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デバッグ・マイ・ライフ~過労で倒れたら愛猫たちが人間化!?激重甘えん坊男子と毒舌ツンデレ美少女に、人生を修正されています~

作者: らぴな
掲載日:2025/12/01

 午前2時45分。

 デュアルディスプレイの青白い光が、荒れ果てたワンルームを冷ややかに照らし出している。


「……また、仕様変更……?」


 カサついた唇から乾いた音が漏れる。

 チャットツールには、クライアントからの無慈悲なメッセージ。


『認証周りのロジック、やっぱりB案に戻せませんか? 明日の朝一までに』


 私はフリーランスのエンジニア、佐倉さくら美月みづき。32歳、バツイチ。

 抱えている三つの案件は、どれもこれも『事故物件』だ。前任者がクソコードを残してバックレた炎上案件に、あまりの過酷さにメンバー全員が逃亡し、私一人だけが取り残された焼け野原のようなプロジェクト。私のリソースは、他人の尻拭いだけで常に枯渇している。


 机の上には栄養ドリンクとエナジードリンクの空き瓶が墓標のように並び、スマホには元夫からの『金貸して』という複数の通知が鎮座している。

 断れない性格という脆弱性を突かれ、仕事もプライベートも搾取されるだけの無限ループ。


「猫の手も……借りたい……」


 足元を見るが、愛猫であるナーとラピスの姿はない。私の殺気立った空気を察知して隠れてしまったのだろう。


 ごめんね、にゃーくん、らぴたん。


 キーボードに伸ばした指先が震え、心臓がキュッ、と異音を立てる。視界の端から闇が広がり、強制シャットダウンのように意識はプツリと途切れた。




 * * *




 ――重い。


 呼吸ができない。三途の川を渡る前に、生前の罪の重さを漬物石として乗せられているのか。

 私は重いまぶたを、錆びついたシャッターをこじ開けるようにして持ち上げた。


「……ッ!?」


 目の前に、見知らぬ男の胸板があった。整った筋肉の上に、赤茶色の髪がサラサラと掛かっている。それが私の上に覆いかぶさっていた。

 さらに足元には、Tシャツ一枚の美少女。彼女は私の太ももを抱き枕のように挟み込み、むすっとした顔で眠っている。


 不法侵入? 強盗?

 パニックで悲鳴を上げようとしたが、80キロはあろうかという質量が物理的に声を阻害する。


「ど、どいて……!」


 掠れた声で訴えると、上の男が顔を上げ、人懐っこい瞳をキラキラと輝かせた。


「ミヅキー! おはよー!」


「!?」


 男は満面の笑みで、私の顔に自分の額をガンッ! と押し付けてきた。全力の頭突きだ。

 すると足元の少女が、気怠げに身じろぎした。


「……うるさい。ミヅキ、起きるの遅い」


 冷ややかな視線。宝石のようなブルーの瞳。

 この距離感、この理不尽さ。


 そして部屋に愛猫たちの姿がない。


「……にゃーくん!? らぴたん! ど、どこなの……!!」


 愛猫の名前を呼ぶと、赤茶色の髪の男は嬉しそうにぱっと目を輝かせた。


「ミヅキ! ボクだよ! にゃーくんだよ~!!」


「……みてわかるでしょ。どんくさい」


 少女は呆れたようにため息をついた。


 は? この二人が私の愛しい愛猫のナーと、ラピス? ど……どういうこと……。


 過労で倒れた私を心配して猫が人間に? 

