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空戦  作者: 前河涼介
3/7

ACT.3 空の声を聞け(九六艦戦とP-40E)

                注   意

 本節ではAL作戦時の龍驤があたかも九六艦戦を搭載していたような記述を行っていますが、龍驤は1942年4月に艦戦を零戦に更新しており、筆者が調べた限り以降も九六艦戦の装備を続けていた事実は認められませんでした。


○このお話に登場する飛行機(運用者・開発者)


 ・九六式四号艦上戦闘機(日本海軍・三菱)

 エンジンを寿四一型に換装した九六艦戦の最終形態。三号ではモーターカノンで火力アップを図るために液冷エンジンを搭載してみたものの、恒速プロペラで中空シャフトは無理という結論に至って空冷に戻った。日本的ヘタレ根性を遺憾なく発揮した一件である。


 ・零式艦上戦闘機二一型(日本海軍・三菱)

 艦上運用装備を整えた大戦前半の生産型。AL作戦に関しては戦績そのものよりアクタン・ゼロが(悪)名高い。後の各型より速度耐性は低いが、それでも降下加速からの縦旋回の速さでこの機体に勝るものはない。


 ・P‐40E「ウォーホーク」(アメリカ陸軍・カーチス)

 いわゆるキティホークとなって機首形状を一新、サツマイモのようなフォルムから脱したひとつの到達点。44年まで改良を続けて一線を支え続けた立役者。P-51さえいなければもっと栄光に浴していたかもしれない継母的戦闘機。


 ・PBY「カタリナ」(アメリカ海軍・コンソリデーテッド)

 フライングボートの名に恥じない見かけ、凌波性、堅牢性、そして鈍足さを兼ね備えた万能飛行艇。雷撃から救難まで幅広い任務をこなす。大戦中期には後継のPBMに主力を譲ったものの、PBYの扱いやすさは戦後の需要にも十分応えるものだった。


(以下本文14000字程度・今回試験的に数値を半角数字で表記しています)


 1942年6月。

 艦攻7、艦爆8に零戦18機のエスコートをつけてコールドベイの飛行場を叩く。しかし敵が発艦を察知すればダッチハーバーを狙うものと思ってそちらに戦闘機隊を差し向けるかもしれない。従ってダッチハーバーにも哨戒の戦闘機を出したいのだが、龍驤に残る零戦7機のうち6機が応急修理あるいは整備のために可動から外れている。そこで唯一出せる零戦1機に補用の九六艦戦2機をつけて出す。

 龍驤はこの4月に零戦二一型に装備替えしているが、さすがに補用分までは揃えられないという話になって九六戦も何機か残してあった。機齢の若さと稼働実績で選んだのだが、要は若くて元気なやつらを選り抜いた、ということだ。もちろんどの機体も零戦よりは年寄りだし、性能でもかなわない。

 コールド・ベイはアラスカ半島のほぼ先端にあり、ダッチハーバーはそこから南西に300キロ、日本の艦隊はダッチハーバーの南約200キロに位置している。艦隊からコールドベイまでは400キロの飛行になる。攻撃隊を先行させてから哨戒の3機を発艦させる。

 私はしばらくトイレに籠ってから、格納甲板の下層で九六艦戦の点検を進めながら攻撃隊の発進を待った。飛行甲板を滑走していく飛行機の唸りや震動がほぼ等間隔に聞こえた。

 整備員たちは着々と作業を進めながら時々私の顔を窺った。私が前の出撃で零戦を1機だめにしているので心配しているのかもしれない。それか、不時着から2,3日で出撃なんてしぶといやつだと呆れられているのかもしれない。

 まあいい、しばらくの我慢だ。今度きちんと戻ってくれば文句もないだろう。

 頭上が静かになった。

 飛行甲板が空いたようだ

 機体をエレベーターで持ち上げ、長機から順にエンジンを回す。計器点検、AC(混合比調節)レバーを最大濃度に合わせる。

 機付長に合図してチョーク(車輪止め)を外してもらう。

 ブレーキを踏ん張ってスロットルをMAXに。

 甲板指揮官が白旗を掲げて合図。

 長機、2番機ときて、3回目の合図で足を離す。

 機体はすぐに浮き上がった。後部エレベータから機体を後ろに出して甲板をいっぱいに使ったが、ブーストレバーを引かなくても半分の長さで十分だった。

 テスト飛行の代わりに母艦・龍驤の上空を一周する。

 いつ見てもカステラの箱に思える。きっと神話に出てくるノアの箱舟もこんな形をしていただろう。

 その箱の下敷きになった船体から細い舳先がわずかにはみ出している。それも船首波のせいで余計に細く薄く見えた。まったくアンバランスな船だ。

 1500メートルまで高度を上げる。

 スロットルを引いてACもやや薄く。筒温が下がるのを待ってカウルフラップを半開まで閉じる。エレベーターのタブを調節して機体をまっすぐ飛ばす。

 巡航。

 3機の密集編隊。長機の零戦を先頭に九六戦2機が脇を固める。

 零戦も九六戦も同様の塗装で、カウリングの黒以外は全身ライトグレイ。胴体後部に黄色い帯が1本あり、垂直尾翼には四航戦の旗艦龍驤を示す"DⅠ"に続く3桁の機番が書き込んである。

 私はもともとこの小隊のメンバーではないのだが、互いに欠員が出たので3番機としてついている。同じ航空隊の一員だからもちろん面識はあるけれども、この小隊の流儀、戦法の十八番などはわからない。お互いにやりづらさはあるだろう。

