3話 不覚
「っ!!」
オゼアンは走った。
人混みの中を、背中の剣の重みも気にせずに、その健脚でもって風の如く走り抜ける。
障害を飛び越え、石畳を踏み締めて、小汚い背中を追い掛けた。
「待てっ!!」
目的はただ一つ、盗まれた銀貨を取り返す事だった。
ぶつかって銀貨をスリ取られるとは如何に自分が平和惚けして油断していたと思い知らされる事で、屈辱を注ぐためにもオゼアンは走った。
それに対して追われている方は、小さな体で有りながらかなりの速度で走っており、早々に着いていけなくなったコーネリウスとハリスを置いて、二人の少年は町中を縦横無尽に走って追い追われる。
「っち!しつこい!!」
追われる少年は、銀貨の入った久し振りの戦利品を懸命に抱えて脚を動かし、それでも追い縋る相手に悪態を吐く。
少年はコレまでに数々の盗みを熟してきたプロのスリで、一筋縄ではいかない相手も多かったが、それでも自慢の健脚で逃げおおせてきた。
しかし、今、自分を追ってきている相手は、並の脚では無い。
道も知り尽くした少年を相手に、その脚の速さだけで追い縋るのは、少年に取っては恐怖その物だった。
「何だよ畜生!!」
少年は市場を脱けて路地に入った。
迷路の様に入り組んだ自分の庭に入りさえすれば、土地勘の無い相手を撒けると踏んだのだ。
それに対してオゼアンも、スリの少年が路地に入るのを見て内心でほくそ笑んだ。
動き回る人と言う障害物が無くなれば、更に加速して追い付けると考えた。
「ふっ!・・・すぅ~・・・」
二人の思惑通り、路地に入り込んだ瞬間に、オゼアンは短く息を吐いて、ゆっくりと息を吸う。
一息入れた後、オゼアンは路地の奥へと突き進んでいく背中目掛けて加速した。
「んなっ!?」
驚いたのは追われていたスリの少年だ。
今まで全力で走って距離を詰めさせないでいたのに、更に加速してきたのを見て驚愕した。
自分以上に脚の速い相手など見た事の無かった少年に取って、後から追い付いてくる存在は、最早人間では無いとすら思えた。
「・・・」
「クソッ!!」
無言で直ぐ側まで迫るオゼアンは、悪態を吐いた少年に向かって手を伸ばす。
あと少し、ほんの数cmで手が届く。
捕まえて金を取り戻したら如何してくれようかと、オゼアンは頭の中に思い描く。
「っ!!」
直後、少年は横に跳んだ。
暗い路地の陰に隠れた横合いに別れた小道にオゼアンは気付く事が出来ず、掴みかけた手からスルリと抜けて消えてしまう。
「くっ!!」
直ぐさまオゼアンは体にブレーキを掛ける。
無理矢理に止まった所為で体に負荷が掛かり、僅かに体勢を崩してしまうが、それでも体を入れ替えてスリの逃げた小道に向かう。
時間にして1秒か2秒か、ほんの僅かなその時間は、しかし俊足を持ってすれば逃げおおせるのに充分な時間で、暫く小道の中を走り回ってみても、影も形も無く消え失せたスリの少年の痕跡は見付からない。
「・・・」
間一髪でオゼアンの魔の手から逃れる事が出来たスリの少年に、オゼアンは舌を巻く。
入り組んだ路地の更に先の小道で、どう逃げたのかも分からずにオゼアンは茫然と佇んで、暗闇を見渡した。
そして、小さく息を吐く。
「・・・」
オゼアンは強く拳を握った。
自らの不注意で招いた汚辱を注ぐ事が出来ずに、不甲斐なさに歯嚙みする。
「オゼアン様!」
コーネリウスが追い付いてきて呼び掛ける。
「逃げられてしまった」
肩を落とすオゼアンは、しかし、素直にコーネリウスに告げた。
苦渋に満ちた表情は、コーネリウスは暗い路地の中でも確りと見る事が出来て、少し珍しいと感じる。
「俺とした事が・・・不甲斐ない」
「・・・」
コーネリウスは目の前の肩を落とす少年に何と言って声を掛ければ良いのか分からなかった。