 いやいやいや。そんな、猫の恩返しみたいなことあるわけが。


 夢だとしても、全裸の成人男性は教育上よろしくない。

 私はどうにか身体を引き抜き、ナーにはピチピチのパーカーを、ラピスにはブカブカのスウェットを着せた。


 その時、乱暴にインターホンが連打された。


『おい美月! いるんだろ!?』


 元夫だ。心臓が跳ね上がる。

 居留守を使おうとしたが、ドアを蹴る音が響き、近所迷惑を恐れた私は震えながらチェーン越しにドアを開けてしまった。

 隙間から、酒臭い息と充血した目が覗く。


「金、あるだろ? 貸してくれよ」


「……もう、ないよ」


「あるだろ? 俺たち夫婦だったんだから助け合うのは当然だろ」


 三年前の話だ。助け合うと言いながら私の貯金を食いつぶし、最後は浮気して出て行った男。

 恐怖で思考が止まる。早く帰ってほしい一心で、私は財布に手を伸ばした。


「わ、わかったから……」


 ガシッ。


 私の手首を、白く細い指が掴んだ。いつの間にか背後にラピスが立っていた。


「……アンタ、馬鹿なの?」


「え……?」


「その金で、高級なちゅーるがいくつ買えると思ってんの。貢ぐならもっとマシなオスにしなさいよ」


 淡々とした、しかし鋭利なナイフのような言葉。


「あ? 誰だそのガキ」


「ガキ……? 誰に向かって口きいてんのよ、この雑種」


 ラピスの瞳が細まり、その背後に獣の影が見えた気がした。

 元夫がドアをこじ開けようとした瞬間。


 背後から、すっと長い腕が伸びてきた。


「………」


 私の体は、一瞬にして大きく温かい何かに包み込まれた。

 ナーだった。

 音もなく現れた彼は、私を背後から守るように強く抱きしめると、その顎を私の頭に乗せた。


 そして――私を抱く腕の優しさとは裏腹に、ドアの隙間の男へ、氷のような視線を突き刺した。


「ミヅキ、震えてる……。お前、何?」


 唸り声はない。けれど、その静かな威圧感と、邪魔者を排除しようとする鋭い眼光に、元夫の顔が引きつった。

 身長180センチ超の巨体と、底知れない殺気。


「な、なんなんだよお前ら! クソッ!」


 元夫は転がるように逃げ出した。

 遠ざかる足音が消え、私はその場にへたり込みそうになる。

 その体を、ナーが力強く支えた。


「ミヅキー!」


 すぐにナーが甘えた声で、抱き着いたまま私の頭の上でぐりぐりと顔を押し付けてくる。

 重い。

 でも、その体温と力強さに、涙が滲んだ。

 ラピスも「弱そうな奴」と毒づきながら、私の肩に手を置いてくれた。


 二人のおかげで助かった。ありがとう。


 しかし、感傷に浸る間もなく、PCから無慈悲な通知音が響く。


『進捗どうなってます? 今日中に修正お願いします』


 現実リアルへの呼び出し音。

 私は涙を拭い、よろよろとデスクへ向かった。人生のバグはまだ直っていない。


「……仕事、しなきゃ」


「は? 今の状態でまだやるわけ? 正気?」


 ラピスが信じられないものを見る目を向ける。

 椅子に座ると、背中にズシリとナーが乗ってきた。「遊んでー」と容赦ない体重をかけてくる。


 ラピスは「効率悪い」と文句を言いながらも、咳き込む私にぬるめのお茶を出してくれた。

 いやどこでそんな技術身に着けたんだ……。


 汚れた部屋、終わらない仕事、理不尽な要求。デスマーチのファンファーレは鳴り止まない。

 けれど、背中の重みと麦茶の温かさだけが、孤独というエラーを解消してくれていた。


 これが、私の人生を根底から書き換える『デバッグ作業』の始まりであることを、私はまだ知らない。

 そして明日の朝、さらなる理不尽な命令が下されることも。



* * *



 午前2時。

 重苦しい静寂の中、乾いた打鍵音だけが響く。

 モニターに映る前任者が残したクソコードは、解読するだけで私の脳内リソースをゴリゴリと削り取っていく。


「……ここ、変数名の定義がおかしい。なんでこんな設計にしたの……」


 独り言を呟きながら目をこする。


 背後からの視線が痛い。

 ラピスだ。彼女はカラーボックスの上に座り、無言の圧力を放っている。


「……なに」


「アンタ、馬鹿なの?」


