第13話 伯爵夫人、風邪をひいて生死の境を彷徨う
ランゼルは財務官として、地方の視察に出向くことになった。
地方と中央の財政格差はシュルク王国の課題の一つであり、彼の改革案で大きく是正はされたが、まだまだ予断を許さない。ランゼルとしては是非地方の運営をこの目で見たいという思いがあった。
「いよいよ明日から出張ね」とシンディ。
「うん、寂しいかい?」
「とっても寂しい」
上目遣いで見つめられ、ランゼルは赤面してしまう。
このやり取りは完全にシンディの勝利となった。
「でも大丈夫。クレアもいてくれるから」
「うん、そうだね。彼女がいれば安心だ」
「気を付けてね、あなた」
「ああ、しっかり務めてくるよ」
出張は二週間ほどの予定となる。
寂しくはあるが、あくまで一時的なもの。大きな問題はないだろうと思われた。
ところが――
***
主人のいない邸宅で、シンディは時を過ごす。
家事全般をやってくれているクレアを手伝う。
「洗濯物の取り込み? 私も手伝うわ」
「ありがとうございます」
クレアもシンディの申し出を固辞したりはしない。談笑しながら家事を進める。
だが、シーツを運ぶシンディの様子がおかしい。足元がふらついている。
「奥様?」
「ん……大丈夫よ」
しかし、目の焦点が合っていない。
ふと思い立ってクレアはシンディに向けてピースサインをする。
「これ、何本に見えますか?」
「うーん、三本?」
「奥様……これは二本です」
「え~? クレアったら冗談が上手いんだから……」
笑いつつ、足はますますふらつく。
「奥様!?」
クレアが駆け寄りシンディを全身で支える。掌で額を触ると、かなりの熱を持っていた。
「……熱がある!」
ここからのクレアは素早かった。慌てずてきぱきと動く。
シンディを寝間着に着替えさせ、ベッドに寝かせる。体にいいとされる温かい茶も用意する。
「心配いらない。一晩寝れば治るわ」
シンディが言い張るので、クレアはひとまず様子を見た。
だが、一晩経ってもシンディの容態はよくならなかった。それどころか酷くなっている。熱は上がり、ほとんど食欲もなくなった。
クレアはランゼルの残したメモを確認する。
その中には医者の住所もあった。国王の末子ユベルを救った縁で、王家お抱えの医者を紹介してもらっていた。いざという時は彼を頼りにして欲しいと。
紹介状があったことで、依頼はすんなり受け入れられた。
“王国一の名医”ともいわれるハイレンが、クレーメル家を訪れる。
白衣を着た、いかにもベテランといった中年医師であった。さっそくベッドに眠るシンディを診察する。
「ううむ、これは風邪のようですな。しかし、かなりの重症だ……」
「そんな……!」とクレア。
「命に関わる恐れもある。私も出来る限り力を尽くすので、クレア殿も協力をお願いします」
「はい、もちろんです!」
ハイレンは薬を処方し、クレアもシンディの身の回りの世話に力を尽くした。
満点といっていい看護だったが、シンディの容態は回復しない。それどころか、日に日に悪くなる。
「奥様、プリンですよ。奥様の大好きな『オール堂』の……」
シンディは苦しそうにうめいている。ついには呼びかけにも応じなくなってしまった。
決して考えないようにしていた「シンディの死」という最悪の事態を想像してしまう。
想像した途端、これまで気丈に振る舞っていたクレアだったが、一気に心細くなってしまった。
「奥様、死なないでぇ……」
唇を噛み、目からポロポロ涙をこぼしてしまう。体の震えを抑えられない。
この時、頭によぎったのはランゼルだった。
ランゼルなら、シンディを助けられるかもしれない。いや、きっと助けてくれる。
シンディのためにも、ぜひランゼルには帰ってきてもらわねばならない。
「旦那様……!」
しかし、ランゼルは出張の真っ最中。帰ってくるまでには一週間以上ある。
シンディの危機を伝えるための早馬を出すしかないが、早馬の業者は多忙であり、特別な地位――例えば貴族でもなければまず動いてくれない。
クレアが頼んでも門前払いされてしまうだろう。
だが、クレアは自分にも貴族の知り合いはいると思い返す。
男爵家令息レナード・ムース。クレアはすぐさまムース家の邸宅に向かい、レナードと会った。
話を聞いたレナードは快く了承してくれた。
「分かった。すぐ早馬を手配しよう」
「ありがとうございます……!」
目を潤ませるクレアに、レナードはそっとハンカチを差し出す。
「大丈夫、君がそれほど思っているのなら、神は必ずシンディ様を助けて下さるよ」
「はい……!」
レナードの言葉は力強かった。
かつてカフェ『オアシス』で下らない嫌がらせをしていた頃の面影はない。
