2話 市
オゼアンに取って、自分の世界と言うのは深く鬱蒼とした森の中の小さな小屋の周りと、記憶の中の戦場だけだった。
前世での二十年間の人生は半分は戦いの内に過ごし、今生での十二年は、既に半分以上がこの森の中の小屋での事しか経験が無い。
オゼアンは通算で三十二年の人生の経験が有りながら、一般の人生経験は少なかった。
「おお・・・」
だから、オゼアンは今生で初めて降りた人里に、珍しく外観の年齢相応に瞳を輝かせて忙しく首を動かして見回した。
「ここが市か」
オゼアンの知っている街と言うのは、何処か鬱屈とした寒々しい雰囲気で、誰も彼もが俯いて地面を見ている物だった。
歩く者は覚束ない足取りで、道端には擦り切れた襤褸布を身に纏って座り込み、手を差し出して恵を寄越せと力無く口にする。
腐敗と諦観の横行した死にかけの街の様子しか、オゼアンは見た事が無い。
「ここは・・・良い街だ」
シミジミとオゼアンは口にする。
コーネリウスは後で聞いていて少しその言葉を不思議に感じ、ハリスは何処かその言葉の重さを分かっている様に小さく頷く。
ハリスもまた、オゼアンの言葉に嘗て目にしてきた風景を思い出したのだ。
この三人組の中で、唯一本物の戦場と言う物を見た事が無く、豊かに繁栄した人々を護る事だけが経験の騎士には、この光景が当たり前の事だった。
「先ずは・・・」
コーネリウスは口に出しかけて止まる。
ここまでの三日間、小屋を後にした三人は、ひたすらに小さな街道を歩くだけだった。
殆ど物を持っていないオゼアンは、旅の道具を揃える為に街に来たのだが、ここから、何をするべきかは良く分かっていなかったのだ。
ハリスは内心で溜息を吐きながら口を開いた。
「先ずは商人の下へ・・・オゼアン様の毛皮を換金致しましょう」
オゼアンの背中には小屋から持ち出した道具と纏められた毛皮が背負われている。
コーネリウスとハリスの馬にも同じ様に毛皮が積まれていて、それは、オゼアンが小屋の周囲で過ごした七年の内に溜め込んだ毛皮だった。
食糧採取で得られた獣から剥ぎ取り、暇潰しを兼ねて良く鞣された上質な毛皮は、幾つかは衣服や毛布を作るのに使いはしたが、しかし、それでも到底使い切る事など出来ずに、山と積まれていたのだ。
「毛皮を取り扱う商人を探すか」
コーネリウスは元より、オゼアンにもハリスにも商売の真似事の経験は一切無かった。
唯一ハリスが多少の知識を備えているだけで、実際には何処で取り扱っているのかも殆ど分からない。
とは言え、それなりに大きな市では衣服や革製品を取り扱う店も有り、その中の一つのめぼしい所へ持っていこうと考えていた。
オゼアン一人だけならばどうにも成らない事では有ったのだが、明らかに身形の良い騎士と、熟達した雰囲気の従者の二人がいるのなら、余程の事が無ければ門前払いと言う事も無い。
「・・・」
市の中央付近の大きな商店の軒の列ねる場所まで進むと、オゼアンは戦場で見せる様な鋭い視線を這わせた。
どの商店も愛想が良く、道行く人々に声を掛けては頻りに自分の店の商品を売り込んでいる。
その商売人の群れの中から向けられる幾つかの視線に、オゼアンは直ぐに気付いた。
そして、其れ等の視線の主が、皆毛皮物を取り扱っているのに気が付いて、オゼアンは小さく笑みを浮かべる。
「しかしなあ!」
突然、オゼアンは大きな声を出した。
何かと思ってコーネリウスとハリスが驚くが、オゼアンは全く気にせずに続ける。
「この毛皮は如何したものでしょう。数が有るとは言え、幾らばかりに成るのか分からぬのは不便だ。詳しい者を連れてくれば良かったですねコーネリウス様」
何を言うのかとコーネリウスは首を捻るが、ハリスはその真意に気が付いてオゼアンに合わせる。
「これ!情け無い事を言うで無い。全く主人に恥を掻かせるつもりか!」
ハリスは大仰にオゼアンを叱咤して、軽く小突いてみせる。
「ハリス!?」
未だ状況の掴めないコーネリウスは、突然の暴挙に思わず声を上げるが、オゼアンは抜け目なく商人達の方を盗み見る。
「合わせろコーネリウス・・・」
「?」
小声でオゼアンはコーネリウスに告げると、小突かれた頭を抑えながら言った。
「どうせこの程度売っても大した額には成らないのですから、さっさと売り払ってしまいましょうご主人」