 本日二度目の罵倒。

 彼女は頬杖をつき、冷ややかな目を向けてきた。


「……何その変なの。汚い」


「え?」


「ミミズがのたうち回ってるみたいで、見てるだけで吐き気がする。よくそんなもの直視できるわね」


 彼女はモニターを顎でしゃくった。彼女の目には、コードがただの不快な模様として映っているようだ。


「これが仕事なの……。この絡まったミミズを、朝までに綺麗に整理しなきゃいけないの」


「はぁ? 意味わかんない。絡まってるなら、爪で引き裂くか、捨てちゃえばいいじゃない」


「それができたら苦労しないよ……」


 猫の論理は暴力的で単純明快だ。けれど、人間社会ではそれができない。


「だからって、言いなりになってゴミをいじり続けるわけ? プライドないの?」


 プライド。その言葉が疲労した心に刺さる。

 彼女はエンジニアとしてではなく、生物としての誇りを問うているのだ。


「嫌なら噛みつけばいいじゃない。どうして人間って、自分から嫌な匂いのするものに顔突っ込んで、勝手に苦しんでるの?」


 ラピスの言葉は野生の本能に基づいた正論だ。あまりにも正しすぎて、今の私には猛毒だった。


「……うるさいな!」


 プツン、と何かが切れた。私は椅子を蹴るように立ち上がり、声を荒らげた。


「猫にはわからないよ! 生きていくためには仕方ないの! 私が我慢すれば丸く収まるんだから、黙っててよ!」


 部屋の空気が凍りついた。


 ラピスの青い瞳が揺れる。

 彼女は短く「……そう」とだけ言い、部屋の隅のカーテンの陰へ消えていった。


 やってしまった。

 あの子は私のために言ってくれたのに。


 自己嫌悪の沼に沈みながらPCに向かうが、もう一行もコードは書けなかった。




 * * *




 一時間後。

 進まない作業に見切りをつけ、私はカーテンの陰にうずくまるラピスの前にしゃがみ込んだ。


「ごめんね。さっき、言いすぎた。……私、余裕なくて」


 謝る私に、ラピスは顔を埋めたまま、私の部屋着のすそをギュッと掴んだ。


「……」


 ゆっくりと顔を上げる。いつもは冷たい瞳が潤み、目尻が赤くなっている。


「……アンタが」


 か細い声。毒気は完全に抜けていた。


「アンタがずっとミミズばっかり見て……あたしのこと、見てくれないから」


 彼女は唇を噛み、一度視線を逸らしてから、また私を見上げた。

 そして、今にも消えそうな声で、決定的な一言を口にした。


「…………寂しい」


 その一言が、静かに、けれど深く胸に突き刺さった。

 目の前にいるのは人間の姿をした美少女だ。

 けれど私には、その姿がいつもの小さな背中と重なって見えた。仕事が終わるのを待つ姿。足元で鳴く姿。


 ――『にゃーん』


 この子は、ただ待っていたんだ。ずっと。

 それなのに私は邪険にして、背中を向けて。

 胸の奥が締め付けられ、視界が滲む。愛おしさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。


「……っ」


 私はマグカップを床に置き、震える彼女の体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。


「……ごめん。ごめんね、らぴたん」


 腕の中に伝わる体温は、猫の時と同じ温かさだった。

 ラピスは私の胸に顔を埋めたまま、もごもごと呟く。


「……馬鹿ミヅキ。……ぎゅーってするの、強い」


 文句を言いながらも、私の服を掴んだ手は離れない。むしろすがるようにしがみついてくる。

 その不器用な温もりに、私もまた救われているのだと気づいた。


「ズルいー! ボクもー! ミヅキ足りないー!!」


 ドスッ!!


 寝ていたはずのナーが背後から突撃してきた。80キロ級のタックルで三人まとめて床に転がる。


「重い!」


「混ぜて! ボクも寂しかった!」


 ナーは甘えて頬ずりし、ラピスは「ウザい」と言いつつ安らいでいる。


 三つの体温が混ざり合う。温かい。

 深夜3時の冷え切った部屋で、ここだけが陽だまりのようだった。


 私は二人を撫でながら考えた。


 何のために働いているんだろう。

 ご飯や部屋のため?

