ホールゼロ
――なんでこれが……。
今年は高校受験を控えた年ではあるが、学力的にはなんら問題もない。だから最後の夏休みも僕は悠々自適な時間を過ごすつもりだった。
昼間、身体が鈍ると思って散歩でもしようかと外に出た所、僕の目にそれは飛び込んできた。
マンホール。どこにでもある、気にも留めない存在。そのマンホールの上に赤いペンキのようなもので「30」と数字が記されていた。
訝しく思いながら、僕は視線を下に向けながら歩き出した。少し歩くと同じように「29」と書かれたマンホールを見つけた。
――なんで。
僕は歩みを早めた。
28,27,26。
歩き始めると同じマンホールでも数字が書かれているものと書かれていないものとに分かれている。僕は数字の振られたマンホールに導かれ進み続けた。
子供の遊びだ。付き合う必要などない。だが僕は、僕にはほっておけない数字だった。
これがただのイタズラならそれでいい。だが、もしそうでないなら――。
「ありえない……そんなの……」
20,19,18。
進むごとに住宅街から離れ、道は人気のない場所へと向かっていく。
15,14,13。
数字が減る毎に心拍数は早まっていく。
10,9,8。
この通路を歩くのは一年ぶりだ。
5,4,3。
もう歩く事などないと思っていた。
2,1--。
静かな空間にポツリと存在するマンホール。
しかし最後のマンホールだけは、鉄製の蓋の代わりに、真っ赤に0と書かれた雑なダンボルが被せられていた。
――同じだ。
見間違いや勘違いだと思っていた。だが認めざるをなかった。
これはやはり確信犯だ。
「へー君だったんだ」
後ろから唐突に声が聞こえ、僕は勢いよく振り返った。
そこにいたのは、近くに住む高校に通う二つ年上の土屋さんだった。背が高く、大人しいと言えば聞こえはいいが、悪く言えば陰気な人だった。土屋さんの存在は知っていたが、特にこれまで言葉を交わす事はほどんどなかった。
「面白い事を考えつくね」
言いながら土屋さんはざっざっざと一気に僕との距離を詰めた。
「ただ、自分でつくった罠に自分でかかるのは間抜けがすぎるな」
声を出す間もなく、僕の足は気付けば地面から離れふわっとそのまま背中からごすっとダンボールの上に倒れ込んだ。しかし脆いダンボールは一瞬で壊れ、そのまま僕の身体は落下した。やがてどずっと鈍い音と全身に強い衝撃が走った。
「……がっ、あっ……」
意識が朧気になる中で、自分の中で一年前の記憶がほじくり出されるように鮮明によみがえって来た。
――同じ、だ、僕と、同じ……。
*
「僕とゲームをしよう」
気に入らないガキだった。そいつはピンポンダッシュの常習犯で、何件もの家が用もないのに呼び出しのベルを押され、皆彼に辟易としていた。
逃げ足が速く、誰もそのガキをその場で捕まえて来れなかったが、ようやく僕は現行犯で取り押さえる事に成功した。
親と学校にチクるぞ。そう言うとガキはいやだいやだと首を横に振った。だが僕は、はいそうですかと見逃すつもりはなかった。こいつがピンポンダッシュ以外にも万引きなど悪行の数々を働いている事を知っていた。
僕は少し前からある一計を講じていた。散歩をしていて偶然見つけた蓋のないマンホール。こいつをそこに叩き落してやろうと。ただし、僕が直接手を下せばただの殺人だ。バレたとしても、僕は事故を装う事の出来る形にする必要があると考えた。
「あの数字を辿って先に0のマンホールに着いた方が勝ち。君が勝ったら今回の事は見逃してやる。ただし、負けたら万引きしてる事とかも含めて、親と学校にバラす。いいな?」
ガキはそう言うとしぶしぶながら頷いた。
「で、でもあの番号ってお兄ちゃんが自分で……」
「僕は全部どこに数字があるか知っているから有利だって言いたいのか。安心していい。ハンデをやろう。5分待ってから僕は君を追いかける。それなら文句ないだろう」
そう言うとガキは改めて頷いた。
「いいか。先にゴールしても必ずそこで待っていろ。後0番の上にしっかりと立つことを忘れるな。じゃあスタート!」
僕の掛け声でガキは全速力で走り出した。
*
僕は5分後ゆっくりとマンホールの数字を消しながら彼の後を追った。そして0番のマンホールへと辿り着いた。
僕が用意したダンボール蓋の0番はなく、代わりに蓋のないマンホールの姿がそこにあった。覗き込むとそこには崩れたダンボールと、ガキの姿があった。
遠くて見えにくかったが、まだガキには息があるようだったが、一人で起きる事は出来ない状態だった。
僕は無言で周りに落ちていた枯葉達を集めて穴の中に流し込んだ。パッと見、子供がそこに一人いるなんて分からないほどに隠れた所まで確認し、僕はその場を離れた。
驚く程罪悪感はなかった。むしろ成敗してやったぐらいの清々しい気持ちの方が強かった。
しかし、時間が経つと自分がやった事がバレないだろうかとさすがに心配に襲われた。だが幸運な事にガキの親はさほど我が子に愛情を持っていなかったらしい。ろくな捜索願も出さずにほったらかしで警察が動くそぶりは欠片もなかった。ようやく警察が動いたのは事が起きて二か月以上も後の事だったが、時間の経過のせいもあってか誰もその日に起きた事にまでたどり着けなかった。
そう思っていた。
だが、そうではなかった。
僕はしっかり土屋さんに見られていた。
穴の上から土屋さんが僕を覗き込んだ。
「待ってて。しばらくしたら、また誰か落としてあげるから」
そう言って土屋さんはその場を立ち去った。
動けず、声も出せず、絶望に気持ちが沈みこんだ。
自分の考えた罠に自分がかかる様は、確かに土屋さんの言うように滑稽以外の何ものでもない。
――こんな事、しなければ良かった。
『ねえ』
ふいに声が聞こえた。
『僕の勝ちだよね』
声は上からではなく下から聞こえた。
『言わないで、くれるよね』
知っている。この声を僕は知っている。
だが、向きたくても声の方を向くことすら、今の僕には出来なかった。
「……ああ、言わない、よ」
もう僕の声は誰にも届かなかった。