何処か大人びて諦観した、それでいて苛烈な気性の覗ける少年の、年相応な部分にコーネリウスは僅かな安堵と共に、驚きを感じていた。
とても常人の様には思われなかった少年が、実の所かなり人間臭く、年相応に一喜一憂するのだと思うと、コーネリウスは不思議と嬉しく思う。
「コーネリウス様」
ハリスも漸く追い付いてくると路地で肩を落として佇む少年に眼を向ける。
状況からスリを逃がしたのだと察したハリスは、少しだけ言葉を掛けるのを躊躇って、辺りを見回した。
しかし、そうしていても何にも成らない事は瞭然で、ハリスは意を決して口を開く。
「・・・取り敢えずここを出ましょう」
提案されて、オゼアンは仕方なしに従って三人一緒に路地の外に出た。
鹿毛に覆われた薄暗い路地を背に、再び市に出た三人は顔を突き合わせてコレからの事を話す。
「取り敢えず・・・コレからの事を如何するかですが」
「・・・」
「先立つ物が無ければ、どうにも成らんな」
オゼアンは溜息交じりにそう言うと、憂い顔で空を見た。
「少し・・・浮かれすぎた」
「・・・取り敢えずは私が立て替えます」
コーネリウスは落ち込んだ少年にそう言ってハリスを見る。
ハリスは何も言わない物の、確りと眼を合わせて頷いた。
「・・・感謝する」
背中の剣に視線を移しながらそう言うと、オゼアンはハリスに眼を向けた。
いっそ買ったばかりの剣を売れば幾許かの金にはなるかと考えるも、ハリスは無言のままで手を肩に置いて首を振った。
その仕草にオゼアンはやはり無言で頷いて返すと、空を見上げて陽を向いた。
「ここからウォーゼスの領都まではどの程度掛かる?」
「・・・大凡2週間と言った所でしょうか」
ハリスは少し考えてから答える。
ウォーゼス家が治めるのはケルティア伯爵領と呼ばれる地域で、現在地はケルティアの北側領境付近になる。
領都はケルティアのほぼ中央に位置し、予定では南に向けて街道を進む。
街道上の街や村を転々としつつ、南下した先の領都に入れば、そこからはオゼアンは強行に進入して母に会うつもりだ。
「この際、旅道具はどうでも良い」
「・・・」
「どうせ、毛皮を売ったとは言え、強奪同然に手に入れた泡銭にも興味は無い」
「はあ・・・」
「しかし、不覚を取った事だけは我慢しがたい」
オゼアンは二人に向けてそう告げると、今し方出て来たばかりの路地に眼を向けた。
暗くジメジメした建物と建物の隙間の狭い道が、不気味に口を開けている。
「オゼアン様・・・不覚を取った事は致し方が有りません。しかし・・・」
「分かっている。しかし・・・惜しいな」
ハリスの諫める言葉に、オゼアンは後ろ髪を引かれた。
しかし、それでも先の事を考えれば、固執する訳にも行かない。
「冬になれば移動はかなり難しくなります」
後暫くすれば冬になり雪が降る。
それ程雪深いと言う訳でも無いが、それでも冬期間の旅は困難が付き纏う。
それを考えれば早い内に、出来れば雪が降る前に領都に辿り着きたい。
一日すら今は惜しいのだ。
「仕方が無いか」
「はい」
「この恩は何れ返す。・・・必ずな」
オゼアンの言葉に、コーネリウスはやはり何処か大人の様なと思い、しかし、それでいて子供らしさも感じ、小さく笑みを零した。
「じゃあ、早速行くか」
そう言葉を残してオゼアンは歩き出す。
コーネリウスとハリスが金を出し合って支度を済ませると、三人は揃って街を出た。
新たに手に入れたブーツと外套を身に着けて、コーネリウスと共に馬に跨がって南へ向かう。
目指すは街道上の先にある村で、日暮までにはたどり着けるとハリスが先導する。
道中は言葉が少なく、ただ馬の背に揺られ続けて、陽が西に傾いて紅く焼けてくる時頃に殆ど何も言葉を交わさずに、最初の目的地の村に辿り着く事が出来た。