 もちろんある。でも一番の目的は、この子たちと幸せに暮らすためだ。

 この子たちを泣かせてまで守るべき納期なんて、あるわけがない。


 元夫への恐怖心や将来への不安。

 そんなバグだらけの思考回路のせいで、一番大切なものを見失っていた。


 自分と、猫たち。

 この優先順位だけは絶対に譲れない。


「……決めた。明日、戦うよ」


 私が呟くと、ラピスが「やっと目が覚めた?」とニヤリと笑った。




 * * *




 翌朝、9時55分。 Web会議ツール『Voom』には、不機嫌そうな担当者の顔。


『修正は終わったんでしょうね? 昨日の夜、連絡取れませんでしたが』


 嫌味な声に心臓が早鐘を打つ。

 怖い。長年の社畜根性が足を止める。


 だが、男が『おい、聞いてるのか!』と怒鳴り上げた瞬間――。


「……ミヅキを、いじめるな!!」


 画面外からナーがぬっと現れ、私を背後から抱きしめた。

 悲痛な表情でカメラを睨む180センチの美青年。その迫力に担当者の男は『え、誰……男?』と怯む。


 さらに脇からラピスが顔を出し、汚いものを見るような目で男を一瞥した。


「こいつ、もう死にそうな顔してるの、見てわかんないの? 目がついてないの?」


『は、はぁ!? なんだその口の利き方は!』


「自分は安全な箱の中から、キャンキャン吠えて命令するだけ。……アンタ、自分じゃ狩りひとつできない弱虫なんでしょ?」


 ラピスは容赦なく急所を突く。

 それは理屈ではない。自分は手を汚さず、弱った相手を追い詰める卑怯者であることへの、生物としての根源的な軽蔑だ。


「弱いものいじめしかできないオスなんて、生きてる価値ないわよ。……無能」


 無能。

 禁句を放たれ、空気が凍る。


『佐倉! 部外者に言いたい放題言わせて、俺を馬鹿にしてるのか! 契約解除だ! 損害賠償請求してやる!』


 男が喚き散らす。

 普段の私ならパニックになっていただろう。

 でも、不思議と今は冷静だった。

 左には守ってくれるナーの体温。右には本質を突いてくれるラピスの知性。


 二人が、私を支えてくれている。


(……そうだ。ラピスの言う通りだ)


