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『古色蒼然』 西洋ルネサンスと日本の侘び寂び、Anticipated型現代アートから未来を読む

作者: The Bikeway
掲載日:2026/03/19

『古色蒼然』

これは2026年3月19日、私がInstagramに於いて久々に、懐かしい我が概念芸術作品『古色蒼然』の投稿(2021年3月9日のもの)を見つけたので、時が経った今、改めて当該作品の詳細を記述したもので有る。第一部の後半では現代の生活、技術の進歩等と当該作品を照し合わせ、新たな解釈を加えた。また、第二部では、第一部の要約を為しつつ、今後のAI活用型人間社会の課題と最適解を私なりに考え、論述した。_ -


第一部 『古色蒼然』


当該投稿はこちら(Instagramのリンク即ち外部リンクです。)

https://www.instagram.com/p/CMMzQ-1hiVx/?igsh=MXZkNGpsamZrbjAwaw==



古色蒼然


此の絵画はデジタル・アートであるが、描かれている具象は「朽ちた昭和家屋に埋もれた、苔むした屏風」である。そしてこの屏風にはおもちゃのロボットのような何かが灼きつけられたかのように染みついている事で、この物体は単なる化石どころか、苔むした巌となりかけている事が解る。

これは勿論、現代にあって実際に起きている事を描写したものではない。化石化して苔むした昭和期の家具など、存在しないであろう。

それでも、こう云った未来を、今から予見しておく。

これがAnticipated historyであり、SNS時代に於ける”Anticipated Memories”とも似た現象だ。記憶の固定への予見、体験即ち主体的記憶の客体化への執着と重なる、現代人の些か軟弱な浪漫主義的思想の露呈である。モノは何処にでもある。そこにどのような意味付けを為し、人々の認識を結びつけるかで芸術的価値の有無が決まるのが今のアート市場と云っても過言では無い節がある。そこで此れ等の作品は経年による付加価値を前借りして鑑賞者に献上している為に、同調を求め過ぎ且つ未来に受動的過ぎる節があり、やはり軟弱に見えてしまう。然しこの皮肉こそが現在価値で、高く付く。既に現在は過去と一致しており、そして深度の増す事の無い未来を予見しているのだ。未来人からすると、あまりに滑稽な古代人の感傷に映るだろう。そこ迄計算されていれば、此れ等の作品は未来にあって、現代の我々のセンチメンタリズムを象徴する、非常に価値の高い文化遺産となるだろう。

ここ迄は所謂現代美術の、タイムカプセル文脈を前借りして表現する風刺やナルシシズムのそれに過ぎなかったと、そしてその日本流(または亜流と言おうか)として、侘び寂びの形式でそれを為したのだといえよう。

(→私が5年前の制作当時、考慮していたのはこの辺り迄)


然し、ここで新たに、一種の”不気味な予感”を感じ取った人も居るだろう。

最早、この作品の苔むした様子が細胞のようであり、描かれているロボットが、意志を持った生命として生まれ変わろうとしているかのように見えて来ないだろうか?

「ものを大切に」ー然しそれはあくまでモノである。それは分かっている。それでもやはり、人形に霊が宿るような不気味さを覚えて仕舞うように、それを供養するように、依代と云う概念がこの国の文化にあるようにー、AIが進化し続ける今、SNSの投稿もAI生成なのか、映っている事象が現実なのかも見分けがつかなくなりつつあるようにー、オルガノイドが人工物ながら有機的な脳、生体として機能し始めているようにー。


再生医療に希望を見出す健全な医療の発展がある一方で、不安も否めない。効率化、バイオハッキング、神経多様性、様々な事柄が新たに浸透する中で、理論上は相互理解も、システムの最適化も加速度的に進む筈なのだが、それ以上に価値観の分断も大きくなっており、それが何かの工作に由来するモノなのではないか?等と、疑念を肥大化させて仕舞うコミュニティも存在するし、それを完全には否定できない社会の現状がある事も否めない。


