Chapter6 たぶん、数億通り分の1の彼女
大ネズミは階段で転がっていた。焼けたような臭いと、黒い焦げがついた姿、明らかに燃えるような斬撃の後である。茶色い姿は黒っぽくなり、太い尻尾も途中でちん切れていた。
暗がりが大き階段の踊り場で、僕は彼女を沿った抱きしめるのだ。
「大丈夫か? さおり」
『キシィ……(ごめんなさい……剣取られちゃった……)』
「そんなことはどうでもいい。俺が付いていながら、目を離したばっかりに……」
『キシィ(いいわよ、別にそんなこと。あなたが無事でよかった……』
さおりの茶色いフォルムが、砂嵐のテレビのように、一瞬乱れた。ザザッ、というノイズが入ると、抱きしめている腕から質量が消える。そのうち、ふさふさの茶色い体は、空気を抱いているような温度になった。
獣臭も少ない。残り香だけは、鼻をかすめた。
静かな階段の踊り場で、誰の気配もしないまま時間が過ぎる。大ネズミ特有の、呼吸による脈動は、ノイズが混じって薄れ始めた。
ゲームのモンスターをプレイヤーが撃破すると、そのモンスターは消える。召喚されるモンスターは乱数であらゆる値がランダムで決まり、彼女が再び同じパターン配列でこの世界に現れる保証はどこにもない。
この世界のようなオープンワールドのVRゲームの場合、0〜9とA〜Fまで使った16進数で、途方もない量の乱数が設定されている。TASの私であろうと、全てを調整しきるのには、何年かかるのかわからない。
このゲームで、キャラクターを復活させる方法は確かにある。ただ、そのためには、三人以上のパーティーで、ペットとしてのモンスターを飼っている必要がある。倒される寸前に、ペットとキャラクター設定を入れかえ、戦闘不能をキャンセリングする必要があった。
今、僕のパーティーは僕一人で、おそらく、すでにさおりもペット項目から外れてしまっているだろう。
『キシィ、キシィキシィキシィ。キシシシィ』
大ネズミの言葉が翻訳されなくなっていた。
『キシシィ? キシィイィ、キシィ、キシィイ』
さおりは、黒い瞳に涙を浮かべて、頭を太ももに擦り付けていた。切れた尻尾も、上下に動かす。
『キシィシィ? キッシッシッシッシッシッシッシ、キシィ』
「そうだな、また会えるといいな」
『キシィ』
僕は彼女の頭を撫でる。そっと、尻尾が沈降していくのがわかった。ふさふさの体毛も、手触りだけ。
『キシィ』
優しく微笑むと、彼女は笑った気がした。