山猫の夢
私はうちにいた。
とても穏やかな気分だった。まるでただ平穏な毎日が過ぎているかのような。
縁側に座っていた。ただ広いだけの平屋の縁側だ。目の前にはぼろっちい塀の先に、手入れのされていない森が広がっている。
時刻は夕方で、オレンジ色の景色にハグロトンボの黒い影が浮かんでいる。音もしない黒い羽のトンボは不気味であまり好きじゃない。
すぐそこが森だから、他にも虫やら動物やらが庭に入ってくることがある。私が生まれるとき、この庭にやってきた一匹の山猫がじっと座っていたそうだ。その結果、私の名前は山猫になった。山と田んぼしかない地域だから苗字は山田で、山田山猫なんて名前はぜんぜん可愛くない。信じられないくらいの田舎で、ものを買うにも遠くまで歩かなきゃいけない。
私は立ち上がり、部屋に戻った。居間を通り過ぎて自室の襖を開け、机の前に正座ですわる。机に教科書を広げる。
どこかから痰の絡まったような悲鳴が聞こえる。おばあちゃんだ。おばあちゃんはいつの間にかボケてしまったので、時折何かに怯えていた。おばあちゃんは路上で歌ってお金を貰う、芸人のような人だったから、理不尽なお客さんに暴力を振るわれることもあったと聞いている。それを思い出しているのかもしれない。
その声に気を取られそうになるが、意識を教科書に引き戻す。小難しい医学用語をたくさん覚える必要がある。これを全部覚えきった先には、国立女子医療学校への入学が待っている。とにかく暗記して、暗記して、暗記して。いま必要なのはそれだけなんだ。
「勉強なんてせんでいいんよ、女の子なんだから」
いつの間にか後ろに立っていた父が、そんなことを言った。
私は振り返らずに、教科書の文字に目を走らせた。しかし視線は字の上を滑るばかりで、なぜか何も頭に入らなくなってしまった。
父はさらに続ける。
「勉強なんてできたって、生意気に映るだけだて。黙ってりゃ可愛いんだから、お前ならいい相手が見つかるよ」
そこにはみんなの考える幸せがある。誰かのお嫁さんになって、家に入って子供をつくり家族のために飯を炊くんだ。きっとたくさんの子供たちに囲まれて、そしてこの山しかない村に閉じ込められて一生この場所で生きていくんだ。
ああ、ここからでなきゃ。
勉強しなきゃ。
勉強すれば学校に入学できて、街に出ることができる。
そうすれば。
何度も何度も教科書を読み返し、書き写し、指にタコができても手を動かし続けた。そうしなきゃ。私は。
「おまえはここから出れんよ」
父が言った。父が私の頭に手をのせて、撫でるようにして言った。
「行かないでおくれよ、山猫」
目が覚めた。
どうやら私は夢を見ていたみたいだった。びっしょりと汗をかいており、起きたばかりなのに胸が締め付けられていた。……あれ、そもそもどうして私は寝ていたのだろう。そのまえは、何をしていたのだっけ?
徐々に頭が覚醒してきて、思い出す。確か私は調理場で雲に啖呵を切って、手毬を助けに行こうとして監察官に殴られた。それで気を失って——
「あら、目が覚めたのね!」
まっさきに目についたその顔は、とても美しい少女だった。
雲だ。なぜ雲が?
「ここは?」
「集団房よ〜! もうみんなは労働にでて行ってしまってのだけどね!」
ふと横を見ると、もう一人寝ている人がいた。
手毬だ。手毬が、寝息を立てている!
「手毬さんもね、まだここに置いてもらうことにしたの! 医療学生だから便利ですよってね〜」
なんとも苦しそうな寝顔ではある。しかし、彼女は生きている。脂汗を浮かべてはいるものの、確かに胸部が上下している。
雲の方を見ると、彼女は嬉しそうに言った。
「山猫さんも国女出身なのでしょ? とっても助けやすくて助かるわ! 大変だったのよ、気が狂った奴隷は処分しなきゃって、監察官のみんなは息巻いていたんだもの!」
ただただ感嘆してしまった。
やっぱり、雲はすごい。たかだか奴隷の分際で、監察官と交渉してくれたんだ。その結果として、私も手毬も生きている。本当に、雲はすごい。
経緯を語る雲は本当に楽しそうで、そんな表情を見ているだけでこちらまで幸せになってしまいそうだ。
しかし、どうして助けてくれたのだろう。私は一年この収容所で生活しているが、雲が人助けをしただなんて話は、一度だって聞いたことがなかった。そうでなければ、御久遠寺雲には近づくなだなんていわれるわけがない。
なにか、心変わりがあったのだろうか。だとしたら。
こんな奴隷施設だったとしても、もし雲が奴隷たちを導いてくれるのだとしたら。
そんな、またしても他力本願な願望を浮かべかける私に、雲は言った。
「山猫さん。起きたばっかりで大変だと思うけど、ちょっと付き合って欲しいところがあるの」