何もない雲
この日も音楽室に連れて行かれ、楽器の練習を行った。
雲は今日も今日とて気持ちよさそうにギターを奏でている。弦を上からも下からも弾くオルタネートピッキングの速弾き。軽快でいてミスもなく、練習でさえ近くで聞けることは贅沢なんじゃないかという気さえする。
でも。
「こんなことしてていいんでしょうか」
私は言わずにはいられなかった。
「噂は雲さんの耳にも入っていますよね? 私たちはこのままだと、戦場に行かされちゃうんですよ‼️」
雲は演奏を止めて、首を傾げた。
「そんなわけ、ないでしょう?」
「そんなわけありますよ。だって私は、監察官から直接聞きました」
「捕虜を自軍で利用するだなんて、信じられない国際法違反よ。仮に本当だったとしても、施設の監察官に話を通すはずないでしょ? やるなら勝手に連れていかれていつの間にか肉の壁じゃないかしらね〜?」
そうなの?
いや、言われてみればその方が合理的な気もするけれど……。
「じゃ、じゃあ監察官が嘘をついたって言うんですか。なんのために——」
「ちょっと山猫さんを脅してやろうって思ったんじゃないかしら⁉︎」
「そ、そんな適当な理由で⁉︎」
「監察官だって人間だものね〜? それに、監察官ってどんな人がやっているか知ってる?」
どんな人?
ムオンは共産主義で、共産党が割り当てた職業に着くしかないと聞いたことがある。つまりすべての職業が国の管轄だ。たぶん。
「公務員ってことですか?」
「違うよ〜。彼らは罪人!」
「罪人⁉︎」
「ほとんどね! まあそれはそうよ。こんな寒々しくて衛生的でもないところで捕虜の監視なんて仕事、普通はやりたくないでしょう。そういうどうしようもない仕事を、ムオンは罪人にやらせるのよ〜」
「そうなんですか」
「だからね、山猫さんにムカつくこともあるし、ムカついたら捨て台詞の一つも吐きたくなるかもしれないわ!」
いうと、再び雲は演奏に戻ってしまった。
確かにその話を聞けば、監察官が適当に挑発してきただけの気もしてくる。雲が自信満々に言い切るので少しだけ安心した自分がいる。
ただ同時に、雲は恐ろしいことも言っていた。
『やるなら勝手に連れていかれていつの間にか肉の壁じゃないかしらね〜?』
監察官が何を言ったかに関係なく、私たちは常にそんな危機に瀕しているのは事実なんじゃないか。そもそも、監察官の機嫌次第で私たちに明日はない。
それなのに、どうして雲はそんな朗らかな顔でギターを弾いていられるんだろう。
「雲さんは……死ぬのが怖くないんですか?」
尋ねると、雲はこちらい視線もやらずに答えた。
「起こるかわからない先のことより、いまこの瞬間楽しいことの方がよっぽど意味があると思う!」
「……でも、雲さんだって半年後にやってくる、共産党の偉い人に見せる余興のために練習しているんでしょ?」
素晴らしい演奏をするとどうなるか。それは私には見当もつかない。
でも、雲はそのために私をバンドに誘ったはずだ。なにせ雲本人がそう言っていたじゃないか。
それなのに、彼女はチロリと舌をだした。
「建前だったりして」
……たてまえ?
「山猫さん、音楽は楽しいよ! 素敵な音楽を作りましょうね〜!」
楽しいから、ギターを弾く。
楽しいから、バンドを組む。
楽しいから、音楽を作る。
雲には本当にそれしかないのだろうか。