 しかし、寒い。

 左から風が吹きつけている。

 内地ではもう初夏を過ぎた頃だが、ここは北緯50度を超える氷の世界だ。

 地表はドライアイスのような濃い霧に覆われている。私たちの高度までガスが上っていた。視界は悪い。

 長機が前方と左右を見渡しているので私は後方と下方を主に警戒した。


 発艦から40分ほど経っていた。

 霧の切れ間に黒い影が走る。

 飛行機だ。

 すぐに霧の向こうに隠れたが、少ししてまた姿を現した。白い霧の上に黒い影を落としている。

 機体色は灰色か。やや青っぽく見える。

 双発、パラソル翼、やや反った胴体。PBYだ。

 2時方向、距離2000、高度差は700程度か。

 針路はこちらとほぼ同じ。哨戒から戻るところだろう。

 こちらには気づいていないようだ。 

 スロットルを押して長機に並び、見つけた方角を指で示す。

 小隊長はしばらくその方向をじっと見つめてから、手振りで指示を出した。2番機、それから私。

 自分と敵機を交互に差す。それから私の方に手を向けたあと、掌を上にして横に振る。自分一人でやってくるから私たちはここで待機していろ、という意味らしい。

 これだけ霧が濃いので警戒のために1機でも上空に残しておきたいが、大型機の相手なら20ミリ機銃を持っている零戦の方が圧倒的に向いている。それなら自分だけで行けばいい。そういう判断をしたのだろう。

 私は頷いて左手で敬礼、減速して元の位置に戻る。

 長機はくるりと翼を立てて降下していく。

 私は2番機の方を注意していたが、直線飛行を続けている。やはりさっきの解釈で合っていたようだ。

 私はやや右に翼を傾けてゆっくり旋回する。

 長機は渦を描くように敵機の背後に回り込み、ほぼ真上から逆落としになって射撃した。

 PBYのコクピットのガラスが砕けて光った。

 防御機銃が反応したのはほとんどその直前になってからだった。当たらない。

 長機は火線を避けながら鋭く上昇する。

 PBYは被弾の衝撃でがくんと機首を下げ海面に向かっていく。

 パイロットをやられたのだろう。他の乗員が駆けつけてやっと舵を引いたようだが、速度が出すぎていてなかなか上がらない。機体は水平になったが降下の勢いがついている。最後は腹を打ちつけるようにして海面に落ちた。王冠のような飛沫が上がった。

 幸いその周りが霧の切れ目になっていたので様子が窺えた。

 霧を突き抜けて上昇してきた長機が翼を振る。私たちは少し高度を下げて編隊を組み直す。

 長機はまだカウルフラップをいっぱいに開いていた。機体が一息ついている。そんな恰好だった。


 霧の上にウナラスカ島南部の山々が見えてくる。どのピークもしっかりと雪をかぶって真っ白に輝いている。仙境を思わせる景色だった。

 ダッチハーバーの湾内、島の北東側にはほとんど霧が出ていないようで、山の向こうの海面は黒く見えた。湾の背後にある山が風を遮っているのだろう。湾内にはまだ爆撃の痕跡があちこちに黒い斑点となって残っていた。

 長機が翼を振った。小隊長は10時方向やや上方を指していた。私からはちょうど長機の陰に入って見えない位置だった。

 小隊長は指を回してスロットルを上げろと指示している。

 スロットルを押し切ってカウルフラップを開く。ACを濃く。

 高度を取る。

 もしPBYを狙っていなければこちらの優位で交戦に入れたのかもしれない。

 黒い点が見えた。

 まっすぐ突っ込んでくる。

 長機は機首を押して敵の下に潜る。

 私もそれに続く。

 交差直前からピッチアップ。

 頭上を低いエンジン音の重奏が駆け抜ける。

 敵機の後方でループ。

 背面で止めて正立に戻す。インメルマン・ターン。

 長機が速い。機体2つ分前に出た。

 敵も編隊を崩して扇形に広がりながら機首をこちらへ返そうとしている。

 長機が真ん中を狙うなら私は左だ。

 左の敵機はスピードに乗ったまま旋回を終えて機首をまっすぐこちらに向ける。

 私はヘッドオンを避けるように右にロール。

 だがまともに避けるわけじゃない。

 すぐに切り返して小さく左旋回。

 私を追うつもりで同じく左旋回に入っていた敵の背中を取った。

 右目でちょっと覗いた照準器に相手の機首が拡大されていた。

 トリガーを引く。

 計器板の両肩から突き出した銃床がドドドっと震える。

 機首の銃口が光る。

 火線を見る間もない。

 敵機のキャノピーが割れ、パイロットの血液がインクのように飛び散る。

 胴体から尾翼にかけて縫い目を打つように外板が穿った。

 離脱。

 警戒。

 まず後方、機影なし。

 ロールして下を見る。

 機影なし。

 正立に戻す。

 見渡すと右手に黒煙が一筋見えた。

 放物線のように次第に角度を深めながら霧の海に突き刺さっている。

 私が墜とした敵のものではない。他の誰かだ。敵か味方なんてわからない。

 そこで初めてさっき仕留めた敵を振り返った。

 パイロットはすでに死んでいるが、彼の機はひとりでに飛んでいた。左翼を下にした状態からさらに左にくるりとロールして正立に戻った。そのまま緩降下して増速し、霧海に着水するような格好でフレア、上昇に移った。そのまま機首を上げ減速、空中に静止する。