村長との交渉のためにハリスとコーネリウスが出向いて話を付けている間、オゼアンは購入したばかりの剣を磨いていた。
刀身に着いたままの汚れを擦り落とし、腹の部分の薄らとした錆を磨いていくと、重厚な輝きの鋼の刀身がその姿を現した。
「・・・」
「良い剣ですね」
オゼアンが磨いた刀身を眺めていると、村人が声を掛けてきた。
オゼアンが顔を上げて声の主を見ると、そこには年若い女性がいた。
洗濯桶を脇に抱えた田舎の女と言う風体の垢抜けない女性に、オゼアンは少し馬鹿にした様に視線を送った。
「女に剣が分かるものか」
女にとは言いつつも、オゼアンは女性でも優れた戦士がいるのは知っている。
実際に数多くの優秀な女戦士や女騎士と戦った経験も有る。
だが、こんな田舎の村の洗濯女程度に、武具の善し悪しが分かるとは思えず、心がささくれ立っていた事も手伝ってそんな事を口走ったのだ。
「あら、コレでも目利きは確かな物よ?」
女性はオゼアンの言葉に対して全く気にした様子を見せずに言いながら、続けて口にする。
「ん~・・・それは鋼鉄製?北の方の物かしら」
「・・・恐らくな。だが、大分古臭い」
「そうね~・・・でも作られたのは最近じゃない?」
そこまで言われると、オゼアンは内心で驚いた。
言う通り女性の目利きは確りした物で、オゼアンが顔を上げて見ると、悪戯っぽく女性は笑みを浮かべた。
「私、こう見えても父が騎士だったのよ?」
「成る程・・・その父親は?」
「さてねぇ~・・・所詮は私生児だったし、邪魔になったから捨ててったのよね」
中々どぎつい事を笑顔で話す女性は、頭の手拭いを取った。
そうすると、ゴワゴワの傷みきった明るい栗色の髪と、ピンと立った三角の大きな耳が姿を現す。
「獣人か」
「クー・シーよ」
毅然としてオゼアンの言った言葉を訂正した女性は、オゼアンの頭を撫でる。
「撫でるな」
オゼアンは女性の手を払い除けると、立ち上がって剣を鞘に収めた。
「ごめんね。同じ年頃の息子が居るから、ついね」
「・・・」
実の所、オゼアンは頭を撫でられたのは初めての事で、内心では心地良く感じていた。
それと同時に、何となく母に甘えるような心持ちになってしまいそうで、鋼の心で自制したのだ。
女性はオゼアンに手を払われて、怒らせてしまったかと、少し耳が垂れる。
「オゼアン様」
コーネリウスが戻ってきた。
何となく微妙な雰囲気になった所に声を掛けてきたコーネリウスは、女性を少し訝しげに見て、それからオゼアンに視線を向ける。
「交渉が出来ました。泊まっても良いと」
「そうか・・・」
取り敢えず滞在許可は出た。
今晩一晩は村で泊まり、明朝には再び移動を開始する。
今日は色々あったなと、オゼアンは少し気疲れの様な者を感じて肩を回す。
「貴方たちこの村に泊まるの?」
「・・・ええ、そのつもりです」
女性が言葉を掛けてくる。
何となく世話好きそうな女性に、コーネリウスは慎重に言葉を返した。
そうすると、女性は笑みを浮かべて手を叩いた。
「良かったら内に泊まりなさいよ」
「え?」
「どうせ、ケチな村長の事だから部屋は貸さないって言われたでしょう?」
「え、ええ・・・まあ」
女性は事もなげに村長の悪口を言って、そのまま続ける。
「どうせ、部屋を貸すには金を払えとか、そんな事を言うつもりなんだから・・・家ならタダで良いわよ」
人の良さそうな女性の提案に、しかし、コーネリウスは答え倦ねる。
一体何と答えた物かと思いながら、コーネリウスはオゼアンを見た。
「・・・そうだな。三人だが大丈夫か?」
オゼアンが尋ねると、女性は胸を叩いて笑う。
そのまま、戻ってきたハリスも交えて話し合い、結局は三人は女性の家で一晩世話になる事にした。
馬は厩舎の一角を借りて留め置き、女性の案内で村はずれの小さな家に辿り着くと、中に案内される。
