第14話 伯爵夫人、思い出の店が閉店になると聞いて焦る
夕刻、ランゼルが帰宅する。
「ただいま……」
いつになく「ただいま」に元気がない。ため息までついている。
いかに仕事でトラブルを抱えていても、ランゼルがこんな様子で帰ってくることなどまずない。
シンディはよほどのことがあったのではと心配になってしまう。
「どうしたの、あなた?」
ランゼルは力ない言葉で答える。
「僕たちの思い出の場所があるだろう」
この言葉だけでシンディはある店を思い出せる。
「『シーシャン』のことね?」
ランゼルはうなずく。
王都から少し離れた海辺にあり、ランゼルが婚約破棄されたばかりのシンディを誘ったカフェ。
この一件がなければ、二人は出会わなかったし、シンディはプリン好きにもなっておらず、そもそも自分で自らの命を絶っていたかもしれない。
結婚後は頻繁に通うということはできなくなっていたが、それでも月に一、二度は通うようにしていた。
「今度、閉店するらしいんだ」
これを聞いたとたん、シンディの脳裏に雷撃が迸る。
「なんですって!?」
あの思い出の場所がなくなってしまうなんて……。
風邪はすっかり治ったが、ある意味ではあの時よりも頭がくらくらするような衝撃だった。
どんなことにもいつか終わりはある。カフェが閉店するのも仕方のないこと。それは分かっている。
しかし、どうしても割り切れない部分もあった。
「私……理由を聞いてくるわ!」
***
翌日の午後、シンディは馬車で『シーシャン』にやってきた。
ここに来ると、どうしてもバーデンから婚約破棄された一連の流れを思い出してしまうが、今となってはいい思い出とさえいえる。あのことがあったから、シンディはランゼルと出会えたのだから。わだかまりはこれっぽっちもない。
店内には老夫婦がいた。
初めて会った時よりはさすがに年齢の積み重ねを感じるが、今でも元気そうに見える。
シンディは海の見える窓辺に座り、
「プリンをください」
注文をする。
まもなくプリンが出てくる。あの時と同じ、オーソドックスなカスタードプリン。
あれからシンディも無数のプリンを味わってきたが、この味はやはり特別だと感じる。
「やっぱりいいわぁ、この味……」
食後の紅茶を飲み、ティーカップを置く。
プライバシーに触れるのは勇気がいるが、シンディは老夫婦に思い切って尋ねてみた。
「この店を閉店してしまうと聞きました。なぜ、辞めてしまうのでしょうか?」
老夫婦の夫が答える。
「やはり年齢ですなぁ。七十を越えると、体にガタがきてしまって……」
妻も会話を聞いていたのか、話に入る。
「シンディ様を始め、長年ご愛顧下さったお客様には心苦しいのですけど……」
「そうですか……」
経営難ではなく、年齢の問題。こればかりはシンディとてどうしようもない。
立ち入ることはできないと判断し、シンディはプリンを完食した後、後ろ髪をひかれる思いで退店した。
***
シンディから話を聞いたランゼルはこう提案する。
「だったら、閉店する前に夫婦で食べに行かないか?」
結婚後は『シーシャン』に夫婦揃って行く機会はなかなかなかった。それぞれが時間がある時や近くに立ち寄った時に入る、ということが多かったためだ。
「そうね。ならクレアも一緒に」
「そうだね」
夫婦がクレアを見ると、彼女は首を横に振る。
「いえ、ここはお二人だけで行って下さい。お二人だけの方が、きっと出会った時の思い出も鮮明に蘇るはずですから」
「クレア……。ええ、分かったわ」
シンディはクレアの気遣いをありがたく頂戴する。
「でも、お土産は期待してます! 『シーシャン』のプリンは私も大好きですから!」
「もちろんよ」
シンディはニッコリと笑った。
***
週末の昼下がり、シンディとランゼルは揃って『シーシャン』を訪れる。
「こんにちは」とシンディ。
「久しぶりに夫婦で来ました」ランゼルも照れ臭そうにする。
老夫婦は嬉しそうな顔で出迎える。
シンディとランゼルはあの時と同じように窓辺のテーブルに座る。
「ここで喋ったよね」