 私は、何を恐れていたんだろう。

 こんな相手との関係が切れたとして、何が困るというのか。


 私はマイクの音量を上げ、カメラを真っ直ぐに見据えた。


「待ってください」


 震えは止まっていた。


「当初の仕様書を確認してください。今回の修正は明らかに契約時のスコープ外です。それを『バグ修正』として無償で強要するのは、下請法違反の疑いがあります」


『な……っ』


「これ以上の作業をご希望なら、正規の追加費用と納期の再設定をお願いします。それができないなら――」


 喉の渇きが消えていく。


 これは私の言葉だ。誰かのための言い訳じゃない。

 私が、私自身の尊厳を守るための宣言だ。


「このプロジェクトは、ここで降ろさせていただきます」


 担当者の焦る声を遮断し、退出ボタンをクリックする。

 画面が暗転し、部屋に静寂が戻った。


 仕事を失ったかもしれない。けれど、胸のつかえは完全に消え去っていた。


「……ふぅ」


 大きく息を吐くと、左右から「ミヅキかっこいい!」「ま、及第点ね」と抱き着かれた。

 デスマーチは終わった。自分の手で終わらせたのだ。


 窓の外は高く晴れ渡っている。


 しかし、この不思議な共同生活には期限があることを、私はまだ知らない。

 彼らがなぜ人の姿になり、私に寄り添ってくれるのか。その秘密が明かされる時は、もう目の前まで迫っていた。



* * *



「……よし、これで完了…!」


 私はメーラーを開き、作成したばかりの納品報告書を添付した。


「……送信」


 エンターキーを叩く音が、静まり返った部屋に心地よく響いた。

 画面に『送信完了』の文字が浮かび上がる。


「終わった……!」


 交渉の末、取引先は追加費用と納期の延期を認めた。


 それからの二日間、私は人間らしい睡眠を取り、ラピスに急かされて栄養のある食事を摂り、驚くほどクリアな頭でコードを書き上げた。

 あんなに複雑怪奇だったクソコードは、今や美しい整列を保ったロジックへと生まれ変わっていた。


「お疲れ様、ミヅキ!」


「……ま、あんたにしちゃ上出来なんじゃない?」


 ナーが満面の笑みでハイタッチを求め、ラピスが満足げに頷く。

 私はコンビニで買ってきた、二人のためのプレミアムなちゅーると缶ビールを開けようとした。


「さあ、乾杯しよっか! 二人がいてくれたおかげだよ」


 プシュッ、と小気味よい音が鳴る。

 その音を合図にしたかのように、異変は起きた。


「あ……れ?」


 ナーが私に向かって差し出した手が、透けていた。

 向こう側の景色――散らかっていたけれど今は片付いた部屋の壁紙が、彼の手のひらを通して見えている。


「にゃーくん……? 手が……」


 私が声を震わせると、ナーはキョトンとして自分の手を見つめた。


「あれー? ほんとだ。消えちゃいそう」


「……やっぱり、時間切れか」


 ラピスが静かに呟いた。彼女の声には、驚きはなかった。

 見ると、彼女の足元も、ふわりと光の粒子になって崩れ始めていた。


「どういうこと!? ラピス、これ何なの!?」


 私は缶ビールを取り落としそうになりながら、ラピスに詰め寄った。

 彼女は困ったように眉を下げ、悲しげに微笑んだ。


「アンタ、あの夜……死にかけてたのよ」


「え?」


 思考がフリーズする。


 死にかけてた? 私が?


「過労とストレス。あのままにしてたら、アンタの心臓は間違いなく止まってた」


 ラピスは淡々と、しかしどこか気まずそうに語り出した。


「猫には九つの命があるっていう伝説、知ってるでしょ? あれ、あながち嘘じゃないのよ」


 彼女は自分の胸にそっと手を当てた。


「あたしたちの命をひとつずつ使って、アンタの時間を少しだけ『巻き戻した』の。……アンタ、あのままだと壊れて死んでたから。だから、やり直させたのよ」


「……っ」


 言葉が出なかった。


 命を使って、時間を巻き戻した?

 私の、こんなボロボロの人生を救うために、自分たちの命を削ったというの?