 トルクで左に機体を捻る。フラットスピンに入った。

 そのまま竹トンボのように回転と落下速度を増しながら霧の下へ消えていく。

 綺麗な飛行だった。黒煙や炎を吐いていないせいかもしれないが、本当に曲芸のような飛行だった。

 射撃の時に見た敵機の平面形を思い出す。細い機首に左右一直線の主翼前縁、P-40だった。P-36の液冷型だという話を聞いたことがある。機体そのままにエンジンだけ換えて延命を図ったということはよほど空力設計がよかったのだろう。設計のいい飛行機はパイロットが余計なことをしなくても綺麗に飛ぶのだ。

 私は高度と速度を保って右にきっちり30度のバンクを取って大きく旋回した。

 まだ他の機影が見えない。

 アイスキャンディーのような色の空が広がっているだけだった。


 ふと先程の黒煙の柱の手前に新しい煙が生まれる。

 その煙は炎を伴っていた。煙の尾の下で飛行機の翼がきらめいた。その機が煙の先端にいるもう1機を仕留めたようだった。

 距離は3キロほどある。こちらの方が1000メートルほど高い。

 相手は高度を上げずに方角だけこちらに合わせている。

 私も上を押さえたまま接近する。

 背面。

 暗い色の塗装、片翼に白い星。

 敵だ。

 相手もこちらを識別しただろう。

 溜めていた速度を使って急上昇してくる。

 私は機首を向けずに相手の背中へ回り込むように動く。

 敵は早々に諦めて左に翼を立てた。

 上向いていたその機首がくるりと下を向いた。一種の失速機動、ハンマーヘッド。

 敵機はそのまま霧の中に潜った。

 私は追わずに旋回する。

 霧がなければ私も突っ込んでいただろう。

 だがもうウナラスカ島の上空に入っている。

 地面がどこにあるかわからない。高度計は頼れない。

 敵は地形を知っている。だから潜れる。

 逃げられたか。

 ――いや、視界だけがパイロットのセンサーではない。

 私は霧の真上まで降下、スロットルを絞った。

 エンジン・スロー。

 静かになる。

 降下の惰性を使って水平面で大きく左旋回。

 左翼の向こうに濃密な霧が迫っている。

 その中から低いエンジン音が聞こえた。

 敵はブースト一杯で上昇、あるいは加速に移っているようだ。

 どこにいる?

 耳を出したほうがよく聞こえるんじゃないだろうか。

 そう思って航空帽の左の耳当てを開いてみたけど、耳に凄まじい風が吹き込んでくるので、ぼふぼふした雑音しか捉えられなかった。

 耳当てをもどす。

 音が離れていく。

 湾の方へ向かっているのか。

 逃がすものか。

 スロットルを押し込む。

 こちらが吹かしても敵には自分のエンジン音しか聞こえないだろう。

 霧海を這う。

 湾に入る。

 一気に霧の高度が下がった。

 しかし敵の姿が見えない。

 ハーフロール。

 機首を押さえて高度を維持する。

 背面。

 後方を見る。

 霧から飛び出してくる敵が見えた。

 こちらが追い越すのを待っていたみたいだ。

 咄嗟にスティックを引く。

 背後に火線の雨が見えた。

 敵機と上下に浅く交差。

 間近に相手の飛行機を見た。

 そのエンジン音でこちらの座席まで震えた。

 一瞬排ガスの匂い。

 練り羊羹のような色をした機体が逆さになって下へ抜けていく。

 いや、背面なのはこっちだ。

 やはり敵はP-40。マサカリのように膨らんだ機首から細い胴体が伸びている。

 機首を黄色く塗っていた。

 スティックをやや左へ押し込んで霧に飛び込む。

 顔面に雲の壁がぶつかるような感覚。足が竦んだ。

 相手の曳光弾が頭上で光る。

 まるで溶鉱炉から流れ出る鉄の筋のようだった。

 弾数が多いせいで光が連なって見えるのだ。

 いったい何挺を持ってるんだ?

 水平儀と前方を交互に見ながら水平面で180度旋回、正立に戻してスティックを引く。

 ロールして敵を探す。

 いた。港の上空だ。遠ざかっている。

 湾の真ん中にはアマクナックという小島があって、そこから本島に伸びた平地部が港になっている。

 相手にしてみればこっちは固定脚のいかにも軽戦だ。あえて旋回戦を挑むことはない。

 高度を取りながら敵を追う。

 後方、下方、太陽の中、と機体を振って警戒。

 こちらを狙う他の敵機の姿はない。

 相手の方が遥かに足が速い。

 遠くで悠々と旋回して同高度真正面から飛んでくる。

 反航戦。相手は交差のあとも旋回しないでまた距離を取るだろう。

 こちらだけ反転しても追いつけない。

 そうすればあとは繰り返しになる。

 交差の前に反転するのはどうか。いや、的になるだけだ。

 なんとかこちらの土俵に上げられないだろうか。

 スピードを上げられない状況に追い込めないだろうか。

 距離が詰まる。

 私は撃ち合いを嫌って右下に逸れた。

 そのまま港に向かって降下する。

 スロットルは絞らない。

 相手に食いつかせるには速度が必要だ。

 湾内の海面は霧が薄い。山の斜面が見えていた。

 ハーフロール。 

 山の傾斜に沿って機首を上げる。

 積雪の高度を切った。翼の下に草原が流れる。

 相手は大きく反転、追ってくる。

 降下加速が速い。

 こちらは300ノット、相手はそれ以上。

 海面を見て引き上げまでの秒数を計る。

 後ろを向いて敵の機首がまっすぐこちらに向かないようにペダルを蹴って相手の腹の方へ潜り込む。

 ……3,2,1

 スティックを引く。

 舵が重い。

 翼が細い雲を引いた。

 霧の上を滑る。

 やや右に傾けて山脈に沿って飛ぶ。

 振り返る。

 敵は?

