後日談 恋慕の円環
朝が、好きになった。
昔は嫌いだった。
夜明け前の青い光も、冷えた床も、窓辺に立つ銀髪の背中も。
全部、あの人の孤独を思い出させたから。
けれど今は違う。
朝になると、アニエスが目を覚ます。
それだけで、世界は少しやわらかくなる。
「アニエス」
と僕が呼ぶと、
「……リオ」
寝起きの掠れた声で、アニエスが僕の名前を呼ぶ。
それが、毎朝の始まりになった。
彼女は薄く目を開けると、銀の睫毛を震わせ、ぼんやりと僕を見る。
昔の彼女なら、こんな顔は絶対に見せなかった。
隙だらけで。
眠たげで。
少しだけ甘えるような顔。
「……寒い」
「毛布が足りませんでしたか」
「足りないわ」
「…では、こちらへ」
腕を広げると、アニエスは一瞬だけ迷ったふりをする。
本当に一瞬だけ。
それから、何でもない顔をして僕の胸に額を押し当ててくる。
「仕方ないからよ」
「ええ」
「寒いから」
「ええ」
「あなたに抱きしめられているんじゃないから」
「そうですね」
そう答えて、僕は彼女を抱きしめる。
細い背中。
温かい身体。
規則正しく脈打つ心臓。
それを感じるたびに、胸の奥が苦しくなる。
生きている。
アニエスが、生きている。
ただ、それだけのことが。
僕には、どうしようもなく愛おしかった。
アニエスは、人間になってから感情の起伏が激しくなった。
「リオ」
「はい」
「この身体、燃費が悪すぎるわ」
「お腹が空いたんですね」
「そうは言ってない」
「朝食にしましょう」
「だから、そう言ってないと言っているでしょう」
そう言いながら、食卓につく。
焼きたてのパンを前にすると、彼女は黙る。
紅茶に蜂蜜を落とすと、少しだけ機嫌が直る。
苺のジャムを出すと、完全に許される。
分かりやすい。
とても。
「……甘い」
「甘いの嫌い?」
「嫌いなら食べないわ」
「では、もう一つどうぞ」
「いらない」
そう言いながら、視線は皿の上に残ったパンの最後の一切れを追っている。
僕はそれを、彼女の皿へ置いた。
アニエスが眉を寄せる。
「子供扱いしているの?」
「大切に扱っているんです」
「同じことでしょう」
「違います」
「どこが」
「子供扱いなら甘やかします」
僕は彼女を見つめる。
「大切に扱うなら、もっと甘やかします」
アニエスの手が止まった。
耳が赤くなる。
分かりやすい。
本当に。
彼女は眠るようになったが、最初の頃は、それをひどく怖がった。
「眠ったら、次に目が覚めないかもしれない」
そう言った夜がある。
月のない晩だった。
かつて世界で一番恐ろしかった魔女が。
眠ることを恐れていた。
「起こします」
「簡単に言わないで」
「簡単ではありません」
「眠ったまま、何も聞こえないかも」
「聞こえるまで呼びます」
「それでも駄目なら?」
僕はベッドの横に膝をつき、彼女の手を取った。
「あなたが眠っている間、僕が見ています」
「……ずっと?」
「ずっと」
「退屈よ」
「慣れています」
「嘘」
「嘘ではありません」
昔は、夜明け前のあなたを見ていました。
誰にも気づかれないように。
ひとりで窓辺に立つあなたを。
声をかけることもできずに。
ただ、見ていた。
でも今は違う。
今は、触れていられる。
「だから、眠ってください」
しばらくして、アニエスは、ゆっくり目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
「アニエス、おやすみなさい」
ゆっくりと、アニエスの呼吸が深くなる。
眠った。
僕はその顔を見つめたまま、動けなかった。
こんなにも無防備で。
こんなにも穏やかで。
こんなにも、僕のもののようにベッドに横たわっている。
たまらなかった。
胸の奥が、甘く崩れていく。
アニエス。
あなたは知らない。
僕がどれほど、あなたを愛しているか。
死なせたくなかったんじゃない。
生きてほしかった。
笑ってほしかった。
怒ってほしかった。
眠って、目を覚まして、僕の名前を呼んでほしかった。
それを全部、僕だけの隣でしてほしかった。
そして、僕は起こさないよう、そっと彼女の髪に口づけた。
春が過ぎ、夏が来た。
アニエスは暑さにも弱かった。
「人間、脆すぎない?」
「今日は少し暑いですね」
「少し、ですって? 正気?」
「日陰に入りましょう」
「歩きたくない」
「では、抱えます」
「待って。私はそこまで弱っていないわ」
「そうですか」
「……でも」
「はい」
「あなたがどうしてもと言うなら、仕方なく許してあげる」
仕方なく。
そう言いながら、彼女は両腕をこちらへ伸ばす。
本当に、どうしようもない人だ。
僕は膝裏に腕を差し込み、彼女を抱き上げた。
軽い。
昔なら、魔力だけで城を崩せた人なのに。
今は僕の腕の中で、少し恥ずかしそうに目を逸らしている。
「見ないで」
「見ています」
「見るなと言ったでしょう」
「無理です」
「なぜ」
「可愛いので」
アニエスが固まった。
次の瞬間、僕の肩を軽く叩く。
「下ろして」
「嫌です」
「命令よ」
「聞けません」
「私はあなたの師よ」
「今は妻です」
その言葉に、彼女は黙った。
頬が赤い。
首まで赤い。
本当に、分かりやすくなった。
「……妻、ではないわ」