確かなのは、何もかも、手をつけなければ過ぎゆく事だ。そして、意識を向けず、認識を及ぼさず、物理的干渉も無ければ、形あるものは凡て変わらず、その本質的なシステムの作用によって老いゆく以外、何の変化も起こし得ない。そして無形の事物に限っては、存在すらしなくなる。


然し、実際には認識こそが全てを変えている。

泥即是愁、愁即是泥である。

流動的な、その何らか同士の相互作用の総和としての縁起の中に在って、一種の甘美さが欠如した認識を持つ事で、人々は生命を紡いでゆく。


何もかも侘び寂びる。

西洋の「ルネサンス」は好都合な誤解に基づいて生まれた、”色落ちた純白への憧憬の発露”であり、甘美な永遠を求めた、一種のナルシシズムであった。日本に於けるルネサンスたる「侘び寂び」は、”自然と同化した古物への偏執”であり、一種の時限主義、有限性の受容であった。何方も物理的剥落と認識操作による創世である。優劣は問えない。明朗な人間性に拠って為せた業であり、新たな文化の萌芽であったのだ。然し何れに於いても、欺瞞は絶えない。何せ、欺瞞こそが社交で、広告で、私達は絶えずその海を泳がなければいけない運命なのだから。人々は今日も擬態して居る。AIが発展しようが、何方にせよ、擬態して居る。そして、何れ侘び寂びる。ロボットが永久に動こうとしても、エネルギーが枯渇すれば倒れる。再生はあり得るが、それはルネサンスに過ぎず、純白への転生にしても、侘び寂びたる客体化にしても、他者の認識に依る像として改まるに過ぎない。物理的に、そのもの単体の永遠はない。物理的な永遠がなければ、認識に委ねられる。認識は移ろうが、転じて紡がれ得る。然しそこで主体は変わる。転移に過ぎない。転移はさらに波及し得る。然し波及は時間軸で同期して居ないと起こり得ない。だから何れ、相互作用を失なって仕舞えば、皆わするる。これをデータに頼り、予防するつもりなのが現行人類だ。然し、全てをデータにする事を望むのか?永久に、データを物理的に保存し、そして読み解き続ける事は可能なのだろうか?


そもそも、購買力は落ち、手軽な不安や手軽な娯楽が縛りとなり、リバイバルも何も、哀愁が臨界点に達し、凡ての既存データを包摂し、アウトプットを同期させると云う形で過去と現在が重複してしまった今 ー。いとも簡単に、自他が重複し、そして相剋し得る今 ー。bitは飽和し、涙する為にも器用に機能してみせる。凡てコモディティ化し、相対化され、新たな創発は真っ当な合理性に集約される。永久機関を求めるほどに、視点は狭小になり、やがて単純な物理的制約を突きつけられる。この業のサイクル。

人々は何れアルゴリズムにデータ処理を委ねて、相互認識を手放そうとする。アルゴリズムも、物理的制約によって止まり得る。人々はそもそも凡て有限で在ったと悟り、手放す。

庭を調えては、茶を点てようと拵えた部屋で、胡座をかいて野菜を齧る。これがルネサンスであるか。一人一棟有るか?一家一棟あるか?これすらもコピペされ、printされるのか。そこに広告はつくのだろうか?私たちは一体、何処まで所有できるのだろうか?何処まで自分で思考し、決断できるのだろうか?

そんな未来を想う今日この頃である。

茶の濁り。


#animeart





第二部 『AIの可能性と人間の知覚について (創発と拡張性の最大化に向けた持論)』


AIは高度なシミュレータである。これを社会システムに組み込んで活用するとなれば、汎用AIはブラックボックス化し得る為、チューニングされてから実装される。そうなると、人が新たなデータ学習を管理しなければシステムは更新されない。然し、属AI化が進み、専門人材が育たなくなれば、このデータ学習は停止する。新たなインプットが無くなれば、AIも人間の文化も停滞する。自動化社会によって人間界の相互認識も作用しなくなっていれば、全てが孤立し、共通認識がない為に、世の中の均衡が保たれなくなる。