「そんな……じゃあ、二人は!?」


「大丈夫だよ、ミヅキ」


 ナーが、透き通りかけた体で私を抱きしめた。

 あの圧倒的だった質量が、今は羽毛のように軽い。


「僕たちの命はたくさんあるから、一個くらい減っても平気! それより、ミヅキがいなくなる方が嫌だもん」


「馬鹿ね。一個減るだけで、結構な負担なんだから」


 ラピスが軽口を叩くが、その目からは透明な雫がこぼれ落ちていた。


「……なんで。どうしてそこまでしてくれるの」


 涙が溢れて止まらない。

 私の問いに、ナーは無邪気に笑った。


「だって、ミヅキが元気じゃないと、ご飯がまずいからね! それに……」


 彼は私の頭に、大きな手を乗せた。

 いつも私が彼を撫でていたように、優しく、慈しむように。


「大好きだからだよ」


 その言葉が、胸の奥深くまで染み渡る。

 何の条件もない、ただ純粋な愛。


「……勘違いしないでよね」


 ラピスがそっぽを向きながら、消えかけた指先で私の涙を拭ってくれた。

 その指は冷たく、そして温かかった。


「アンタのためじゃない。あたしが、アンタの膝の上で長く昼寝をするためよ。……長生きしなさいよ、このポンコツ飼い主」


 二人の輪郭が、朝の光に溶けていく。

 部屋が、眩しい光に包まれる。


「待って! 行かないで! まだお礼も、恩返しも……!」


 手を伸ばすが、指先は光の中を空振るだけだった。


「バイバイ、ミヅキ。ご飯、ちゃんと食べるんだよー!」


「……ちゃんと寝なさいよ。さよなら」


 光の粒子がキラキラと舞い上がり、窓の外へと吸い込まれていく。

 最後に残ったのは、二人の笑顔のような暖かさだけだった。


「にゃーくん! らぴたん!!」


 私は光に向かって叫び、そして――。


「……っ!」


 ガバッ、と身を起こした。

 心臓が激しく脈打っている。


 目を開けると、そこはいつものベッドの上だった。

 窓からは、穏やかな午前の日差しが差し込んでいる。


「……夢?」


 頬に触れると、濡れていた。

 夢にしては、あまりにもリアルすぎる。胸に残る喪失感が、痛いほど鮮明だ。


 その時、足元にずしりとした重みを感じた。


「んぅ……」


「……うにゃ」


 そこには、赤茶色の巨大な毛玉と、銀色の小さな毛玉が丸まっていた。

 ナーと、ラピス。

 いつもの、私の愛猫たちだ。


「……あ」


 夢だったのか。

 そう思いかけた私の視線が、部屋の中を捉えて止まった。


 床に散乱していたはずの服がない。ゴミがない。

 そして、椅子の上には、私が彼らに着せていたパーカーとスウェットが、丁寧に畳まれて置かれていた。


 PCのモニターを見る。

 デスクトップには、メーラーの送信済みフォルダが開かれている。

 そこには、納品報告書を添付したメール文章が映っていた。


「……夢じゃ、ない」


 震える手で、眠っている二匹を撫でた。

 温かい。柔らかい。そして、心臓のトクトクという音が、私の手のひらに伝わってくる。

 命がある。ここに、ちゃんとある。


『ブブッ』


 枕元のスマホが震えた。

 画面を見ると、『元夫』からのメッセージ通知。


『おい、昨日はよくも――』


 そこまで読んで、私は迷わず画面をタップした。


【ブロックしますか?】

【はい】


 さらに、連絡先データそのものを、削除。


 指先に迷いはなかった。

 もう、バグは修正されたのだ。不要なものは削除するに限る。


「……よし」


 私はベッドから降りると、カーテンを大きく開けた。

 光が部屋いっぱいに溢れる。その光に誘われるように、二匹がむくりと起き上がった。


「にゃーくん、らぴたん、ご飯にしよっか」


 私がキッチンへ向かうと、二匹は嬉しそうに尻尾を立ててついてくる。

 カリカリとレトルトを用意する音に、彼らの瞳が輝く。

 お皿を置くと、ナーが私の足元に頭突きをしてきた。


「にゃお~ん!」


 その声は、あの青年の甘えた声よりずっと高い、いつもの猫の声。

 けれど、その響きには確かにあの時の温もりが宿っていた。


 そして、ラピス。

 彼女はガツガツ食べるナーを横目に、私の足首にそっと頭を擦り付けた。

 見下ろすと、宝石のような青い瞳と目が合う。

 彼女は少し間を置いて、小さく、甘く鳴いた。


「……にゃぁ」


 その声が、あの夜の「寂しい」という言葉と、最後の「さよなら」と重なって聞こえた。

 私はしゃがみ込み、二匹のご飯の邪魔をしないように、そっと見つめた。


「うん。私も大好きだよ」


 鼻の奥がツンとするけれど、もう涙は流さない。

 彼らが命を削ってまで守ろうとしてくれたこの日常を、私はもう二度と壊したりしない。


「……ありがとう」


 私は小さく呟いて、微笑んだ。

 これからは定時で帰って、美味しいご飯を作って、全力で君たちを愛し抜くことを誓います。

 もう二度と、大切なものを見失ったりしない。


 陽だまりの中で、幸せな咀嚼音だけが響いていた。

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