誰かにとって意味があること
それから数日がたった夕方。
へとへとな体を奮い立たせて私は炭鉱から食堂に向かっていた。食事前の労働が免除されること一つとっても炊事係は特権階級だ。
私は食糧庫のムオン人から百人分の食材を受け取り、炊事場にそれを運ぶ。百人分、といっても背負える量だ。これほど良いダイエットはないと思う。雲は薪をもらってくるため別行動だ。残念ながら奴隷施設にはガスコンロなんて便利なものはないので、毎回自分たちで火をつけなければならない。
炊事場に移動している途中で、二人の監察官とすれ違った。彼女たちは気を失った誰かを運んでいるようだった。一人が胴を小脇に抱え、もう一人が足を支えていた。まるでハシゴでも運ぶみたいに人を運んでいる。そのハシゴ人間の顔がチラリと見えた。
手毬だった。ただし私の知っている手毬よりも随分と痩せていた。口元はだらしなく開いておりよだれの乾いた跡がある。まるで死んでいるみたいだけど、たまにビクビクと痙攣が見られた。生きている。
監察官の一人が言った。
「これ、どうするんだっけ?」
「救護室なんじゃないの? まだ生きてるし」
「また救護官どもにゴミ連れてきたって文句言われんじゃん! めんどいなぁ、中央だったら殺してるでしょ」
「ここにいるのは捕虜だからさ。……まぁ、事故死ならしょうがないか」
「おっ! じゃあ処理室だね!」
管理官たちは進む方向を変えた。
三人が見えなくなったところで、私の足が動かなくなった。手毬は雲にお椀を投げつけた日以来、懲罰房に入れられていたはずだ。懲罰房に入るのは珍しいことではない。何か監察官の機嫌を損なうようなことがあればすぐに入れられてしまうのだから。そこでは満足な食事も与えられず、あまりにも狭い場所で寝転がることさえままならず、夜は三角座りで過ごすこととなる。ただでさえ健康状態の悪い奴隷は、何日かそこに入れば肉体的にも精神的にも狂うのが当然だ。戦争が終わって一年。そうやって狂ってしまった仲間や、あるいは死んでしまった仲間を何人も知っている。それはある意味でしょうがないことだった。ニッポニアはムオンに仇なす敵だ。敵を健康にしてやる必要なんかない。親じゃないんだから。
管理官が奴隷を雑に扱うのなんて当然で、懲罰房が快適だったとすればそれは懲罰として機能しない。懲罰房が劣悪なことだって、施設全体の秩序を保つために重要なことなんじゃん。その結果瀕死に至れば、そこから助けてやる謂れなんてないだろう。監察官は当然のことを行い、結果として手毬は壊れ、そしてこれから殺される。
でも、手毬がそうなってしまった原因は、御久遠寺雲と私にある。
ひと足先に調理場に入っていた雲はコンロに薪を焚べて火の準備をしていた。到着が早かったのか調理場は人がまばらで静かなものだ。
「あら山猫さん。遅かったじゃない、干し肉つまんじゃう?」
雲は私の持っていた籠から一つ取り上げ、差し出した。
御久遠寺雲は凄い。
この労働施設の奴隷でただ一人朗らかに過ごしている。
この労働施設の奴隷でただ一人監察官と対等である。
この労働施設の奴隷でただ一人自分の立場を変えることができた傑物だ。
だったらさ。
私は、彼女が手に持つ干し肉を払い落とした。御久遠寺雲は施設長と通じている。これで私も、きっとなんらか差配されてどうにかなってしまうのだろうか。
反抗した姿を見せても、雲は驚かなかった。どころか、傍にあったよくわからない機械のボタンを押した。監察官を呼んだのだろうか。別に音が鳴る様子もないけれど。雲の頭の中はまったく理解できないが、表面上だってわかることはある。
それを信じて、言うんだ。
「——手毬を、助けてください」
いま初めて、雲は驚いた様子を見せた。
「まぁ! ……どうしたの山猫さん、続けて」
なんだか侮辱された気分になって、奥歯を噛んだ。本当は喋りたくなんてない。それでも、首元まで出かかったそれは止まらない。
「雲さんは本当に凄い人です」
この人は、本当に凄い。それが、たまらなく悔しい。
「一人だけ幸せそうで。
一人だけ楽しそうで。
一人だけ何でもできるじゃないですか。
あなたは奴隷で、ここは労働施設なのにさ。
国みたいにしちゃってさ。
あなたみたいな自由な人は監察官にだっていないじゃないですか。そりゃ奴隷かもしれないけれど、管理下なのかもしれないけれど。
どうしてそんなに晴れやかな顔で敵の真ん中で働けるのさ。
あなたは誰の仲間なの?
ほんとはそっちの味方なの?
ぜんぜんわかんない。わかんないよ。
国に帰りたいとかお母さんに会いたいとかさ、そういう心が見えないから。
そういう心を少しは見せてよ。
太陽みたいに笑ってさ、心の中は空っぽなの?