またもや聞こえる様にオゼアンが言葉を発すると、商人達の視線が余計に集まってきて、獲物を狙う獣のそれに近付いて行く。
「あ・・・ああ、そうだな。しかし、何処で売れば良い物か・・・」
コーネリウスは未だ良く分からないままオゼアンに言われた通りに合わせ、その間にハリスは小さく息を吐いた。
そうすると、一人の恰幅の良い商人が体を揺すりながら近寄ってきて声を掛ける。
「もし、そこな騎士様は、よもやすると毛皮の処分にお困りで御座いますか?」
オゼアンが小さくほくそ笑む。
「そうなんだよ。ご主人が調子に乗って獲りすぎるもんだから、こんなに毛皮が溜まっちまって、重いったら有りゃしない」
オゼアンの言葉に、商人は人の良さそうな笑みでコーネリウスに向かった。
「わたくしは商人のエドウィンと申します。もし宜しければ、私共の方で査定を行いますが、如何でしょう?」
オゼアンの感じ取る、周囲の商人の視線が、獲物を狙うそれから、憐れな罠に掛かった小動物を嘲笑うそれに変わる。
コーネリウスはよく理解しないままでエドウィンと名乗る商人の言葉に頷くと、オゼアンとハリスの先頭に立って案内を受ける。
僅かな道中にも愛想笑いと小粋な話を続けるエドウィンに、中々マメな人間だとオゼアンは感じながら、コーネリウスの後に続く。
そして、立派な構えの商店に入ると、オゼアンは丁稚の様に精力的に働いて、馬から毛皮を下ろして運ぶ。
「さてさて・・・早速で不躾では御座いますが、毛皮を拝見させて頂きます」
「ああ、頼む」
エドウィンはコーネリウスに向かってそう言うと、毛皮の内の一枚を取り出して、慎重に視線を這わせた。
同じ様に他の毛皮を幾つか選んで検分して、エドウィンは溜息を吐いて顔を上げる。
「騎士様・・・大変申しづらいのですが・・・」
「何だ?」
「この毛皮では、大した値段は付けられません」
本当に申し訳なさそうにするエドウィンだが、微かに動く視線が、時折毛皮に向けられている。
「先ず、一枚一枚の大きさが小さいのと、鞣しが甘いのが問題です。毛の傷みも少し気になるところで有ります」
「・・・で、如何ほどに成る」
ハリスが神妙にエドウィンに尋ねた。
エドウィンは算盤を弾いて計算を始めると、程なくして金額を告げる。
「全部で占めて・・・色を付けて銀貨5枚程度でしょうか」
銀貨1枚の価値は大凡、普通の一般的な労働者の日当程度で、職人で有ればその倍額程度、銀貨1枚で慎ましく切り詰めて一週間は生活が出来る。
それなりに大きな金額ではあるのだが、今回オゼアンが持ち込んだ毛皮は全部で40枚、全て狐の毛皮で、今の時期から需要は増加し価格が上昇傾向だ。
ハッキリ言って、エドウィンの提示した価格は、ぼったくりも良い所で、言う事が本当であったとしても、その十倍以上の価格でも引き取る業者は居るだろう。
エドウィンは内心では銀貨70枚の価格を試算していた。
恐らくは例えそれでも加工して売りに出せば充分に利益が出る程度の品質で、実際、エドウィンは皮の鞣しに感心を抱いている。
毛の痛みは古いものでは仕方が無い物の、最近の10枚程度に関しては文句の言いようが無い状態で、加工職人によってはかなり高位の貴族に売り出しても通用すると言う感想だ。
持ち込んだのが世間の事を何も知らない騎士とその付き人と小姓らしき三人組で、実に美味い商売だとエドウィンはほくそ笑むが、その心中を見事に看破して見せたのがオゼアンだった。
「・・・」
確かにオゼアンには商売の経験も無ければ、市井での経験にも乏しい。
しかし、戦場で常に油断成らない環境で培われた眼は、相手の僅かな所作、言動、表情から自分を貶めようとしている事を見逃さない。
実の所、オゼアンの眼には毛皮の価値は大した物には映っておらず。
エドウィンがもう少し上手く内心を隠せていれば、言われた通りの金額で納得した。
しかし、大変に旨味の多い商売に、そして、素人の三人組相手と言う事も手伝ってエドウィンは好きを見せてしまったのだ。
そして、その好きを見過ごす事の無いオゼアンは、だからこそ笑みを浮かべてエドウィンの前に出た。
「?・・・何かね?」
エドウィンは、行き成り主人の前に出て来て自分を見詰める少年を、訝しげに睨む。