「指輪を受け取ったでしょう」
「勢いよ」
「外していません」
「外す理由がないだけ」
「毎晩、寝る前に見ていますよね」
「見ていない」
「光にかざしていました」
「見ていない」
「微笑んでいました」
「見てない!」
彼女は僕の胸に顔を埋めた。
それ以上見られたくなかったらしい。
僕は笑いをこらえながら、彼女を抱き直す。
「アニエス」
「何」
「幸せですか」
腕の中で、彼女が少し動きを止めた。
それから、僕の服を掴む指に力がこもる。
「……腹が立つくらいには」
「それはよかった」
「よくないわ」
「どうして」
「あなたがいないと、困るようになった」
小さな声だった。
けれど、僕には十分だった。
心臓を直接撫でられたみたいだった。
「責任を取ります」
「当然よ」
「一生、甘やかします」
「限度を覚えなさい」
「無理です」
「努力しなさい」
「できません」
「即答しないで」
僕は彼女の額に口づけた。
「あなたに関してだけは、僕は一切あなたに妥協できません」
アニエスは、しばらく黙っていた。
やがて、僕の首に腕を回す。
「……本当に、拾うべきじゃなかった」
「後悔していますか」
「しているわ」
「そうですか」
「あなたを拾ってしまったせいで」
彼女は僕の耳元で、ひどく小さく囁いた。
「もう、一人に戻れなくなった」
その瞬間。
僕は、彼女を抱く腕に力を込めた。
「戻させません」
「……強引ね」
「あなたに教わりました」
「最低の弟子」
「最高の夫です」
「まだ認めてない」
「では、認めるまで待ちます」
「どれくらい?」
「一生」
そう答えると、アニエスは軽く笑った。
昔のような冷たい笑みではない。
春の日差しみたいな。
眠りから覚めたばかりの花みたいな。
そんな笑みだった。
「なら、考えておくわ」
「はい」
「長くかかるかもしれない」
「構いません」
「その間、勝手に離れたら許さない」
「離れません」
「私より先に死んでも許さない」
「同じ時を生きる契約です」
「それでもよ」
「はい」
僕は彼女を抱いたまま、ゆっくり歩いている。
風が吹く。
銀髪が揺れる。
アニエスは僕の肩に頬を寄せ、目を細めている。
かつて死だけを望んだ魔女。
その人が今、僕の腕の中で、明日の話をしている。
明日の朝食。
次に植える花。
秋になったら焼く菓子。
冬に使う毛布。
そんな、ささやかな未来を。
「リオ」
「はい」
「明日も、起こして」
「もちろんです」
「紅茶は蜂蜜多め」
「覚えています」
「パンは焦がさないで」
「努力します」
「あと」
「はい」
アニエスは少しだけ顔を上げた。
「起きたら、最初に私の名前を呼ぶの」
胸が、甘く痛んだ。
「アニエス」
「今じゃないわ」
「練習です」
「……!」
「何度でも呼びます」
「……好きにしなさい」
「はい」
僕は微笑む。
「アニエス」
「だから、今じゃないって言っているでしょう」
「アニエス」
「リオ」
「アニエス」
「……もう」
彼女は諦めたように息を吐く。
それから、小さく笑って。
僕の頬に、そっと唇を触れさせた。
「うるさい弟子ね」
僕は足を止めた。
アニエスは平然とした顔をしている。
けれど、耳は真っ赤だった。
本当に。
どうしようもない。
どうしようもなく、愛おしい。
「もう一度」
「嫌よ」
「お願いします」
「嫌」
「アニエス」
「甘えた声で呼ぶのは卑怯よ」
「もう一度だけ」
「……一度だけよ」
彼女はそう言って、今度は僕の唇に触れた。
短く。
不器用に。
けれど確かに。
彼女の温度が、僕の中に落ちてくる。
呪いより深く。
契約より強く。
僕を縛る。
ああ。
きっと僕は、もう二度と自由になれない。
けれど、それでよかった。
僕は最初から、この人に囚われていた。
憎しみで始まり、
殺すために強くなった。
その果てに、僕はこの人を愛した。
死ねない魔女だった人。
今は、僕の隣で生きる人。
僕が一生をかけて甘やかす人。
「アニエス」
「なに」
「愛しています」
彼女は目を逸らした。
でも、逃げなかった。
腕を絡めてくる。
離れないように。
離さないように。
「……知っているわ」
「もっと言います」
「いらない」
「好きです」
「聞いていない」
「大切です」
「黙りなさい」
「可愛いです」
「リオ」
「僕の全てです」
アニエスは黙った。
そして、僕の胸に額を押し当てる。
「……負けたわ」
「何にですか」
「あなたのしつこさに」
「一途だと言ってください」
「愛情が重いの間違いでしょう」
「はい」
僕は彼女を抱きしめた。
「あなたを繋ぎ止めるには重くないと」
アニエスは呆れたように笑った。
春も。
夏も。
秋も。
冬も。
その先のすべての日々も。
僕はこの人を甘やかす。
怒らせて。
照れさせて。
笑わせて。
眠らせて。
朝になったら、名前を呼ぶ。
何度でも。
何度でも。
永遠ではない時間を。
永遠みたいに大切にしながら。
「戻りましょうか」
「……ええ」
アニエスは僕の肩に頬を預けた。
「戻りましょう、リオ」
その言葉だけで、僕は満たされた。
帰る場所がある。
待つ夜がある。
迎える朝がある。
そして、隣にアニエスがいる。
それ以上の幸福を、僕は望まない。




