その少女には近づくな
御久遠寺雲には近づくな。
それはこのバクルシュミュール女子収容所に於いて奴隷たちの共通の見解だ。
雲は奴隷だ。しかし国軍上級大将の娘だったから、戦争に負けて私たちと同じ身分になったとしても雑に扱うことなんてできっこない。
なにより雲は恐ろしく美人で、身長なんて私より頭ひとつ半も大きいし、手足がすらっとしていてとても同じ民族とは思えなかった。元々腰まで届いていた銀掛かった髪こそざっくりと切ってしまったが、そんなことで彼女の気品は削がれはしない。
敗戦を知らされたのは極寒の敵地だった。戦争はずっと勝っていると思っていたから、最初は何を聞かされたかまったくわからなかった。敗戦直後の私たちの身分は戦争捕虜で、みんなそれなりに大切にされるっていう約束のはずだったけど、それでも日々の強制労働で私たちは疲弊した。
最初は明るくて前向きだった同僚が、仲間が卑しくなる中で、雲だけは違った。まず背筋がピンと伸びていた。重いものを運ばされても決して下なんか向かないし、いつも自信満々の表情をしていて、しかもそれが収容所の監察官から許されているようだった。
私たちは敵国の犬畜生だ。少なくともこの施設の監察官から見れば。その犬畜生が偉そうにしていればもっときつい労働をさせられる。場合によっては、あるいは気分次第で暴力を受けることもある。でも雲はそうならなかった。いろいろな噂があった。雲は要人の娘だから、なんらかの交渉材料のためにとってあるのだとか。飛び抜けた美人でいずれ性奴にさせられるため、自殺しないよう大切にされているのだとか。
雲は奴隷であって、奴隷じゃない。雲は戦後徐々に痩せていってはいたものの、それでも圧倒的に気高くて、近づきがたい太陽のような存在だ。だから、みんな彼女に近づきたかった。この一年で、何人もの女が雲と友達になろうと試みた。そして運良く何人かの女たちはそれに成功し、見違えるように自信をつけ、ときには笑顔で胸を張って歩き、ただしそういった少女の全員がその後、なぜか監察官によって懲罰房に入れられ、急激に痩せ細ったり、より過酷な施設に移動させられたり、あるいは死んだりしてしまうのだった。
名前の通り雲のような包容力で誰かを包み込んで。
吐き出された先には濡れ細った搾りかすしか残らない。
御久遠寺雲には近づくな。それはみんなの合言葉なのだ。
それなのに。
「それでは運びましょうか、山田山猫さん」
どうして私は、雲に笑いかけられているのだろう。
雪解けのないこの地方で、古いレンガ造りの営造物は建物ごと凍るようだ。私は体を震わせながら雲と二人で鍋を運んでいる。雲の幸福を塗りたくったような表情に、私は曖昧に頷いた。その対応は、すぐさま雲に尻尾を掴まれる。
「どうしたの? 気分でも悪いのかしら」
首を横にふる。雲の真似をして精一杯の笑顔を作るが、きっと引きつっただけだろう。雲から視線を外し、鍋を持つ手に力を込めた。この鍋には猫じゃらしみたいな植物をすりつぶして野菜や豆の破片をまぜ煮込んだ、おかゆの出来損ないが入っている。雲の鍋に入っているのはほぼ塩水のスープだ。奴隷にふさわしい食事は、しかし体の動かない朝にはありがたいものでもあった。
「ご一緒できて嬉しいわ。ずっと山猫さんと一緒にお仕事をしたいと思っていたのよ」
そもそも炊事係は選ばれし役職だ。常に腹ペコの奴隷にとって、料理のときにつまみ食いできるというのはもっとも重要なチート行為だから。信じがたいことに、奴隷の身分でありながら太った猛者さえいるくらいに。だから本来私なんかが炊事係にはなれないのだが、もともと炊事係だった雲が、もう一人が懲罰房に入れられたことをきっかけに私を指名した。意味がわからない。
御久遠寺雲には近づくな。それが浸透し切ったいま、確かに雲と一緒に働く役職は不人気なのかもしれない。かと言って、牙を抜かれて骨を折られた奴隷たちでは、雲をその座から落とすことなんてできない。
私は雲と面識なんかなかったし、当然喋ったこともない。だからなぜご指名だったのかはわからない。引き受けたのは断るのが怖かっただけだ。
「山猫さんは国立女子医療学校の生徒だったと聞いているわ! きっと優秀な人なのね。でも知っているのはそれだけだから、これからお互いにいろいろなことを知っていきましょうね〜」
ちなみに国女とは国立女子医療学校のことで、私はそこに在籍している。もっとも戦争で、いまどうなっているのかは知らないけど。
ともかく、御久遠寺雲は素敵な人だ。こんな庶民の私のことを把握して、嫌味なく話しかけてくれて、容姿も完璧なのに人懐っこくて笑顔も可愛い。
でも、それっておかしいと思う。だって、もう私たちは一年も使役させられている。死ぬほど寒いこの半島で、家畜の方がまともな食料が与えられる中で、毎夜動けなくなるほどきつい労働を課せられている。もっとずっと、心が摩耗していないと。
その笑顔はおかしいに決まっているのだ。