 よし、ついてきている。やや上方だ。

 山に沿って飛び、稜線を越える。そちらは霧が厚い。

 左に切り返して山のピークをぐるりと回る。

 スラロームのように切り返し、次の斜面をすれすれで下る

 九六戦の小回りあっての飛行だ。P-40では付き合っていられない。敵は湾の方へ逃げた。

 私はすかさずスティックを切って追撃に入った。

 敵は霧の切れ間を港湾へ逃げる。

 だが加速が鈍い。すぐに上をとることができた。少しずつ降下して相手のスピードについていく。

 低空で港を飛ぶ。250ノットで建物の屋根を掠める。

 地上のサイレンが聞こえた。

 対空砲火が恐い。

 一息に高度を下げて敵の真後ろに食いつく。

 くっついていれば対空機銃は狙えない。

 敵は左右に激しくバンクしてフェイントをかける。

 私は何度か小刻みに撃つ。

 当たっているが効いていない。

 相手の方がロールが速い。

 切り返しが遅れる。

 その隙を突いて敵は右に旋回した。

 こちらは外側を回ることになる。

 機首はすぐに合わせられる。だが距離が離れた。加速はこちらの方が速いが、すぐには追いつけない。

 すぐさま地上砲火が私を狙ってきた。

 敵は左手の山陰に逃げ込む。

 追っていったが、見失った。

 ピークを一周。

 後ろに回ってくるだろうか。

 ゆるく旋回して後ろに注意する。

 来ない。

 逃げたのか?

 いや、そのつもりならとっくに退いている。そういう動きではなかった。

 また霧に潜って距離を取っているのだ。

 上昇する。

 下手に敵の頭を押さえようと動くより、霧の薄い湾内に留まった方が安全だ。

 角度を取って速度を高度に変える。

 その時右後方の雲を割って敵機が現れた。

 最悪のタイミングと方角だった。

 きっと敵も音を聞いていたのだ。

 私が上昇にかかるのを待っていた。

 方角の方は偶然だろうが、狙ったタイミングだ。

 私はスティックを右手前に目一杯引く。

 そしてオーバーブースト用の赤レバーを手探りに引き切る。

 ここでスピンに入ったら確実に仕留められる。

 いや、敵がミスしたとしてもこの高度、九六戦でスピンから回復するのは無理だ。

 エンジンが吹き上がり痺れるような震動が機体を走る。わずかにデトネーションの破裂音が混じる。

 九六戦のエンジン、寿四一型はスロットルレバー一杯で610馬力、赤ブーストで710馬力を発揮する。むろんそんな数値は完調かつ海面高度のスペックに過ぎないが、ともかく100馬力上乗せできるのは大きい。

