大嫌いな声、だった
驚くことに午前中だった。私は一日寝込んでいたみたいだ。
本当であれば今頃鉱石採掘だと思うが、そういった常識は雲と一緒にいれば免れるのだろうか。お腹は空いていたが、奴隷が求めたところで食事は出てこないだろう。雲は相変わらず得体が知れないが、しかし少なくとも私と手毬を助けてくれた。彼女のお願いを突っぱねる意味もないので、大人しく従った。
収容所の奴隷棟のすぐそばには山があり、一部崖のように切り立っている。そこに扉がついていて、その鍵を雲が明けた。
「ここが秘密の宝物庫!」
スタップ鉱石式ランプをつけると、真っ暗だった部屋がぱぁぁと明るくなる。
とても広い倉庫だった。田んぼみたいに道が区切られ、それぞれのところにどさりといろんなものが置かれている。雑然とものが置かれてはいるが、埃っぽさは少ない。意外とよく掃除されているのかもしれない。
「ほら、ここって港が近いでしょ〜? 変なものは一旦この倉庫に運ばれるんですって」
雲の言う通り、そこには覚えのない変わった品々が雑然と置かれていた。……と思ったら、よく見るとニッポニアの国旗のついた袋や進攻軍用戦艦の外壁(ニッポニア万歳と書かれている)など、見覚えのあるものもある。これ、ほとんどニッポニア進攻軍からの押収品では?
ともかく、奥の方に酒樽が置かれていたり、なんなら眼に見える範囲には干し肉さえある。たしかにこれだけの物品の管理を任されていれば、そこらの監察官よりも立場が高くなるのもわかる気がした。
わけのわからない機械も所狭しと置かれている。なじみのない兵器なのかもしれない。しかし、そんなことがあるだろうか。危険な兵器を、奴隷である雲に管理させるだなんて。
さらに雲に導かれ、奥の個室へと向かった。おそらく待機所か何かだと思うが、部屋のはじにソファーこそ置かれているもののかなりものが散乱し、むしろ倉庫よりも落ち着けない場所になっている。
「ここが宝物庫の中の音楽室よ!」
音楽室? 捕虜収容施設の倉庫に?
しかしその部屋は、私が想像できる音楽を奏でるための部屋の印象とはだいぶ違った。何せ知らない道具がたくさん置いてある。
雲はおもむろに何かを持ち上げた。兵器に見えたため、私はたじろいでしまう。
「そんなにびっくりしないで。これはただのギターよ!」
ギター?
それは私の知っているそれとはちょっと違った。ギターといえば穴の開いた胴から、棒状の竿が飛び出しており、六本の弦が張られた楽器である。確かに胴と竿はあるようだが、胴はただの真っ黒な板で大穴が開いていない。どちらかといえば三味線に近い形だ。
さらに言えば、何やらコードのようなものを繋いでおり、その先には三つのガラスでできたような謎の突起がついた機械があり、さらにその先には四角い箱があった。
「このギターはね、本体ではあんまり鳴らないの。音を増幅する機械に繋いで、スピーカーから音を出す。スタップドギター」
ギターを首から下げて、雲はこちらを見てふわっと笑った。
ランプの灯が逆光のように雲を照らす。
あ。
後光が差した。
と思った。意味わかんないけど。雲は立っているだけなのになんだか神々しかった。もともと特別な人だったが、ますます何かが変わった。
なんだろう。まるでそこが雲の居場所のような。
雲はそこに住んでいて、その生態の一端をこちらに見せてくれるとでも言うように。
右手が揺れた。何かを持っている。
撥? いや、それにしては小さすぎるし、三角だ。それでギターの弦を弾いた。
——え
耳に入ってきたのは『きゅーん』という、想像とまったく違う音だった。ギターだというから、『じゃーん』という音が鳴るのかと思った。なにこの音。仮に三味線のような音だとしても『たんっ』という感じなので、それは私にとって初めて聞いた音だった。それは雲が小さく指を動かすたびに少しずつ音色を変えるなんとも不安定な音だった。
「ピッキングハーモニクスよ〜」