「まあ、小さな家だけど、我慢してね」
「いえ、休めるだけでも助かります」
コーネリウスが女性に言葉を返す。
オゼアンは手頃な隅の壁に背を持たれて座り込み、剣を肩に掛ける。
ハリスは荷物の中から小袋を取り出すと、女性に手渡した。
「現金に乏しくてな。取り敢えず麦で頼む」
「まあ、それじゃあ遠慮無く頂きます」
麦の入った袋を受け取った女性は、そそくさと部屋の奥の方に引っ込んで行き、食事の準備を始めた。
外を見れば、後1時間もすれば日が落ちるだろう頃合いだ。
そんな時に、外の方から足音がして、オゼアンは立ち上がって外を覗く。
窓からそっと外を見ると、そこには女性と良く似た少年が荷物を背負って向かってきている。
「ただいまぁ!」
程なくして少年は扉を開けて家に入ってくる。
元気良く声を掛けると、家の奥から女性の返事が返ってくる。
だが、少年は普段とは違う家の中の様子に首を傾げて、居並ぶオゼアン達を見回した。
「おう?」
「お前は・・・」
オゼアンは少年を見るや、直ぐに手を伸ばして掴み掛かった。
「っ!!」
少年は一度驚いた様に眼を見開き、しかし身を翻してオゼアンの手から逃れる。
「クソッ!!」
少年は直ぐに入ってきたばかりの扉から外に飛び出した。
「逃がすか!!」
オゼアンも、茫然とする二人を尻目に少年を追い掛けて飛び出す。
背負っていた荷物を放り捨てて身軽になった少年は、驚くべきスピードで走るが、その後を追い掛けるオゼアンもまた、荷物を下ろして身軽になっていて、獣の如き動きで追い掛ける。
「っ!!」
「・・・!!」
「昼間の様にはいかんぞ」
オゼアンが走りながら呟いた言葉は、逃げる少年の耳にも確りと届いていた。
「っ!!」
少年は走った。
人生で一番に力を込めて走った。
既に常人には追い付けぬほどの速度で疾駆していたにも関わらず、少年は驚くべき事に更に速度を増して逃げた。
「なっ!?」
遂にオゼアンが驚きに声を上げた。
目一杯に走って追い掛けていたオゼアンに取って、更に速度が上げられると言う発想は無く。
ここに来ての増速は、全くの予想外と言う他ない。
「っあ!!」
僅かに少年とオゼアンの距離が離れ始める。
徐々に徐々に少年は加速して、コレまでの最高速を塗り替えて地面を蹴った。
「クッ!!」
これに対してオゼアンは歯を食いしばって追い縋ろうとするが、それ以上の速度を自分の脚が出す事は出来ないと理解していた。
オゼアンは、このスリの少年の脚に舌を巻く他無かった。
しかし、オゼアンとて、ただ逃がすわけは無い。
「っ!?」
少年が再び後を振り返った時、そこにオゼアンの姿は無かった。
「・・・」
暫く走ってから脚を止めて、周囲を見回す少年は、一瞬、逃げ切ったかと僅かに息を吐く。
瞬間、少年の鋭敏な耳がほんの微かな異音を感知する。
「っ!」
少年の背筋に冷たい電流が走り、全身の毛穴が開いて尻尾の毛が逆立った。
同時に、少年は直ぐにその場から走り出す。
「っあああ!!」
直後、オゼアンが飛び掛かった。
寸での所で逃れた少年は再び加速して逃げ、オゼアンも直ぐに体勢を立て直して追い掛ける。
再び始まった追い駆けっこで二人は村の中を縦横無尽に疾走し。
二人の全力を掛けた戦いは、既に灯りのつき始めた村の家々の人々の衆目を集める。
「っ!!」
「くっ!!」
時に大胆に、時に繊細に、手を変え品を変え、二人は全力で逃げ、全力で追い掛ける。
地上最速の勝負は何時までも続くように想われた。
「ライナ!!」
終わりは呆気なく訪れた。
少年は母親に声を掛けられるや否や、条件反射の様に脚を止めてそろりと母の方を見る。
「コッチに来なさい」
「・・・はい」
とぼとぼと呼ばれるままに歩く少年に、オゼアンは少し茫然として、その背中を見詰めた。
「・・・」