オンコの森の少年タータ
プロローグ
遠い遠い昔の話である。
この地方は、温暖な南の国々から北の地域と呼ばれ、寒冷の気候で夏は短く冬は長いが、降雪量はあまり多くはない。
火山活動も活発で噴煙を上げている山もあり、一帯にはオンコの森が広がり温泉が湧き出ている。
オンコはイチイ科の植物で山地に自生し、主に寒冷地帯に群生する。
高さ二十m程の高木になるが成長は遅く、厳しい風雪に耐えて、成長するには長い歳月がかかる。
地域の人々は、この植物をオンコと呼んで大切にしている。
このオンコの森に住む人々は、集落を作り争いもなく、森の動物達ともお互いに助け合って、肩を寄せ合うようにひっそりと平穏に暮らしていた。
短い夏のある朝、その森の中の在るところで、オンコの木の枝に小鳥が数羽停まり美しい声でさえずるなか、この家の住人のマリー婆さんが外に出て来た。
「何とまぁ~、いい天気だぁ~こと。」
籠に山となっている洗濯物を抱え、朝の清々しい光を全身に浴びていた。
「よっ、こいしょっと。」
洗濯籠を地面に置くと、籠の中から洗濯物を取り出した。
両手で洗濯物の端を摑みバサッ、バサッと上下に振ってシワを伸ばし、木の枝と枝に張られたロープに丁寧に掛けて干していく。
洗濯物の作業に気を取られていたその時、背後から音もなく静かに迫る動物がいた。
マリー婆さんは、まだ気付いていない。
「カサッ」
周りで何かが草を踏みつける音がした。
マリー婆さんは、背後に気配を感じ振り向いた。
「おや、おや、おまえどうしたんだい。」
そこには小鹿が一頭佇んでいた。
小鹿は、マリー婆さんの問いに答えるかのように、頭を垂れて左前足の足首あたりを舌で舐め回す動作をした。
それを見たマリー婆さんは、咄嗟に怪我でもしているのかと思い、小鹿の前に腰を下ろし膝を突き、左前足を両手でやさしく大事に持ちあげて見ると、足首の付け根に棘のような物が刺さっていた。
「あら、あら、これは痛いはずだわ。」
棘を抜こうとしたが、中々取れない。
「困ったわね:。ちょっと待っててね。」と言って、「よいっしょ。」と、腰を上げ家の方に向くと、「タータ、タータはいるかい。」、大声で叫んだ。
その声に家の中から、「なんだーい。婆ちゃーん。」、子供の元気な声が返って来た。
「刺抜きを持ってきておくれなぁー」
家の中から、「わかったー。チョッと待っててーー。」再び大きな声で、家の中から返事が返って来た。
マリー婆さんは小鹿に振り向くと、「今、棘を抜いてあげるから、今、しばらく辛抱してね。」、小鹿の頭に掌をのせて撫でる。
小鹿はおとなしくしている。
しばらくして家の中から、子供が手に刺抜きを持って出てきた。
「婆ちゃん、これ。」と、言って刺抜きを掌に載せ差し出した。
「ありがとう。タータ。」と、刺抜きを受け取り、再び腰を下ろし小鹿の左前足を持ち上げようとした。
それを見たタータは、「僕も手伝うよ。」左前足を両手で抱えた。
一瞬、小鹿は驚いた様子だったが、すぐにおとなしくなりマリー婆さんとタータを見つめていた。
ようやく棘を抜き取り、「さあ、これで棘も抜けたし、大丈夫だよ。」マリー婆さんは顔を上げ、笑顔で小鹿に話しかけた。
タータも笑顔で、「良かったねー」と言い、小鹿の背中を両手で撫でる。
小鹿は、頭を下げ棘を抜き取ってもらった左前足の足首に、鼻先を向け棘がないことを確認していたが、ないことがわかったのか頭を上げて、タータの方に向くと顔を舌でペロペロと舐めまわした。
顔を舐められたタータは、「くすぐったよ~」と、言いながらも嬉しそうであった。
さらに、「婆ちゃん、この小鹿が婆ちゃんにお礼を言っているよ。」
「そうかい、そうかい。お礼を言っているのかい。」と、マリー婆さんも小鹿とタータを見ながら、嬉しそうであった。
マリー婆さんが、何気なく森の方に目をやると、木々の間から大人の鹿が二頭ばかり、こちらの様子を伺っていた。
この子鹿の親かもしれないと思ったマリー婆さんは、「さあ、さあ、早く親のところへお帰り。」小鹿のお尻を軽く叩いて、待っている親のところへ帰そうとした。
小鹿はお尻を軽く叩かれて、来た道をまたゆっくりと歩み始めた。
しばらくして歩みを止めると、後ろを振り向いて二人に礼を述べるかのように頭を二度ばかり下げてから、木々の間で待つ二頭の鹿の元へと足を速めた。
立ち去る小鹿の背に向かってタータは、手を振り、「元気でなぁー」と声をかけた。
やはり待っていたのは小鹿の親であった。 小鹿が近寄ると、二頭の鹿も温かく迎えるように近寄って来た。
そのあと、鹿の親子はマリー婆さんとタータの方を振り向き見つめていたが、その後、森の中へと姿を消した。
「良かったね、婆ちゃん。」、振り向いてタータが言う。
「そうだね、タータ。でもね::」、マリー婆さんの顔が暗い表情であった。
「アッ、ごめんなさい。婆ちゃん::」 タータの表情がこわばった。
「タータや、いいかい:。おまえは動物と会話が出来る事は、良い事かも知れないが:、爺ちゃんや私は動物と話が出来ない:」
マリー婆さんの言葉に黙って耳を傾けるタータではあったが、言われている事は自分自身が一番良く知っている。
「どう:どうして::、僕:、僕だけが動物の言葉がわかり話が出来るのだろう::。婆ちゃん:、この頃は、動物だけではなく木や花とも心の中で話が出来るんだ::」
悲しそうな表情でマリー婆さんに、心の内を打ち明けるタータは辛そうであった。
マリー婆さんは、タータの小さな両肩に腕を乗せ顔を覗き、「いいかい。爺ちゃんや私の前では良いが、絶対に他人の前では動物や植物と話してはいけないよ。タータや、おまえのためなんだからね。」 と、やさしく言葉をかけた。
「うん、わかったよ。婆ちゃん。」、少し笑顔を取り戻したタータであった。
「ところで婆ちゃん、爺ちゃんにお昼の弁当を届けなければならないね。」
その言葉にマリー婆さんも慌てた。
「そうだ、そうだ。忘れるところであったわ。弁当はもう用意してあるから、タータや、爺ちゃんにいつものように届けておくれ。」と言って、「ところでタータや、朝ご飯食べ終えたのかい。」と聞いた。
「いや、まだだよ。だって食べかけていたところに、婆ちゃんに刺抜き持って来るように言われて::」
「それは、婆ちゃんが悪かった。早く朝ご飯食べて、爺ちゃんに弁当を届けてやっておくれな。」と、タータに用事を言いつけた。
タータは家の中に入っていったが、マリー婆さんは、「ほんに素直で良い子なんだけれども::」と、呟きながらやりかけていた洗濯物を干し始めた。