プロローグ 泡沫の夢
「空が・・・暗いな・・・」
甲冑を身に纏った騎士が一人、石畳の上に身を横たえながら、そう呟いた。
飾りの無い武骨な板金の甲冑は、褪せた鉛色の地を晒し、今日までの闘争の日々を物語る様に大小の傷が無数に走っている。
「オゼアン!!」
甲冑の男に一人の若者が走り寄った。
オゼアンと呼ばれたこの男は、既に息も途切れ掛かった体で尚、溢れ出る武威を醸し出している。
「ああ・・・ユーマか・・・」
男が体を起こした。
剣を杖代わりに立ち上がり、側に寄ってきた青年を真っ直ぐに見据えて両手剣を構える。
「如何して・・・こんなっ!」
「仕方の無い事なのだユーマ」
シミジミと、哀しそうに言いながら、オゼアンの体は今にも倒れそうなほどに弱り切っている。
タダ一人、数え切れない程の困難に身を晒し続けた男のボロボロの体は、既に限界を迎えていて、対峙する青年は今にも泣き出してしまいそうな程に表情を歪めた。
「止めようオゼアン」
「何を?」
「こんな無駄な事は・・・もう戦いたくないんだ俺は・・・アンタと」
ユーマの言葉が確りと響いてオゼアンの鼓膜を揺らす。
オゼアンは一度口許を歪め、しかし、直ぐに引き締めて険のある厳めしい表情をして青年を睨み付ける。
「構えろユーマ」
「けど・・・っ!!」
ユーマが顔を上げた瞬間、オゼアンは鋭い踏み込みと共に両手剣を振り下ろした。
寸での所で身を躱したユーマの前髪の先が切り落とされてハラリと散ると、オゼアンは更に続けて横薙ぎに剣を振るう。
「っ!!オゼアンっ!!」
ユーマはオゼアンに呼び掛けながらも、巧みな体捌きで剣撃を躱す。
まるで暴風の様なオゼアンの剣は、一撃一撃が必殺の意思の権化の如き様で、ユーマの額に冷たい汗の雫が流れた。
「っ!!」
ユーマが剣を抜いた。
刃渡り100cm程の片手半剣を両手で確りと握り、正眼に構えてオゼアンを睨み付ける。
「・・・ふっ」
オゼアンが笑った。
柔らかで安らかなその微笑みは、恰も戯れ付く我が子に対する父の様で、ユーマはその笑みを目にすると言い様の無い悲しさと虚しさを感じて目を逸らす。
「敵から目を背けるな!!」
オゼアンが吼えた。
ユーマが叱咤されて視線を戻せば、既に視界一杯に広がる程にオゼアンが肉迫していた。
「っ!!」
大上段から振り下ろされるオゼアンの剣をユーマは渾身の力で受け止める。
「っ!!・・・ぐっ!!!」
まるで倒れてくる巨木を受け止めたかの様な信じがたい衝撃に、ユーマの膝が折れて地に着いた。
そのまま押しつぶさんとするオゼアンの圧力に、ユーマは屈してしまいそうになると、オゼアンが微かに力を弱めて呟く。
「そうじゃ無い・・・」
「っ!!」
瞬間、ユーマは支えていた両手の力を弛めてオゼアンの剣を滑らせる様に流した。
「チャアッ!!!」
勢いに任せてオゼアンの剣が石畳を叩くと同時、ユーマは身を翻しながら剣を振るう。
横薙ぎに、振り抜かれた鋼の刃がオゼアンの甲冑の胴の、大きく走る亀裂に滑り込み、鍛え上げられた腹筋を切り裂いてその奥まで滑り込む。
「っ!!」
手に馴染む事の無い肉と骨を切り裂く感触にユーマは嗚咽を堪えて目尻に涙を浮かべる。
それと同時に、オゼアンの大きな体から力が抜けてそのままユーマに体重を預けて耳音で囁いた。
「・・・お前の勝ちだな」
言ってから、オゼアンは体を離してそのまま地面に身を横たえた。
黒髪の、あどけなさの脱けきらない整った顔立ちの若者は、手にしていた剣を放る様に横に置いて、膝を着いて男を抱き起こす。
オゼアンは遂今し方まで剣戟を競い合っていた男に向けて笑いかけ、笑顔を向けられた若者は涙を浮かべて端正な顔を歪めた。
「馬鹿が・・・勝ったのはお前なんだぞ?泣くんじゃ無い」
優しく諭すようなオゼアンの言葉に、若者は尚も悲痛に言葉を詰まらせながら、腕の中の男を見詰める。
「けど・・・俺は・・・!」
男が嗚咽を堪えて顔を俯かせる若者に手を伸ばした。
まるで幼子をあやす様に黒髪を撫で付けて、そっと口を開く。
「正しい事をしたんだ・・・国に従い、反逆者を粛清した・・・誇れ」
「・・・っ!」
若者が顔を上げた。
涙を溜めた眼を見開き、血に染まる騎士を凝視する
そんな若者を励ます様に、オゼアンは空を見上げて言葉を続けた。
「俺は・・・及ばなかった。だが、お前は違う。お前には未来がある。希望がある。助けてくれる仲間がいる。お前は真の勇者だ・・・」
若者が泣き出した。
熱い涙の粒を零して頬を濡らし咽びながらオゼアンを抱き締める。
「・・・さあ、行け・・・残すは、殿下ただ一人。お前は、お前の役目を果たせ」
力無く若者の体を抱き返して、オゼアンが言葉を紡ぐ。
「ああ・・・行くよ・・・」
若者は複雑な心情を隠さない表情で手を放して、震える声で返す。
「良い騎士になれ・・・」
「っ!」
「俺は・・・独り、逝く・・・お前は、ゆっくりと・・・」
オゼアンの瞼がゆっくりと閉じられて行く。
強靱な肉体と精神で繋ぎ止めていた意識が限界を迎え、深く暗い冥府の底へと旅立ちだしている。
貴族に生まれ、親に見棄てられ、何者からも顧みられず、多くから疎まれ、遂には下らない事の為に国を裏切って死んでいく。
他者から見ればこれ以上無いほど愉快な喜劇だっただろう自分の一生を振り返りながら自嘲して、オゼアンは口角を上げた。
「悪くない・・・こうして・・・俺のために・・・お前が、泣い・・・」
もう、それ以上は口にする力も残されていなかった。
自身が生まれた日、生を受けた瞬間、笑って祝福してくれた者は誰も居らず、誰かに愛されると言う事を知らぬまま死のうとしているオゼアンは、しかし、不幸だとは感じなかった。
何故ならば、今この瞬間に死を悲しみ涙を流す男が一人、己の側に佇んでいる。
それだけで、自分の人生に意味が有ったのだと確信して、オゼアンは最期の瞬間、一瞬だけ力を振り絞って、僅かに瞼を開いて自分のために涙を流す男の顔を見上げた。
「オゼアン!!」
騎士の微かに開けられた瞼の奥の瞳が光を失った。
若者ユーマは声を上げて身体を揺すり、暗く澱んだ空の下で慟哭を上げた。