そして全く新たな価値観が再構築される事になるだろう。新たなルネサンスが起こり得る。

これは単なる直線的な未来予測ではなく、現行の文化芸術界の動向を見れば既に始まっているようにも見え得る、潜在的で包括的な事象である。たとえば、現代のコモディティが化石化する未来予測型の現代アートの流行はこの停滞を予見したものである。そして作品がリバイバルヒットするまでの期間の短縮傾向、TikTokによる乱発的なリバイバルヒットの兆候、一点ものの古着の売買に於ける価値操作は、この問題のリスクの高まりを表す先行指数みたいなものなのだと言えよう。

単にAIに丸投げしてブラックボックス化をすれば、やがてAIは人間の意図しない方向に働くようになりかねない。然し、人間による監督・指示をプログラムして、可変性のないAIを導入すれば、それはそれで進歩が止まる。やはり高度なシミュレータたるAIを管理するにはそれぞれの専門人材が必要、というのが理論上の最適解でなかろうか。そして、ここにまた問題が生まれる。これから属AI化業務が増える事により、専門人材が育たなくなるリスクは非常に高い。AIが業務を代替すること自体は合理的であり、人間が専門知識をAIに委譲するだけならば、そこまでは問題ないのだが、いずれ専門知識を取得する上での投資収益率が下がり、これから人間が専門知識を取得する動機が無くなると、不安定な属AI化が進行し、文化は退行しかね無いのだ。AIが構造の外にある環境や実態を総合的に絡め、連想と統合によってゼロから新たな創発を成し、器用に拡張させる未来は考えづらい。AIはシミュレートが得意なので憑依すれば良いとしても、過去とリアルタイムの多様なノイズを拾い上げ、特定の感性で要点とも言えぬ要点を抽出し、点と点を自由に結びつける非線形思考は起こし難いであろう。確かに、実際には人の知的好奇心は尽きず、いくら属AI化が発展しても個々人レベルで趣味的な探究を続ける人は多いだろうが、それぞれの管理に適するほどの領域を学び、業務と結びつけて問題ない専門性を持つまでに至るかは不明である。なのでこれはAI時代の新たな市場の失敗となり得るだろう。構造を丸ごと効率化にシフトさせ、人間側の専門知識取得動機を無くすのではなく、個々人、構造間の探究と相互作用をAI学習に組み込み、効率的なデータ運用と創発、拡張に繋げる仕組みが合理的であると考える。人々のIQは、AIに遠く及ばなくなるのかもしれない。然し現実に生物たる人間が持つのは画一的に数値化できる知性だけではない。各々の知能をいくら模倣しても、そのインターフェースは模倣できず、その位置情報は模倣できず、課題は模倣できず、と云うように、感情や動作をいくら周到にシミュレートしたところで、そしていくら特定の人の記憶・知能シミュレータチップを別人に搭載したところで、知覚を完全に模倣・再現することは不可能なはずだ。これは極論、クローン技術をもってしても不可能だと言えるであろう。実際に大きな価値創出の原点となったアイデアなどは、知覚全体の作用に起因するものが多いはずだ。人間が持つこの最後の特権を合理的なかたちで組み込まない限りは、究極の効率化、真の意味での生産性すなわち創発力と拡張性は実現し得ないと思う。



*詳しくは拙著「『探究を国富に』穏健自由主義と分散型社会の実現に向けて」をご覧ください。転換国債案やJadiohood構想、天照プロトコル、八百万神ギルド構想など、とにかく構想が目白押しです。また、もう少し興味がお有りでしたら、同じく拙著「文化資本で稼ぎまくる〜相撲二団体構想と地方創生についての雑草案〜」もお読みください。日本文化の在り方、線形ビジネス論理の浮体式運用法(デジタルインバウンド、無傷IR構想)などを提示しております。それから、当記事本文及び上記提言は何れも著者独創型の理論aka著者持論であり、専門家のフィードバックは一切受けていない事をご了承ください。









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