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死ねない魔女の呪い

後日談 恋慕の円環

作者: 守えま
掲載日:2026/05/17

朝が、好きになった。

昔は嫌いだった。


夜明け前の青い光も、冷えた床も、窓辺に立つ銀髪の背中も。

全部、あの人の孤独を思い出させたから。


けれど今は違う。

朝になると、アニエスが目を覚ます。

それだけで、世界は少しやわらかくなる。


「アニエス」

と僕が呼ぶと、


「……リオ」


寝起きの掠れた声で、アニエスが僕の名前を呼ぶ。

それが、毎朝の始まりになった。


彼女は薄く目を開けると、銀の睫毛を震わせ、ぼんやりと僕を見る。

昔の彼女なら、こんな顔は絶対に見せなかった。

隙だらけで。

眠たげで。

少しだけ甘えるような顔。


「……寒い」

「毛布が足りませんでしたか」

「足りないわ」

「…では、こちらへ」

腕を広げると、アニエスは一瞬だけ迷ったふりをする。

本当に一瞬だけ。


それから、何でもない顔をして僕の胸に額を押し当ててくる。


「仕方ないからよ」

「ええ」

「寒いから」

「ええ」

「あなたに抱きしめられているんじゃないから」

「そうですね」


そう答えて、僕は彼女を抱きしめる。

細い背中。

温かい身体。

規則正しく脈打つ心臓。

それを感じるたびに、胸の奥が苦しくなる。


生きている。

アニエスが、生きている。

ただ、それだけのことが。

僕には、どうしようもなく愛おしかった。



アニエスは、人間になってから感情の起伏が激しくなった。


「リオ」

「はい」

「この身体、燃費が悪すぎるわ」

「お腹が空いたんですね」

「そうは言ってない」

「朝食にしましょう」

「だから、そう言ってないと言っているでしょう」


そう言いながら、食卓につく。

焼きたてのパンを前にすると、彼女は黙る。

紅茶に蜂蜜を落とすと、少しだけ機嫌が直る。

苺のジャムを出すと、完全に許される。

分かりやすい。

とても。


「……甘い」

「甘いの嫌い?」

「嫌いなら食べないわ」

「では、もう一つどうぞ」

「いらない」


そう言いながら、視線は皿の上に残ったパンの最後の一切れを追っている。

僕はそれを、彼女の皿へ置いた。

アニエスが眉を寄せる。

「子供扱いしているの?」

「大切に扱っているんです」

「同じことでしょう」

「違います」

「どこが」

「子供扱いなら甘やかします」


僕は彼女を見つめる。


「大切に扱うなら、もっと甘やかします」


アニエスの手が止まった。

耳が赤くなる。

分かりやすい。

本当に。




彼女は眠るようになったが、最初の頃は、それをひどく怖がった。


「眠ったら、次に目が覚めないかもしれない」

そう言った夜がある。

月のない晩だった。

かつて世界で一番恐ろしかった魔女が。

眠ることを恐れていた。


「起こします」

「簡単に言わないで」

「簡単ではありません」

「眠ったまま、何も聞こえないかも」

「聞こえるまで呼びます」

「それでも駄目なら?」


僕はベッドの横に膝をつき、彼女の手を取った。


「あなたが眠っている間、僕が見ています」

「……ずっと?」

「ずっと」

「退屈よ」

「慣れています」

「嘘」

「嘘ではありません」


昔は、夜明け前のあなたを見ていました。

誰にも気づかれないように。

ひとりで窓辺に立つあなたを。

声をかけることもできずに。

ただ、見ていた。

でも今は違う。

今は、触れていられる。


「だから、眠ってください」


しばらくして、アニエスは、ゆっくり目を閉じた。

長い睫毛が頬に影を落とす。


「アニエス、おやすみなさい」


ゆっくりと、アニエスの呼吸が深くなる。


眠った。


僕はその顔を見つめたまま、動けなかった。

こんなにも無防備で。

こんなにも穏やかで。

こんなにも、僕のもののようにベッドに横たわっている。

たまらなかった。

胸の奥が、甘く崩れていく。


アニエス。

あなたは知らない。

僕がどれほど、あなたを愛しているか。

死なせたくなかったんじゃない。

生きてほしかった。

笑ってほしかった。

怒ってほしかった。

眠って、目を覚まして、僕の名前を呼んでほしかった。

それを全部、僕だけの隣でしてほしかった。


そして、僕は起こさないよう、そっと彼女の髪に口づけた。




春が過ぎ、夏が来た。

アニエスは暑さにも弱かった。


「人間、脆すぎない?」

「今日は少し暑いですね」

「少し、ですって? 正気?」

「日陰に入りましょう」

「歩きたくない」

「では、抱えます」

「待って。私はそこまで弱っていないわ」

「そうですか」

「……でも」

「はい」

「あなたがどうしてもと言うなら、仕方なく許してあげる」


仕方なく。

そう言いながら、彼女は両腕をこちらへ伸ばす。

本当に、どうしようもない人だ。

僕は膝裏に腕を差し込み、彼女を抱き上げた。

軽い。

昔なら、魔力だけで城を崩せた人なのに。

今は僕の腕の中で、少し恥ずかしそうに目を逸らしている。


「見ないで」

「見ています」

「見るなと言ったでしょう」

「無理です」

「なぜ」

「可愛いので」


アニエスが固まった。

次の瞬間、僕の肩を軽く叩く。


「下ろして」

「嫌です」

「命令よ」

「聞けません」

「私はあなたの師よ」

「今は妻です」


その言葉に、彼女は黙った。

頬が赤い。

首まで赤い。

本当に、分かりやすくなった。


「……妻、ではないわ」

「指輪を受け取ったでしょう」