何が欲しいとか何食べたいとか誰と一緒にいたいとか。そういうのを見せてくれないと誰もあんたがわかんないよ。
あんたが誰だか教えて欲しいし、もしこっちの味方なのならさ。
奴隷の一人くらい助けてみせて!
それからみんなを助けてよ!
あんたは凄いんでしょ!
それくらいのこと、できるじゃん!
ニッポニアの仲間なのなら、私たちを助けてよ——」
私は途中からボロボロと涙を流していた。馬鹿みたいだ。雲の考えていることなんて何にもわからない中で、私の言葉なんて三歳児の駄々と何も変わらない。自分からは何も差し出さないのに、これをして欲しいあれをして欲しいって言ってさ。
涙と鼻水の混じった汚い声で、何もできない自分を無視して相手にばっかり負担を強要する。いまだに自分がこれほど子供だったことに、こんなときなのにげんなりした。
少しの間、静寂が流れた。
私はどうなってしまうのだろうか。監察官を呼ばれて、懲罰房にでもいれられるのだろうか。
黙って話を聞いていた雲が、感嘆のように呟いた。
「……すてき〜」
……………………はぁ?
「とっても素敵よ、山猫さん!」
なにそれ。
なにそれなにそれ。
意味がわからない。怖い。この人はいったい何を言ってるの?
猛烈な後悔が怖気となって背中に走った。わかっていたじゃないか。この人に、話が通じるはずがない。
遠くで怒号が聞こえる。また誰かが懲罰房に入れられるのかもしれない。しかし、そんな出来事はこの場に存在しないとでもいうように、雲は私の口に干し肉を突っ込んだ。
「はやく食事の準備をしてしまいましょうね〜。みんなお腹を空かせて帰ってくるわ!」
魂が抜かれたような気になって、私は雲に従った。
黙々と作業を続ける中で、一言雲が言った。
「……山猫さん……言いづらいんだけどね……。手毬さんを助けることって、それってなんの意味があるの?」
冷たい溜め水に手をつけながら、私は猛烈に恥ずかしくなった。
雲なんかに頼ってしまったことを。
子供みたいな心の内を晒してしまったことを。
この汚い声を聞かれてしまったことを。
しかし同時に、私はより深く雲を理解できた気がした。雲は自分に必要なことであれば息をするようにするし、そうでなければ一切動くことはないんだ。
ニッポニアとか、同胞とか、きっとそんなのは幻想で、私も手毬も雲からしてみればたまたまそこにいた人に過ぎない。
本当にその通りだ。
手毬を助けても、雲にはなんの意味もないだろう。それどころか、奴隷が死んでしまうことなんてそこまで珍しいことじゃない。むしろここで助けたっていつまで生きられるかなんてわからないし、ここから先も地獄が続くのであれば見送るのも優しさなのかもしれなかった。
そもそも私は手毬が嫌いだ。
国立女子医療学校時代、私を発情猫と言って揶揄し始めたのは他ならぬ手毬だ。クラスの中心的な存在でキラキラしていて、私を日陰に追いやった憎いやつだ。あんなやつを、助けてやる必要なんかない。優しさのいっぺんでもかけてやるもんか。
……あれ?
何もせず見送るのが優しさだったら、その優しさはかけちゃダメじゃん。
やっぱり助けて、同じ地獄を見せてやらなきゃ。手毬なんかを、いま楽になんかしてやるもんか。
私は雲の方を見て言った。
「私には意味があったみたいです」
それは天啓のようなアイディアだった。
食材の籠を放り出し、その場から走り出した。雲が何か言った気がしたが、気にしない。
手毬を生かしたいのは、私だ。とにかく処理場へ。そこに行けば、手毬が殺される前に救うことができるかもしれない。そして、もし助かったら感謝させてやるんだ。
山田山猫に一生頭が上がらないようにしてやるんだ。
そして奴隷生活が終わって、また普通に社会にとび出たときに、私がいかに自由で幸せになるかを大っ嫌いな手毬に見せつけてやるんだ。
「どこへ行く⁉︎」
怒鳴り声が上がったが気にせず走る。
早く処理場に行って、止めなきゃ。止めた後、どうしよう。まぁそれは、その時に考えればいいか。調理場の入り口には監察官が二人いた。最近気が付いたのだが、雲と一緒にいるとき彼らは少し離れている気がする。ただ、疲れ切った奴隷の足は簡単にもつれた。情けない私は倒れてしまい、そして監察官に捕まった。
ああ、そうだよね。
こんなことがうまくいくわけないもんね。
大きな声が耳に届いた。何を言っているのかはわからなかった。
背中にのしかかられ息すらまともにできないなかで「ああ、死ぬのかな」と思った。鞭で殴られたのだろう。頭に強い衝撃が走り、私は意識を失った。