それがなんなのかわからなかったが、雲の喜びがこちらに伝播してくる。雲はその楽器で様々な音を鳴らした。いくつもの弦をいっぺんに鳴らせば『じゃーん』という知っているギターに近い音が鳴ったし、三角形の何かを細かく動かせば三味線ともまた違う『たらららたららら』という音の繋がりになった。
一つの楽器の音色は、あまりに極彩色だった。私はそんなものを知らなかった。雲がそれを掻き鳴らすだけでお祭りの中にいるみたいだった。
その中心にいる雲がとても真剣な表情をしていた。いつもの感情のないふわふわした笑顔ではない。あの雲が、真剣だったんだ。すごく楽しそうな真顔で、体を揺らしながらその楽器を操っていた。
そんな顔するんだな、と思った。この何も楽しみのない地獄のような酷寒の地で。
そして、次の瞬間それは始まった。
【一人だけ幸せそうで】
ギターとは関係のない音がした。
音だった。声というよりは。ジジ、ジジ、というノイズが微かに混じっていて、無機質に作り替えられた声は刺々しい輪郭を帯びる。
【一人だけ楽しそうで】
雲のギターが鳴っている。しかしその音は主張を弱め、その声の音を支えるように変質していた。
声の音は、何やら機械から鳴っていた。四角い箱には二つの大きな丸い凹み。それはスピーカーだろうから、中になんらかの音源が入っているんだ。
【一人だけ何でもできるじゃないですか】
そこまで聞いて、やっと気がついた。
私の声だ。
自分の声があの箱から鳴っている!
なんなんだ急に!
え? え? 嫌なんだけど。大っ嫌いな自分の声じゃん。しかもそれは口から耳に直接届く声とも違って、もっとくぐもっていて気持ちの悪い音。
やめてほしい。むくむくと羞恥心が育ち始める。なんなの本当に! あの箱の中に、レコードのようなものが入っているのだろうか。仮にそうだとして、今しているのは再生のはずだ。
だとすれば。
——あのとき録音していた⁉︎
はぁ⁉︎ こっちが真剣に、手毬を助けて欲しいってお願いしてたのに⁉︎
信じられない。なんなのこいつ。
私は雲を見る。雲は微かに笑っていた。それはヘラヘラ笑いとは違っていた。少し顎をあげた、挑発的な笑顔だった。なんなのよその顔——。
【そういう心を少しは見せてよ】
私の声はときにギターの中に沈み込み、時にはっきりとした輪郭をもって主張して、私の心の内側からバリバリと掻きむしった。
そしてだんだんと、羞恥心は怒りに変わっていた。
大っ嫌いな私の声で、子供みたいな私の喚きを聞かされている。
【誰もあんたがわかんないよ】
嫌だ嫌だ。聞きたくない。
一刻も早くやめてほしい。早くその音を止めてくれ。
でも。
本当に?
聞きたくない気持ちは嘘ではないと思うが、同時に私はその音に聞き入っていた。だってそうだよ。本当に嫌だったら、両手で耳を塞げばよかったんだ。でも、現に私はそれをしてないじゃん。
そのノイズ混じりの声と雲のギターの不安定な音が絡み合って、私の耳を離さなかった。どころか、聞きたいかもとさえ。
いや、嫌なんだけど。自分の声なんて。自分の言葉なんて。
それなのに。
【私たちを助けてよ】
最低の叫びがあって、明確な終わりを告げるギターの『ジャッ』っという着地音。雲はギターストラップから首を抜いて、やや息を荒くしながらこっちにきた。
ああ、終わっちゃったんだ。
白い肌の雲。その彼女が頬を上気させているものだから、なんだかいやらしくて私は視線を床に落とした。
「……どうだった? 良かったでしょ〜?」
間抜けな声に、私は苛立つ。
「……なんで私の声が?」
「わぁ、すてき〜!」
「茶化さないでください」
「も〜、怒らないでよ〜」
笑う雲は、すでにいつものふわふわした雲だ。ギターを持ってランプに照らされた彼女はあれほど神々しかったのに、今そこにいる彼女は手を伸ばせば触れられる。
この人って、一体なんなんだ。
雲は言った。
「一緒に音楽をやろう。山猫さんの素敵な声を、言葉を、みんなに突き刺すの!」