表情も引き締まったものになっており、クレアと出会ったことで、レナードは真の貴族への道を歩み出していた。
クレアはメイドとして出来る限りのことをした。
あとは――シンディ本人と、ランゼル次第である。
***
レナードが早馬を出してから二日後の夜、ランゼルが帰宅する。
「旦那様!」
クレアは待ち切れなかった様子で玄関まで出向く。
「シンディは?」
「医師のハイレン様によると、今夜が峠だそうです……」
クレアはうつむいてしまう。
「分かった。よくやってくれたね、クレア」
クレアを労うと、ランゼルはシンディの寝室に入る。
看病をしていたハイレンは邪魔にならないよう、ベッドから離れる。
布団をかぶり横たわるシンディは息も絶え絶えという様子だった。
だが、ランゼルは落ち着いている。普段通りの口調で告げる。
「ただいま、シンディ」
「ラ、ランゼル……?」
ほとんど言葉も発せなくなっていたシンディがランゼルの名を呼ぶ。うわごとのようではあったが、かすかに嬉しそうな響きも含んでいた。
シンディがランゼルを名前で呼んでいたのは婚約から結婚までのごくわずかな期間だった。それ以降は夫人として「あなた」と呼んでいる。
体が弱り切り消耗した心が、夫人としての体裁よりも愛する人の名を口にさせることを優先させたのだろう。
「プリン、食べるかい?」
クレアもプリンを勧めたことはあるが、シンディは食べられなかった。
もはやプリンを食べる体力も残っていないと思われていたシンディだったが――
「た、べる……」
クレアとハイレンは驚いた。
ランゼルはこうなることを確信していたように、キッチンからプリンを運んでくる。
ベッドの傍らに座る。
「食べさせてあげる。あーん」
すると、シンディは――
「あーん」
プリンを食べた。もうほとんど食事も取れなかったというのに。
「もう一口食べる?」
「食べる……」
さらに一口。
クレアは二人の愛に感激するが、ハイレンは開いた口が塞がらなかった。死に瀕していたはずの患者が、プリンを食べている。
「もう少し食べたい……」
「じゃあ、あーんして」
「あーん」
こうして一口ずつプリンを食べていき、シンディはプリン一つを完食してしまった。
シンディは甘えるような声で言った。
「もう一個、食べていい?」
「いいとも」
ランゼルはうなずく。
「ほら、あーん」
「あーん」
この様子を見てクレアはもうシンディは大丈夫だと安心する。さすが旦那様と感謝する。
一方のハイレンは驚愕した様子で独りごちた。
「し、信じられん……!」
***
次の日の朝、シンディはベッドで目を覚ます。
「んん……」
カーテンの隙間から入ってくる朝日が眩しく、目を細める。
しかし、気分は晴れやかだった。
「あ~、よく寝たわ~」
上半身を起こし、背伸びをする。その仕草は猫のようにしなやかだった。
「ん……骨がパキパキ鳴るわぁ……。気持ちいい……」
近くにはランゼルとクレアが立っていた。
ランゼルは病魔に打ち勝った妻に温かな笑みを送る。
「お帰り、シンディ」
「ただいま、あなた」
クレアは感極まって、シンディの胸もとに飛び込む。
「奥様ぁっ!!!」
「あらあら、クレアったら……」
「奥様……奥様ぁ……!」
「ふふ……私は大丈夫よ。ん、クレア?」
そのままクレアはシンディの胸の中で眠ってしまった。
目を閉じ、心底安らいだ表情ですぅすぅと寝息を立てている。
「きっと君が倒れてから、全然眠ってなかったんだろう。君に何かあったらすぐ対応できるようにと……。僕に早馬を送ってくれたのもクレアだったそうだ」
「うん……」
シンディは胸の中で眠るクレアの頭を優しく撫でた。
あなたが私のメイドで本当によかった、と耳元でささやいた。
念のためハイレンに改めて診察してもらうも、この一晩でシンディの病魔はすっかり去ったという診断だった。
「奇跡としか言いようがありませんな」と驚嘆する。
シンディは駆けつけてくれたランゼルに礼を言う。
「ありがとう、あなた。出張で忙しかったでしょうに……」
「なんの。残る視察はあとわずかだったし、信頼のおける同僚に引き継いで任せてある。それに、僕は君のためならどこからでも駆けつけるよ。……なんて、こんなこと一度言ってみたかったんだよね」
「うふふ、あなたったら……」
元気を取り戻したシンディ。やはり彼女にとって、一番の元気の出る薬は愛する夫ランゼルだったのかもしれない。
なお、この後王家お抱え医ハイレンはこの件をレポートにまとめ、ついには「愛する者がプリンを食べさせるという行為には素晴らしい効能がある」として、『プリン療法』なる論文を発表し、大きな話題となった。