 機体はほんの小さな空間で斜めに宙返りを打って機首を敵の下に向けた。

 風防の脇から風が吹き込む。その風向きが立て続けに変わった。

 左ペダルを踏ん張ってスピンを押さえる。

 主脚がいいスタビライザーになるから降下による姿勢回復は零戦より早い。

 敵は撃ってきたがまだ距離があった。

 外板の上で弾が跳ねる。

 致命傷はない。

 降下で機速を稼ぎながらロール。

 敵が直上をパス。

 全開のラジエータフラップが見えた。

 行き過ぎてから急旋回。

 高速域のターンは思ったより速い

 Gに押さえつけられたエンジンが苦しげに呻くのが聞こえる。

 私は急降下を続ける。

 敵も追ってきた。

 ゆっくりと引き上げて旋回に誘う。

 しかし敵は乗ってこない。

 そのままこちらの腹の下を通過してハーフロール。

 私も反転して追いかける。

 さっき敵が急旋回したせいか、さほどの速度差はない。

 敵は左右にロールを打ってこちらの射線を避ける。

 私はロールしない。

 じっと我慢してヨーとピッチで合わせる。

 敵は海面上で引き上げ。

 私は一拍遅らせて外側を回る。

 さざなみが真下を走った。

 敵は左右に蛇行して後方にいるはずの私を探していた。

 距離500メートル。

 私のチャンスだがまだ撃つには遠い。

 追いつくより先に敵が気づいた。

 敵はバレルロールで海面すれすれまで降下。

 いい判断だ。

 上か横に旋回していたら私は内側に距離を詰めて撃っていただろう。

 敵機の跳ね上げる水しぶきが風防を洗った。

 照準眼鏡の中で水滴が踊っていた。

 敵は依然左右にフェイントを続ける。

 ただバンクの角度はさっきより浅い。

 敵も全力で飛んでいるはずだが、それにしては距離が詰まってくる。200ノットも出ていない。

 私はブーストレバーを戻す。

 蛇行だけのせいではないだろう。

 エンジンパワーが出ないのか。

 霧に混じって気づかなかったが、よく見ると敵は薄く白煙を引いていた。

 さっき後ろから撃っているうちにラジエータに当たったのかもしれない。

 冷却液を失った液冷エンジンの加熱は速い。

 距離80メートル。

 十分な射程距離だが相手の後流で機体が揺れる。

 私は少し上に出て敵の垂直尾翼の高さを横薙ぎに撃った。

 敵はさらに機首を押さえて左に滑る。

 私はトリガー引いたまま機首を下げる。

 敵は左に旋回を始めていたが、火線を見たせいかラダーで高度を支えるのが一瞬遅れた。

 左の翼端が海面を叩いた。

 切られた水がV字の波になって立ち上がる。

 敵の機体は水面で跳ねて左にスピン。

 立て直そうと右に舵を切るが、すでに機首が下を向いている。

 そのまま回って尾翼が前になる。

 敵の主翼が光った。

 火線が下に流れる。

 あの体勢から撃ってきたのだ。

 だが機首が合っていない。ただのヤケだ。

 私はその上を通り過ぎた。

 左の胴体下を覗き込む。

 敵機は着水。

 弓なりの波が広がっている。

 他に敵機がいないか確認してから着水した敵機の上を旋回する。

 敵の飛行機は胴体や主翼の根本に背後から撃たれた傷を無数に負って、海面を叩いたプロペラの先端はスプーンのように曲がっていた。

 機体は早くも沈没を始めていた。パイロットはキャノピーを開けて水浸しの翼の上に立った。何をするのかと思ったら手に拳銃を握っている。

 そいつを両手で構えてこちらに向ける。

 銃声は聞こえないが、確かに撃った。

 まるで射程外だが、きちんと偏差を取っている。

 あまり高を括っていると危ない。

 さっきのスピン中の射撃といい、なかなかしぶといパイロットだ。

 私は礼儀と思って少し距離を取り、降下しながら銃撃を加えた。

 主翼と機首に着弾の火花が弾けた。

 パイロットは危うく海に飛び込む。

 私は反復して海面下に銃撃を加えた。

 いいパイロットだが、それだけに生かしておけばいずれ味方が食われることになる。

 2回だけ仕掛けて切り上げる。

 機体はすでに8割ほどが水面の下にあった。

 私は最後に海面を切るように旋回。

 背後に白いウェーキが伸びて弧を描く。

 上昇。

 霧海の上に出る。

 やはり私以外に飛んでいるものの姿はなかった。

 もう黒煙も見えない。

 港のサイレンも届かない高度になっていた。

 上には空があり、下には霧海があった。それがほぼ世界の全てだった。あとはわずかに霧から頭を出した雪山のピークがあるだけだった。

 島南部の山地上空が小隊の集合ポイントだった。

 味方の姿はない。

 ポケットの時計を見る。

 哨戒の終了時刻までまだ30分ある。

 もう1時間くらいは戦っていた気がしたが、実際の戦闘時間は10分程度だったようだ。

 10分。その数字には現実味がなかった。

 このまま1機で待っても敵の増援に対処できない。

 被弾しているから燃料計の通り飛んでいられる確証もなかった。

 燃料?

 私は自機の主翼を確認した。燃料タンクの位置に弾痕があった。

 胴体タンクの方は無事のようだ。

 燃料コックを切り替えて翼内タンクの経路を遮断する。これをやらないと胴体タンクに残っている燃料まで翼内タンクに流れて破孔から流出してしまう。

 胴体タンク燃料計を確かめる。翼内タンクにもまだ残っているが当てにならない。残量からしてせいぜい巡航であと1時間飛ぶのが限度だろう。

 僚機を待っている時間はなかった。

 他の2機は無事なのだろうか。

 いや、私が仕留めた2機目は私とドッグファイトに入る前に1機墜としていた。あの炎と黒煙は味方のものだったのだ。従って消息の分からない味方は1機だ。

 P-40の残りの1機がまだ飛んでいるのかどうかも確認したいところだったが、このさい諦める。確認したところで私が帰還できなければ報告のしようがないからだ。

 南南東に機首を向ける。

 帰投座標は発艦座標から東に40キロのところだった。艦隊の足と海流を考慮した距離だ。しかし予定より早く戻ることになるので針路をやや右に傾ける。

 高度を3000メートルまで上げる。高空の方が空気密度が減って抵抗も小さくなるが、エンジンもパワーが出なくなっていく。たしか4000程度でがくんと出力が落ちるから3000くらいがいいはずだ。

 タブを調節して額の汗を拭う。

 緊張と集中が解けて次第に自分の肉体に意識が向いていく。

 風防の脇から吹き込む風が私を冷やしていた。

 寒い。

 その寒さは往路よりも酷かった。

 空戦の間に流した汗が皮膚と被服の間で凍っているみたいに思えた。

 しかし寒さは汗だけのせいではなかった。

 時折吹く横風に対してペダルを踏んで針路を合わせていたのだが、左のヨーが妙に重かった。左だけだからペダル周りのワイヤーをやられたのかと思って計器盤の下を覗き込んだのだが、左足が濡れていることに気づいた。

 オイル漏れか。

 膝を上げて日差しに当てる。

 黒ではない。かなり赤みがあった。

 血だ。私自身の体から血が出ていた。

 確かに痛みはあった。ただ爪先も足首もきちんと動く。

 手でブーツや裾を探ってみると、弾が入ったような穴はなくて、脹脛の外側で布がざっくりと切れていた。弾か外板の破片で皮膚が切れたらしい。

 膝で手を拭ってマフラーを解く。傷口の上できつく結んで止血する。機上ではそれが精一杯の処置だった。

 私は首を縮めて溜息をついた。

 血液を失うのと、首からマフラーを外すのと、どちらが寒いだろう。

 

 D1-133

 私が前に乗っていた零戦の機番だ。

 その日の目標もダッチハーバーだった。

 戦闘そのものは今日よりずっと大規模なもので、艦攻・艦爆護衛の片手間に港湾施設を地上掃射していた。

 とても狙いのいい高射砲がひとつあって、せいぜい300メートルの低空にいる私の目の前で砲弾を炸裂させた。

 まともに破片を浴びたエンジンはすぐに煙を吐き始める。漏れ出したオイルが風防全体に黒くべっとり張り付いて前方視界を奪った。その黒の上にOPL照準器の光像が妙にくっきりと映っていた。