だが、その直後に自分に向けられた射貫くような眼に、体を硬直させた。
「エドウィンと言ったか・・・」
「・・・っ!」
「見くびるなよ?この程度でだませると思ったか?」
自身を刺し貫く槍の穂先を幻視するエドウィンの額に大粒の汗が浮かぶ。
オゼアンの背後のコーネリウスとハリスも、言い知れぬ迫力に思わず体に力を入れて、圧倒されるばかりだった。
「もう一度聞こう。毛皮は幾らだ?」
「っ!!」
エドウィンは追い詰められた獲物が必死で藻掻くように算盤を弾く。
「ろ、・・・60枚。銀貨60枚で如何でしょうか」
ここで素直に金額を答えずに、多少とも安く答えたのは、ほんの微かに残った商人としての矜持がさせた物だった。
だが、それがいけなかった。
「・・・」
オゼアンはエドウィンを更に厳しい目付きで睨み、静かに告げる。
「80枚だ」
「っ!?そ、それは・・・いくら何でも」
暴利と言う程では無いが、その値段では利益は出ない。
エドウィンは慌てて抗議しようとする。
「先に欺そうとしたのはお前の方だ。騎士を相手に無礼を働いたらどうなるか・・・分かるか?」
騎士と言うのは末端も末端では有るが、それでも特権階級の一端で、実情はどうであれ、商人がおいそれと逆らえる相手では無い。
騎士とは訓練された軍人であると同時に、家を持ち、役に就き、権力を持つ存在で、確かに豪商からすれば金の力でどうとでも出来る相手だが、だからと言って、欺そうとしたのが看破されれば、相応に罰せられても一切文句は言えない。
「80枚だ。それがお前の首から上の値段だ」
「っ!」
鋼鉄すら貫かんとばかりの眼光で脅しを掛けられると、エドウィンはすっかりと意気消沈して、へたり込んで力無く頷いた。
「・・・確かに頂きました」
ハリスが銀貨の入った袋を検めて枚数を確認すると、コーネリウスは何処かバツの悪そうな表情をする。
内心で強盗紛いのオゼアンの行動を良くは思っておらず、それに同調しているハリスにも、僅かに距離を感じたのだ。
「・・・」
オゼアンは、そんなコーネリウスの胸中を何となく察して、しかし、掛ける言葉は何も無い。
生きていく上では多少の事は許容するのが当たり前と成っているオゼアンに取っては、コーネリウスの思いは理解は出来ても、未熟と断じる他無い。
何処か懐かしい、自分の過去にもそんな風な時期が合ったと去来する物が有る。
「さあ、行こう」
オゼアンは茫然とするエドウィンに背を向けて二人に告げる。
コーネリウスとハリスは黙ってその後に続き、去り際に、コーネリウスだけが背後を振り向いて、しかし、何も言う事が出来ずに最後に店を出た。
店を出るなり、オゼアンは弾むような足取りで進み出す。
場所は大通りから一本ズレた鉄を叩く音の響き渡る鍛冶屋の集まった通りで、その奥まった薄暗い路地にオゼアンは一軒の武具屋を見付けた。
「・・・」
大して大きくない武具屋は軒先に剣を並べ、ヤル気の無さそうな店主が欠伸をしてオゼアンを睨んだ。
「なんだ・・・坊主には早えぇぞ」
「・・・」
オゼアンは何も言い返さずに、並んでいる剣の刃を検分する。
鈍く輝く平たい諸刃は幾つかは刃毀れと微かな錆が見て取れて、拵えも使い古しの革帯が巻かれている。
御世辞にも良い店とは呼ぶ事の出来ない品揃えに、オゼアンは内心で溜息を吐いた。
他の店にするかと、思いかけた最中に、ふと一振りの剣に眼が止まる。
「・・・」
鈍く曇った刀身は磨きが足りず、古ぼけた傷だらけの鍔は取り替えられもしない。
柄の革帯は解れが目立ち薄らとカビてすらいる。
だが、オゼアンが注目したのはその刃である。
「・・・店主」
「・・・」
オゼアンが呼び掛けるが店主は反応しない。
「・・・」
無視されたオゼアンは、ならばと思ってその剣を手に取って持ち上げる。
ズシリとした確かな重みに、軽く振ってもガタつきが無ければ震えもしない確かな造り。
「・・・」
オゼアンはマジマジとその曇った刀身を見詰めて、一度コンと叩いてみると、見た目からは想像が出来ない程美しい音色が響いた。
「鋼鉄か」
「・・・ふん」
オゼアンが呟くと、店主が鼻を鳴らした。
「餓鬼の癖に・・・多少は見る目があるじゃねぇか」
「コレを貰いたい。幾らだ?」
