第16話 伯爵夫人は最近夫の帰りが遅いので不安になる
夜、邸宅のリビングでシンディはやきもきしていた。
「……遅い」
彼女の言葉通り、近頃ランゼルの帰りが遅い。
襲撃犯の黒幕は捕まり、ランゼルは今大きなトラブルを抱えていないはず。それなのに、帰りが普段より一、二時間遅いのである。
何かあったのではと勘ぐってしまう。
以前のようにランゼルを問いただせばいいのだが、シンディとしてもあれは最後の手段と決めているし、なにより妻としての勘でランゼルが危険に巻き込まれているわけではないというのを感じ取っていた。
紅茶の入ったティーポットを運んできたクレアに、シンディは尋ねる。
「クレア。最近あの人の帰りが遅いけど、何か知らない?」
クレアは露骨に肩を震わせる。ギクリ、という具合に。
「し、知りませんとも!」
「ふーん……」
シンディはクレアの顔をまじまじと見る。
「同じことを私の目を見て言える?」
「それは……」
クレアは何も言えなくなる。
「ところでレナード君とはどう? 上手くいってる?」
「はい。最近はレナード様、ますます素敵になって……今度一緒にお食事なんてお手紙も来て」
急に話題が変わったので、油断してのろけるような口調になってしまった。
「ふふっ、休暇が欲しかったら言ってね。恋路を邪魔するほど野暮じゃないから」
奥様にやられたと、クレアは真っ赤になってしまう。
するとシンディは柔らかな笑みとなる。
「ごめんなさいね、意地の悪いことして。誰だって秘密は抱えているし、誰にも言いたくないことだってある。たとえ夫婦同士でもね。それなのにこんな問いただすような真似をして、本当にごめんなさい」
「いえ、奥様。そんな!」
「さ、この話は終わり。あの人が帰ってくる前に、二人でもう一品ぐらいお料理を作りましょうか」
「はいっ!」
自分が悪いと思えばきちんと謝り、気持ちの切り替えも早い。
これらがシンディの長所であり、社交界で敵を作らず、他の貴婦人たちに一目置かれている理由でもある。
まもなくランゼルが帰宅する。
シンディは遅く帰ってくる理由を問うこともなく、明るく夫を出迎えた。
***
半月ほどが経った。
今日はシンディの誕生日であった。
貴婦人が集まるサロンにて、シンディの誕生日が祝われる。
テーブルにはケーキや豪勢な料理が置かれ、大騒ぎこそしないが、皆が心からシンディに祝福の声を贈ってくれる。
「シンディさん、おめでとう」
「あなたといると本当に楽しいわ」
「これからも末永くお付き合いしてね」
「皆さん、ありがとう!」
シンディは朗らかな笑みで返す。
婦人の一人がシンディを肘でつつく。
「旦那さんからのプレゼントが楽しみね」
「うーん、どうかしら。あの人もこのところ忙しいから、そういうの用意してないかも」
「またまた~」
こう言われるが、このところのランゼルは帰りが遅い。
もし何か仕事でトラブルがあるとすれば、自分の誕生日など忘れていても仕方ない。シンディはそう考えていた。
今更誕生日のことぐらいで揺らぐ愛ではないのである。
サロンから自宅に戻ると、玄関口でクレアが待っていた。
「奥様、プレゼントです!」
リボンが巻かれた細く長い箱。中身は――銀色のスプーンだった。
「まぁっ……!」
見ただけでかなりの高級品だと分かる。
給金をやり繰りして、自分のために買ってくれたのだろう。
「このスプーンで、これからも沢山プリンを食べて下さると嬉しいです」
「ありがとう、クレア……最高のプレゼントだわ」
するとクレアは――
「いえいえ。“最高のプレゼント”はこれからですよ」ニヤリと笑う。
「……?」
きょとんとするシンディ。
程なくして、ランゼルが帰ってきた。今日はむしろいつもより帰りが早い。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
シンディが出迎える。
ランゼルは緊張した面持ちで、小さな白い箱を差し出してきた。
「これ……」
「あら、もしかして……」
「うん、誕生日おめでとう」
「ありがとう……!」