 かろうじて残った左右の視界を頼りに南へ離脱。

 海上に出たところで「ターン」という音とともにエンジンが停止した。どこかのピストンが吹っ飛んでクランクシャフトをへし折ったのかもしれない。

 浮泛装置のバルブを閉める。

 着水直前に機首を引いて失速までスピードを落とす。

 ちょうど上がってきた波に乗るように着水した。

 衝撃という衝撃もなかった。

 銃床に手を突っ張って計器板に足を乗せているのが馬鹿みたいだった。

 私はすぐにコクピットを飛び出した。

 ベルトも外していた。キャノピーも開けておいた。脱出の準備は万全だった。

 胴体を蹴って機体の脇の下に飛び込む。

 額に冷たい海水がぶつかった。

 後ろを見ずに泳いだ。

 機体が沈む時の渦に飲み込まれるのはまずい。

 浮泛装置は数時間の浮力を担保しているけれど、それはあくまで不調による不時着時の話であって、被弾状態で長く持つとは限らない。

 そろそろ安全圏か。

 私は振り返る。

 翼の先端でも見えれば御の字だと思っていたのに、案外しっかり浮かんだままだった。

 波に持ち上げられて主翼の裏が見えた。

 浮泛装置というのは、零戦の場合、後部胴体に浮袋があり、主翼も緩い水密構造になっていて燃料タンクが浮き代わりになる。

 被弾が全く正面だけだったので主翼も胴体も無事だったのだろう。

 九七艦攻が1機、細長い主翼を傾けて上空を旋回していた。

 私は右手を突き上げて大きく振った。

 艦攻はそれに応えて翼を振ると、旋回をやめて飛び去った。

 私と機体は波によって自然に引き離され始めていた。

 私は機体の方へ泳いでしばらくつかず離れずを保った。

 体の浮力は救命具が支えていたが、疲労は一方的に蓄積していく。

 機体は浮いている。

 まだ時折主翼が海面を離れる。

 まるで自分はまだ飛べると訴えているようだった。

 私は思い切って渾身の力で機体に近づいた。

 フィレットにしがみつく。

 体を引っ張り上げる。

 たかが人間1人の重さでも機体は左に傾いた。

 氷のような水が全身から滴る。

 十分水を切ってからコクピットに戻る。

 ペダルの高さに水が溜まっていたがそれ以上水位が上がってくる気配はない。

 再び座席に座り、浮泛装置のハンドルをもう一度固く締め直す。この弁が主翼の浮力を支えている。

 潮の匂いが鼻の奥を詰まらせていた。水筒の水を口に含んでうがいをしてから飲み込む。それでも少し薄くなっただけで消えることはない。粘膜に染みついてしまったようだった。我慢するしかない。これだけしっかり浮いているなら最初から海に飛び込む必要もなかったのだが、それは結果論に過ぎない。

 私は首を振った。

 機体は波に揺られている。

 そういえば外洋にしては不思議なほど波が穏やかだった。

 操縦席に水が入るくらい荒れていたっておかしくないだろうに。

 風を防ぐためにキャノピーを閉めてそんなことを考えているうちに私は眠ってしまっていた。早朝の出撃だったし、戦闘の疲れもあった。

 目が覚めると3時間ほど経っていた。

 いやに流れの速い雲の上に昼の月が浮かんでいた。

 一度ずぶ濡れになったせいで体が死んだように冷えていた。エンジンが死んでいる以上、温めるものは何もない。

 口の中にはまだ海水の味が消えずに残っていた。

 単なる塩っぱさではない。

 血のような鉄のような生臭さがあった。

 私は高射砲を食らった時のことを何度も思い出した。あの弾を避けることはできなかったのだろうか。何かを見落としていたのではないのだろうか。それを見ることができるパイロットならこんな無様な漂流なんかしていなかっただろう。

 私は自分のミスについて考える必要があったし、考える以外に時間を消費する方法を知らなかった。

 それは煉獄の業に似ているのかもしれない。だとしたらきっと煉獄は寒いのだろう。きっと煉獄には白い月が浮かんでいるのだろう。

 私はスティックとスロットルレバーに手を置いて目を瞑った。そうすると波の揺れをいっそう強く感じた。その揺れは気流による機体の揺れよりも大きく、強引で、抗うことを許さなかった。

 暫定的な死の中で、私は足元に広がる海の深淵をイメージしながらどこまでも深く思考を続けていた。

 さらに4時間が経った

 エンジン音が私のまどろみを破った。

 水上機が飛んでいた。後退角のついた複葉の主翼に日の丸、単フロート。九五水偵だった。

 高度200メートルほどを飛んでいる。緑色の胴体側面が見えた。

 降りてくる気配はない。収容は駆逐艦に任せるつもりだろう。

 まだ待たなければならない。

 終わりが見えただけにそこからの20分が長かった。

 機内の水位はまだ膝下だった。私は時折キャノピーを開いて立ち上がって周囲を眺めた。その合間に計器や操作盤を撫でながらグローブ越しに感触を確かめた。

 そしてとうとう細い艦影が見えてきた。駆逐艦だ。

 私は無線機から水晶を抜き取って飛行服のポケットに収め、最後に浮泛装置のバルブを開いた。再び凍った海に飛び込んで投げ入れられた浮き輪にしがみつく。そのまま舷側を引っ張り上げられる。

 飛行帽で顔を拭って海面を見ると、D1-133はまだ浮かんでいた。主翼の浮力を失ったせいで重たい機首を下につんのめったような格好で尾翼を持ち上げていた。

 わたしね、しぶといのよ。あなたもたいがいしぶといけど、そう、そのしぶとさをして神さまはあなたにわたしを与えさせたのかもしれないね。

 そんなふうに言っている気がした。

 残念だがこのまま漂流させておくと敵軍に回収されるおそれがある。沈めなければならない。

 私は駆逐艦の甲板士官にその旨を説明して銃座を借りた。もちろん駆逐艦にも機銃主はいるが、零戦の内部構造まで把握しているわけがない。私の手でやらなければならないことだ。

