになったら、雅彦がかわいそうだもの……」
「どんなことをいじめだと思っているのか?何で苦しんでいるのか?それを解き明かさないと、心が休まらないんじゃないでしょうか?」
「……うるさいわね!わかっているわよ!だから、いじめられて心が痛んでいるんでしょ?雅彦とは話はさせません!早くあの貴志って子を転校させてください!」
ガチャン、ツーツー。
もうだめだ。俺は職員室の天井を仰いだ。完全にこじらせてしまった。ここからどういう風に持っていけばいいか想像がつかない。完全にひねくれてしまっている。何を言っても堂々巡りのままだ……