「懐かしいわ……」
アイスティーとカスタードプリンが運ばれてくる。
夫婦は揃ってプリンを一口食べる。
「う~ん、美味しい!」
「この味はずっと変わらないよね」
やはり、一人で来た時以上に当時の思い出がくっきりと浮かび上がってくる。
シンディはバーデンに婚約を破棄され、絶望の最中にいた。
永遠に続く闇の中を彷徨うような心持ちで海岸を訪れ、何かを決意したかのように海に向かって歩き出す。
その時、ランゼルに背中から声をかけられる。
『あのー……』
『あなたは……?』
ランゼルは慣れていない様子でシンディを誘う。
『とても美味しいプリンを出してくれるんだ。よかったら一緒にどうかな、と思って』
闇の中にいたシンディを光で照らす言葉だった。
この出会いがあったから、シンディはプリンが大好きな伯爵夫人となり、幸せな日々を過ごしている。
結果、彼女もまた大勢の人を救うことができた。
一方のランゼルにとってもそうだ。
当時のランゼルはクレーメル家当主伝統の職務である財務官を目指し、勉強漬けの日々。
時にはそのプレッシャーに押し潰されそうにもなった。
そんな彼の密かな楽しみが、海の見えるカフェ『シーシャン』通いであり、あの日たまたまシンディを目にした。
海辺に佇むシンディはとても儚げで、このまま放っておいたら彼女はきっと死んでしまう――そうとしか思えなかった。
剣術と学力には自信があったが、恋愛には疎かったランゼルは一世一代の勇気を振り絞る。心臓をバクバクさせながら声をかけた。
その勇気はシンディと、そして彼自身をも救った。
シンディというパートナーを得たことで、今や彼は王国屈指の財務官に成長を遂げた。
シンディとランゼルは互いを強く意識し始めていた。すでにあれから十年経つというのに、初めて出会った頃のような気持ちになっている。
なぜかしら。ドキドキするわ……。
なんでだろう。ドキドキする……。
見慣れたはずの目の前にいる伴侶の顔がとても眩しく見える。
まるで心だけあの頃にタイムスリップしたかのよう。
思い出の店で一緒にプリンを食べたことによる効能なのだろうか。
プリンを食べながら、取り留めもない会話を続ける。
天気のこと、家のこと、仕事のこと、食事のこと、クレアのこと……。
話題が次々移り変わっていくが、このひと時が楽しい。
どんなトラブルを乗り越えた時よりも、どんな難事件を解決した時よりも、充実した時間がそこにはあった。
『シーシャン』を営む老夫婦は二人をまじまじと眺めていた。
「十年前と一緒だ……」
「ええ、あの時の初々しかったカップルのよう……」
「だがお二人とも今や一流の貴族、本当にご立派になられた」
「それなのに、私たちの店に来てくれてありがたいですねえ」
少しの沈黙の後、夫が切り出した。
「もう少し……続けてみないか?」
「私もそう言い出そうと思っていました」
シンディとランゼルを見ているうちに、この二人の五年後、十年後をもっと見てみたい気持ちになった。
この二人を結び付けたカフェの店主として。
自分たちの命が続く限り。
そして――
「閉店はやめにします。もう少し続けてみることにしました」
この言葉に、シンディたちは喜ぶ。
「ホント!?」
「それはありがたい!」
「なので、また遊びに来て下さい」
シンディとランゼルは声を揃えた。
「必ず行きます!!!」
***
夜、夕食を食べながらシンディが安堵の笑みを浮かべる。
「『シーシャン』が閉店しなくてよかったわ」
ランゼルも肉を頬張りながらうなずく。
「うん、本当に嬉しいよ。だけど、どうして閉店を取りやめたんだろう?」
「急に体調がよくなったんじゃないかしら?」
「そうとしか考えられないよね」
二人の会話を聞いていたクレアはなんとなく分かったような気がした。
きっとお二人を見ていたら、お二人の未来を見たくなり、店を続けたくなってしまったのではないか、と――
だが、その答えを教えるのは無粋であり、なおかつ自分で独り占めしたい気もして、クレアは何も知らないふりをしてニッコリと笑うのだった。