 互いに波で揺れているので狙いをつけるにはそれこそ偏差が必要だった。

 照準の動きをしばらく観察する。

 上へ、下へ。

 次は上。弾が流れるのを考慮してD1-133の胴体を狙う。

 撃つ。

 弔い筒のように1発ずつ間を開けて、6発。

胴体に黒い穴が開いていく。

 さようなら。もう会うこともないでしょうね。

 さようなら。

 D1-133はイルカが潜るようになんの余韻もなく海面に消えた。


 私は九六艦戦のコクピットで高度3000メートルの風に吹かれている。

 しかし口の中には海の水の生臭さがあった。

 ここで落ちれば同じ潮を飲むことになる。しかも今回周りには味方もいない。敵すらいない。救助は来ないだろう。

 もう10分足らずでエンジンが止まる。

 高度を上げよう。

 高度があれば滑空でもしばらく持つ

 ただ、上に行けば行くほど空気も冷える。

 空気、というか、真空の冷たさだ、それは。

 空気ではなく、その隙間が冷たいのだ。

 高度が上がるほど隙間が大きくなるから、冷たさも強くなる。

 その冷たさも海水に比べればマシに思えた。

 私はもうあまり寒さを感じていなかった。体は上から下まで震えているし、手足の先は感覚が鈍って力が入らなくなってきていた。血液が失われたせいもあるだろう。ただあまりに膨らみすぎた寒気は私の認知機能では捉えきれないくらいの大きさになってしまったのかもしれない。眠い、という感覚の方が強くなっていた。

 私は震える両手を精一杯の速さで左足に伸ばした。止血に使っているマフラーを締め直す。血はもう結び目の上まで染み渡っていた。

 4000メートル。

 幸い上空には太陽があった。角度は浅いが顔だけはストーブに翳したくらいに焼かれていた。汗もすぐに乾いた。

 下方11時方向、何かがきらりと光る。

 魚の群れのように見えたが、飛行機だ。

 照準眼鏡に入れて拡大。

 長い主翼、九七艦攻だった。3機編隊。コールドベイから戻ってくるグループだ。

 塗装は黒っぽい緑色だが、それでも天使の翼に見えた。

 三座機なら航法に間違いはない。母艦とも電話が通じている。

 艦攻の巡航はせいぜい120ノットなのですぐに追いつく。真後ろにつくと誤認が怖いし、高度も失うのでひとまず斜め上について翼を振った。

 艦攻編隊の長機がゆったりと返事をする。3機とも損傷はないようだ。

「健在なりや?」

 長機の偵察員がキャノピーを開けて黒板を掲げた。そこに白いチョークで大きく書いてあった。

 こちらが1機なので心配してくれたのだろう。 

 私は自分の口を指してそれから手を水平にして左右に傾けた。燃料漏れを示す手信号だった。

 艦攻編隊はスピードを上げて私の巡航に合わせた。先導してくれるようだ。

 私は少しずつ編隊に近づいて列機の位置についた。

 時折艦攻のキャノピーを見ているうちに、長機のパイロットが前方を指してこちらを見ているのに気づいた。

 その方角の雲間に航跡が見える。波の始点にあるのは龍驤のフラットな艦影だった。

 もう少しだ、と思った時、静かにエンジンが止まった。

 プロペラは空転を続ける。空気抵抗を減らすためにハンドルを回してカウルフラップを閉め切った。

 滑空に入る。

 次第に減速、編隊に離されていく。

 艦攻の1機が私を導くように編隊を離れて降下を始める。龍驤の後ろに回り込むためにやや右に翼を傾けていた。

 私も続いて緩い降下に入ろうとした。

 その時誰かが私の耳の中で囁いた。

 ――風上に向かいなさい。

 風上?

 私はとっさにスティックを引いた。

 下を見ると先導していた艦攻が遥か遠くに離れていた。もう横長の点にしか見えない距離になっている。

 降下の勢いだけでそんなに速度は出ない。

 下は強い西風が吹いているのだ。

 あの艦攻についていったら流されて龍驤に追いつけなくなってしまう。 

 あまり向かい風が強くても着艦は難しくなるのだが、それでも龍驤が白波を引いている。走らないと艦が安定しないし、横風や追い風では着艦の勝手が変わるから事故につながるからだ。

 私は龍驤の艦首方向へ先を行くように機体を左に振った。失速しない程度に緩降下しつつ龍驤と風の合成速度を測る。

 すでに艦攻たちとの距離は500メートル以上離れている。エンジン音は風に遮られて聞こえない。機体が風を切る震えの他には何も聞こえない。

 静かだ。

 限りなく静かだった。

 エンジン音を聞き続けた耳鳴りのせいで、その静寂は透き通った氷のように余計に冷たくしんとしていた。

 あるところで龍驤が急に速度を上げたように見えた。

 私が向かい風に捕まったのだ。

 頃合いだ。

 高度2500。

 急降下してスピードを稼ぐ。

 真上から押さえつけるような風が吹き込んでコクピットの中で渦を巻く。

 機首の下に先導の駆逐艦が隠れる。

 水平に戻す。

 高度800。

 後下方を覗き込んで龍驤の位置を確認。

 速度計は280ノットを超えているが対地では半分も出ていないだろう。

 再び緩く降下しながら左旋回して龍驤の真上につく。

 さて、ここから。チャンスは一度だ。

 定着点を外すとそのまま着水することになる。

 前に出たからといって再上昇することもできないし、後ろ過ぎても追いかけるスピードに変えるための高度が残っていない。それに今乗っているのは九六戦。零戦に比べると脚が弱いし、車輪の間隔も狭いので定着が難しい。意識してふわりと降ろさなければならない。