夫が誕生日を覚えていてくれて嬉しかった。
シンディにとってはこの時点ですでに心は満足しており、プレゼントがどんなものでもそれはいわばウイニングランのようなものであった。
だが、箱を開けたシンディは大いに驚くことになる。
「これは……プリン!?」
オーソドックスなカスタードプリンであるが、シンディも初めて目にする代物だった。
どこかの店の品ではない。自分のために作られたものだ。
「もしかして、これを作ったのは……」
「うん……。このところ仕事が終わった後、メリエさんのところに行って、作り方を教えてもらってたんだ」
かつてシンディのおかげでパティシエを目指せるようになった令嬢メリエ。
ランゼルは彼女にプリン作りを教わっていたという。
「クレアに相談したんだ。プレゼントで悩んでるって。そうしたら、『旦那様の手作りプリンはどうでしょう』って言われて……」
やはりクレアも関わっていた。
「だから、クレアはスプーンを、僕はプリンをプレゼントしようって決めたんだ」
「そうだったの……」
シンディは二人の心遣いに感動する。
「奥様、さっそくプリンを食べてみては?」
「もちろんよ。いただきます」
クレアが贈ってくれたスプーンで、ランゼルが作ったプリンを食べる。この世にこれほどの幸せがあるだろうかと、シンディは本気で思う。
素朴でまろやかで甘い味が、ふんわりと口の中に広まる。ランゼルの愛情を思う存分味わうことができた。
「……美味しい」
「本当かい!?」
シンディは満足げにうなずく。ランゼルとしてもできる限りの特訓はしたが、やや不安はあったようだ。
クレアが付け加えるように言う。
「奥様は鋭いから、私が何かを隠してるのはご存じだったと思います。でも、深くは聞かれませんでした」
「そうか。ありがとう、シンディ」
シンディはふふっと笑う。
「でも本当は不安だったのよ。二人が何を隠してるのかなーって。だからこんな想像までしちゃったの」
シンディは自分の想像上のランゼルとクレアのやり取りを話す。
『クレア、美味しいプリン屋を見つけたんだ』
『本当ですか、旦那様!?』
『だけど、美味しすぎてシンディに教えるのは危険だ。しばらく内緒にしよう』
『そうですね。奥様に教えたら食べすぎちゃいます!』
「こんな秘密があるんじゃないかと……」
二人は絶句したが、絶対ありえない話ではないかもしれない、とちょっと思ってしまった。
シンディは引き続きランゼルお手製のプリンを頬張る。
「本当に美味しい……。だけど、こんなに幸せでいいのかしらって気持ちにもなるわ」
ランゼルがシンディをじっと見る。
「幸せでいいんだよ、シンディ」
「あなた……」
ランゼルは断言した。
「いや、僕が君を今以上に幸せにしてみせる。一生をかけてね」
「うん……ありがとう。お願いね」
人は幸福を感じると同時に、それを失った時の恐怖も想像してしまうものだ。
幸せ過ぎることに不安すら抱くシンディだったが、ランゼルはその不安をあっさりとかき消した。
この夫婦ならばどんな困難にも打ち勝ち、幸せを失うことはない。
そのまま二人はじっと見つめ合い、視線だけで心を通じ合わせる。
夫婦を見て、「こんなツーショットを間近で見られて私も幸せ」とクレアもうっとりするのだった。
***
誕生日から程なくして、シンディは医師の診察を受けた。
すると――
「おめでとうございます。シンディ様、ご懐妊されております」
「え……!」
シンディのお腹にはランゼルとの子が宿っていた。
その夜、シンディはまだ膨らんですらいないお腹を撫でながら、ランゼルに報告する。
「この中に私たちの子がいるんだって」
ランゼルは目を丸くする。
「シンディ、ついにやったね!」
「うん……!」
ランゼルがシンディのお腹をそっと触り、目を細める。
「僕も人の親になると思うと、少ししんみりしてしまうね。僕は君もこの子も、必ず幸せにしてみせる」
シンディもニッコリと笑う。
「あまり気負わないで。だけど、期待してるわ。パパ」
“パパ”と呼ばれたランゼルは、「気が早いんじゃないかな」と返しつつ、まんざらでもない様子であった。