オゼアンは手に取った剣を買い取ると店主に告げる。
そうすると店主は両手の指を開いて突きだした。
「5枚か?」
コーネリウスが口を出すと、店主はあからさまに眉を顰めて、強い口調で言い放つ。
「50枚だ」
「50枚!?」
コーネリウスは店主の言葉に驚愕を露わにし、店主と剣の間で視線を往復させた。
コーネリウスの眼には、どうにも店主の言う事が全く理解できず、エドウィンの時の様に暴利でもって欺こうとしているのでは無いかと考えた。
だが、オゼアンはハリスに向くと口を開いて言った。
「払ってくれ」
「宜しいので?」
オゼアンは手に持ったままの剣を何度か振って見せて、それから刃に視線を這わせる。
ハリスも釣られて同じように視線を這わせると、磨かれていない古ぼけた見てくれに反して、刃は真っ直ぐに鋭く、刃毀れは見受けられない。
歪みもズレも無い剣に、ハリスは思わずと言った風に息を漏らした。
「コレは・・・確かに」
ハリスは納得してオゼアンに従った。
毛皮を売った代金から銀貨を取り出すと、店主に差し出した。
「コレは一体何処で?」
「さてね・・・随分前に傭兵が置いてったのさ」
「・・・」
曰くは良くは分からなかった物の、それでもオゼアンは実に良い買い物だと感じて、一緒に買った鞘に収めて背中に背負った。
刃渡り90cm程の剣は、オゼアンが持つには些か大きく、腰に佩いては抜く事も運ぶ事も儘ならない。
だが、鍛えに鍛えたオゼアンの力ならば、充分に振るって戦いに耐える事が出来る。
「おい坊主」
満足げに背中の重みを確かめていると、店主が声を掛けた。
「何だ?」
「いい目してるじゃねぇか・・・餓鬼の癖によ」
「・・・ありがとよ。アンタも面白い事やってるな」
その言葉を最後にオゼアンは二人を連れて通りを後にする。
剣が一度ガシャリと音を鳴らした。
随分久し振りの剣の重みに、珍しく笑みを浮かべるオゼアンは、何となくこの二度目の人生に初めて楽しみを見出した様な気がした。
「良い買い物が出来た」
「良く分からないのですが・・・そうなのですか?」
コーネリウスには買い取った剣がただの古ぼけた鈍にしか思えなかった。
コーネリウス自身が身に帯びている剣は相当に良い物で、刃渡り110cm、細身薄刃の環状の鍔の拵えに柄頭にも彫刻が施されている。
材質は良質な鋼鉄で、騎乗戦闘に耐えられる頑強さと同時に、振って切り裂く繊細さも持つ、売れば金貨1枚は確実な名品である。
しかし、そんな名剣を持ちながら、コーネリウスは目利きの方は今一だった。
自分が持っている剣が基準と成ってしまっているが故に、細かい目利きが出来なく成ってしまっている。
「刃渡りと拵えからして、多分年代物だろうが・・・それにしては良質な鋼を使ってる」
些か流行遅れな感がある垢抜けない造りは、しかし、武骨で実用的な武器としての性能一遍で、オゼアンに取っては見慣れた物だ。
ハリスも古くささは認めながらも、懐かしさを感じて、何よりも刃の鋼の質に眼を見開く。
「恐らく北の方で作られたのだろう」
「ああ・・・あの辺りは武骨な物を作るのが上手いですからな」
「そう言うものですか」
それにしてもと、コーネリウスは出て来たばかりの通りを一瞥した。
「あの店は・・・」
「趣味が悪いのは確かだな」
ああやって、粗悪品ばかりを並べて、その中に良品を混ぜ込んで客の目利きを試しているのだろうとオゼアンは断じた。
「さて、道具を揃えよう」
銀貨の詰まった袋を開いて中身を確認したオゼアンは、買い揃える道具を頭に思い浮かべながら、市の方へと脚を向けた。
「・・・」
久し振りに剣を手にして気が抜けていたのか、オゼアンはその身に迫る人影には気付く事が出来なかった。
「うおっ!?」
コーネリウスもハリスも油断していた。
側の小さな路地から飛び出してきた人影に誰も反応できずに打つかって、オゼアンは地面に尻餅を着いてしまう。
「御免よ!」
打つかってきた人影は、振り向きもせずに言い捨てて走り去り、市の人混みに紛れていく。
その直後に、オゼアンは手に持っていた銀貨の袋が無くなっている事に気が付いて、打つかっていたのがスリだったのだと思い知らされる。
「あの野郎・・・!」
そして、オゼアンは走り出した。