金子正一の話 5
今日は全然眠れないだろう。
校長室に呼ばれ、教頭にたっぷりと絞られた。どうしてすぐに家庭訪問しなかったんだ!どうしてすぐに俺たちに相談しなかったんだ!クラスの子ども達に話をすることはなぜしなかったんだ!と怒鳴られ続けた。相談しようとしたら、自分でなんとかすれって言ったんじゃないですか!と言い返したくもなったが、そこまでの気力がなくなってしまった。言い返すこともできず、うなだれるだけだった。あのシーンを思い返すだけで、頭をかきむしりたくなる。なぜ、俺はもっとスマートに対応することができなかったのだろう。これでは、まるで仕事のできない教師ではないか。
このまま家に帰っても、悶々として眠れないだろう。かといって、酒に逃げるのも気に食わないので、いつものビリヤード場に車を止めた。学生時代から、暇さえあればビリヤード場に通い、練習を重ねている。腕前はプロ級、と言いたいところだが、実は全然上手くなっていない。下手の横好き、とは昔の人もよく言ったものだ。それでも、球を突いていると頭がスッキリする気がするので通ってしまう。この町に来る前は、もう少し都会だったのでマンガ喫茶などにあるビリヤード台で遊ぶことも多かった。独り身というのは、こういう時に楽だなぁ、と思う。こんな気分のまま、奥さんや子どもの相手なんてできるわけがない。
いつも来るビリヤード場は、ここ「撞夢」だ。北海道の田舎にあるビリヤード場なので、スタイリッシュさからはほど遠い。ずいぶん昔にあったビリヤードブームの時の産物で、二階建てのビルの一階にはゲームセンターが入っていたがとっくにつぶれ、それ以来「テナント募集」の紙が貼られている。この撞夢も時間の問題だろう。
この町に来た時から、小さなビリヤードと書かれた看板が気にはなっていた。赴任して一週間しないうちにドアを開けた。フロアには4台のビリヤード台が置かれおり、カウンターには髭面の無愛想な男が立っていた。
「こんにちは、ここ来るの初めてなんですけど、少し突かせてもらっていいですか?」
「一時間、五〇〇円」
初日の会話はそれだけだった。キューを借りて、一人でナインボールを始める。一から九までの的玉を、手玉を使って落としていく一番基本的なゲームである。ボールをセットし始めて、手入れがすさまじくしっかりとされていることに驚いた。シワ一つないラシャ(台に貼られている布)、キューは少しも曲がることなく高級感がある。タップ(キューの先についている皮)は少しもすり減っていないし、台に置かれているチョーク(タップにつける滑り止め)は新品同様だった。今までのマンガ喫茶に置いてあるようなビリヤード場とは天と地の差がある。こんな片田舎の町にあるビリヤード場にしておくにはもったいないくらいだ。
そのギャップにやられ、こうしてちょくちょく通うようになり、寡黙なマスターとも少しずつ会話もできるようになっていた。カバンをカウンター横の椅子に投げ、キューを受け取る。店内に客はいつものようにいないく、BGMである有線のジャズが静かに鳴っていた。
いつものようにナインボールを始めた。柏木さんとの電話を思い返しながら、手玉を突く。パカーン、という音と共に九つのボールが散った。的玉は一つもポケットに入らなかった。
それから一時間ほど没頭したものの、全く調子が出ない。やってもやっても、球はポケットに入ることがない。好きなことのはずなのに、うまくいかないと面白くない。まさに、今の俺の仕事のようだ。ため息をつきながら、カウンターのマスターに声をかけてオレンジジュースを出してもらう。無愛想なマスターが声をかけてきた。
「今日、どした?」
「なんか調子出ないんですよね……」
「迷いがあるからだろ。精神面がもろに出る」
「そんなもんですかね」
出してもらったオレンジジュースをすすりながらカウンターに目を落とした。ここのオレンジジュースは注文するたびにオレンジを絞って出してくれる。こだわりなのだろう。こんな田舎のビリヤード場ではありえないはずだ。
「少し一緒に突こうか?」
マスターがそんなことを言ったのは初めてだった。一緒に突いたことなんてない。
「えっ?いいですか?」
「いいよ」
とだけ言って、マスターはカウンターの下からキューを入れているトランクを取り出した。中からキューを出して、台に向かった。俺は急いでオレンジジュースを飲みほした。
「ブレイクショットはお前からでいいよ」
九ボールの形に球を組んでいたマスターが振り返らずに言った。言われるままにブレイクショットをする。一球も入らなかったのが、少し恥ずかしい。
九ボールでは、手玉を使って番号順に的玉を落としていく。的玉が入らなかった時には突く人間が交代することになる。また、自分の番の時に的玉に触れなかったり、手玉をポケットに入れてしまったりしてはファウルとなる。ファウルとなったら、相手は自分の好きな所に手玉を置いてスタートすることができるのだ。
ブレイクショットで一つも入らなかったので、マスターの番になる。マスターは一番の的玉から軽やかにポケットに入れていく。まるで、ポケットを巣穴をしている生き物かのようにスルスルと的玉は飲み込まれていった。
九番のボールまで交代することなくマスターは突き切ってしまった。容赦がない。少しくらい手加減してくれてもいいだろうに……
「もう一戦行こうか」
と言いながら、マスターはボールをセットしていく。ブレイクショットはマスターからだ。
「パカーン」
という心地よい音とともに、一つ、二つと穴に落ちていく。合計三つの球がポケットに入った。マスターがぽつりとつぶやく。
「思い切りが大事なんだよ」
「……思い切り、ですか?」」
「そう。やりたいように思い切ってやらないと」
マスターはマスターなりに、俺のことを励ましてくれているのかもしれない。無愛想なものの言い方は相変わらずだが、嫌な感じはしなかった。
「ほれ、お前の番だぞ」
五番の的玉を落とすことができなかったので、突く順番が交代になった。俺は、今までより少し思い切り突いた。明日、自分の正しいと思えることを思い切りやってみようかと思えた。
五番の的玉は入らなかったけど。