 慎重に風速と降下角、機速を見極める。

 着艦フックとフラップを下ろし、通常の着艦より遥かに深い角度で甲板に突っ込む。

 まるで急降下爆撃だった。

 舷側のスポンソンに入って不安そうに見上げる甲板要員の顔が見えた。

 激突直前で引き上げる。

 ちょっと前に出すぎた。

 フラップで機体が浮き上がったせいか。

 でもまだ機首の先に甲板が見えている。

 甲板の先端に駐機した艦攻の翼が見える。

 この風ならワイヤーを捕まえなくても止まるだろう。むしろ凧みたいに飛んでいかないか心配だ。

 引きすぎくらいに機首上げして速度を殺す。

 失速。

 重力が機体を掴んで真下へ引っ張った。

 重い衝撃。

 すぐにブレーキを踏ん張ってフラップを閉じる。

 思ったよりいくらか後方寄りに降りていた。前方エレベーターがまだ前にある。

 すさまじい風だから失速速度より龍驤の合成速度の方が速かったのかもしれない。

 整備員たちが駆け寄ってきて機体をエレベーターに向かって押していく。早く甲板を空けないと後続が降りられない。振り返るとフラップと車輪を下ろした九七艦攻が見えた。

 人力で走る機体の上に整備員が一人登ってきて私のハーネスを外してくれようとするのだが、私はその手を制して自分でバックルを外した。

 水道管を打ったような衝撃とともにエレベーターが下がり始める。

 足の間を見ると床が自分の血で濡れていた。尾部が下がったので手前方向に垂れてきている。

 私はその向こうに波打つ海を見た。それは冷たく深い潮の海であり、また白く濃密な霧の海でもあった。

 多くの命と飛行機がその海の肌の下に沈んでいった。

 これからもまた多くの命と飛行機がその海の肌の下に沈んでいくだろう。

 すまない、俺はしぶといんだ。まだしばらくはこちら側に残らなければいけないみたいだ。

 私は短く黙祷を捧げる。

 頭上にはエレベーターの形に区切られた空が悪魔のような青さを湛えていた。

〇あとがき

 

浮泛装置について

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/4.pdf


手信号について

http://home.f04.itscom.net/nyankiti/A6M%20Fighter%20Squadron%20Hand%20Signals%20and%20Regulations-top1-page1.htm


 おまけ情報を楽しみにしていた諸兄、残念だったな! 今回参照したのは上記サイトくらいなのだ。何しろACT.1もACT.2も無線機の情報集めが死ぬほどつらかったので今回は内容も執筆過程もライトに行こうと思ってほとんどなんにも調べずに書いたのです。

 ACT.2はレーダーの話がごてごてしすぎてたから、ライトで空戦特化なお話にしようと。(それでACT.2の直後から始めて、結局半月かかってるのは果たしてライトといえるのか?)

 ライトさを求めた結果、数値は算用数字になり、人間のセリフは消え、人物名まで省略するに至ります。大した内容じゃないけどちょっと実験的。


・液冷化

 九六艦戦とP-40を引き合わせた理由はきちんとあります。空冷機の液冷化という試みがこの2機種を連接している。無論その試みの目的は互いに異なることは断っておく必要があると思うのですが。

 片や九六は試作機すら空冷仕様に差し戻される嫌われよう。日本海軍は全身の設計を改めた零戦でアメリカに挑むわけです。結果、九六の太平洋における活躍はほんの一瞬です。フィリピンやマレーでは空戦という空戦はしていないし、せいぜい珊瑚海でしょう。あとは練習機として二線を支えることになると。

 対してP-36から生まれたP-40は1万機を超えるベストセラー。最終的にXP-40Qという試作型に至って疾風並みのスペックを記録している。そこに陰陽を感じるわけです。

 ただP-40の存在は残念ながら足の短さとP-51の高速性のせいでやや霞んで見えてしまう。というかP-51はP-40の下請けを打診されたノースアメリカンの反駁から生まれたわけで、両機種には傑作機の陰なる母胎という共通点もあるように思います。

 なんだかそんな親しみからも書いてみたくなった一作でした。


・「この高度、九六戦でスピンから回復するのは無理だ」

 「零戦に比べると脚が弱いし、車輪の間隔も狭いので定着が難しい」

 九六艦戦のスピンからの回復の難しさ、トラックの狭さは土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』(光人社NF,2011)を参考に追記しました(2019/7/28)。氏は元山空の訓練生・教官時代に九六艦戦に乗っています。

 世傑『第二次大戦ミグ戦闘機』に鳥養氏によるI-16のスピンからの回復の難しさの記述があるのですが、曰くフラットスピン時に水平尾翼と主翼の生み出す乱流の中に方向舵がすっぽり収まってしまうのがよくないと。円錐状の尾部に各尾翼を放射状に配した設計だとこうなりがちで、対策としては方向舵を水平尾翼の下まで伸ばすために尾部を縦長断面にするべきのようです。隼以降の陸軍(中島)戦闘機はだいたいそうなってるわけです。他方、九六艦戦の尾部、尾翼の構成は結構I-16に似ています。やはりスピン時に方向舵が乱流に収まってしまうような配置に見えます。回復の難しさもおそらくI-16と共通の原因によるものでしょう。

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