「勢いよ」

「外していません」

「外す理由がないだけ」

「毎晩、寝る前に見ていますよね」

「見ていない」

「光にかざしていました」

「見ていない」

「微笑んでいました」

「見てない!」


彼女は僕の胸に顔を埋めた。

それ以上見られたくなかったらしい。

僕は笑いをこらえながら、彼女を抱き直す。


「アニエス」

「何」

「幸せですか」


腕の中で、彼女が少し動きを止めた。

それから、僕の服を掴む指に力がこもる。


「……腹が立つくらいには」

「それはよかった」

「よくないわ」

「どうして」

「あなたがいないと、困るようになった」


小さな声だった。

けれど、僕には十分だった。

心臓を直接撫でられたみたいだった。


「責任を取ります」

「当然よ」

「一生、甘やかします」

「限度を覚えなさい」

「無理です」

「努力しなさい」

「できません」

「即答しないで」


僕は彼女の額に口づけた。


「あなたに関してだけは、僕は一切あなたに妥協できません」


アニエスは、しばらく黙っていた。

やがて、僕の首に腕を回す。


「……本当に、拾うべきじゃなかった」

「後悔していますか」

「しているわ」

「そうですか」

「あなたを拾ってしまったせいで」


彼女は僕の耳元で、ひどく小さく囁いた。


「もう、一人に戻れなくなった」


その瞬間。

僕は、彼女を抱く腕に力を込めた。


「戻させません」

「……強引ね」

「あなたに教わりました」

「最低の弟子」

「最高の夫です」

「まだ認めてない」

「では、認めるまで待ちます」

「どれくらい?」

「一生」


そう答えると、アニエスは軽く笑った。

昔のような冷たい笑みではない。

春の日差しみたいな。

眠りから覚めたばかりの花みたいな。

そんな笑みだった。


「なら、考えておくわ」

「はい」

「長くかかるかもしれない」

「構いません」

「その間、勝手に離れたら許さない」

「離れません」

「私より先に死んでも許さない」

「同じ時を生きる契約です」

「それでもよ」

「はい」


僕は彼女を抱いたまま、ゆっくり歩いている。

風が吹く。

銀髪が揺れる。

アニエスは僕の肩に頬を寄せ、目を細めている。


かつて死だけを望んだ魔女。

その人が今、僕の腕の中で、明日の話をしている。

明日の朝食。

次に植える花。

秋になったら焼く菓子。

冬に使う毛布。

そんな、ささやかな未来を。


「リオ」

「はい」

「明日も、起こして」

「もちろんです」

「紅茶は蜂蜜多め」

「覚えています」

「パンは焦がさないで」

「努力します」

「あと」

「はい」


アニエスは少しだけ顔を上げた。


「起きたら、最初に私の名前を呼ぶの」


胸が、甘く痛んだ。


「アニエス」

「今じゃないわ」

「練習です」

「……!」

「何度でも呼びます」

「……好きにしなさい」

「はい」


僕は微笑む。


「アニエス」

「だから、今じゃないって言っているでしょう」

「アニエス」

「リオ」

「アニエス」

「……もう」


彼女は諦めたように息を吐く。

それから、小さく笑って。

僕の頬に、そっと唇を触れさせた。


「うるさい弟子ね」


僕は足を止めた。

アニエスは平然とした顔をしている。

けれど、耳は真っ赤だった。

本当に。

どうしようもない。

どうしようもなく、愛おしい。


「もう一度」

「嫌よ」

「お願いします」

「嫌」

「アニエス」

「甘えた声で呼ぶのは卑怯よ」

「もう一度だけ」

「……一度だけよ」


彼女はそう言って、今度は僕の唇に触れた。

短く。

不器用に。

けれど確かに。

彼女の温度が、僕の中に落ちてくる。

呪いより深く。

契約より強く。

僕を縛る。


ああ。

きっと僕は、もう二度と自由になれない。

けれど、それでよかった。

僕は最初から、この人に囚われていた。

憎しみで始まり、

殺すために強くなった。

その果てに、僕はこの人を愛した。

死ねない魔女だった人。

今は、僕の隣で生きる人。

僕が一生をかけて甘やかす人。


「アニエス」

「なに」

「愛しています」


彼女は目を逸らした。

でも、逃げなかった。

腕を絡めてくる。

離れないように。

離さないように。


「……知っているわ」

「もっと言います」

「いらない」

「好きです」

「聞いていない」

「大切です」

「黙りなさい」

「可愛いです」

「リオ」

「僕の全てです」


アニエスは黙った。

そして、僕の胸に額を押し当てる。


「……負けたわ」

「何にですか」

「あなたのしつこさに」

「一途だと言ってください」

「愛情が重いの間違いでしょう」

「はい」


僕は彼女を抱きしめた。


「あなたを繋ぎ止めるには重くないと」


アニエスは呆れたように笑った。


春も。

夏も。

秋も。

冬も。

その先のすべての日々も。

僕はこの人を甘やかす。

怒らせて。

照れさせて。

笑わせて。

眠らせて。

朝になったら、名前を呼ぶ。

何度でも。

何度でも。

永遠ではない時間を。

永遠みたいに大切にしながら。


「戻りましょうか」


「……ええ」

アニエスは僕の肩に頬を預けた。


「戻りましょう、リオ」


その言葉だけで、僕は満たされた。

帰る場所がある。

待つ夜がある。

迎える朝がある。

そして、隣にアニエスがいる。

それ以上の幸福を、僕は望まない。


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