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灯の物語(2)

 チリンチリン……とかそけく風鈴の音を聞いた気がした。

 夏の終わりの白い砂浜には、灯と拓海しかいなかった。二人は制服を着たまま、波打ち際を裸足で歩いた。

 宿題の提出と確認テストの範囲発表という、生徒にとってはありがたくない登校日の、その帰りだった。鞄は防風林の木のたもとに置いてある。華と綾芽がいないのは、二人に遠慮したというのもあるが、まじめにテスト対策に励むためというほうが大きい。四人は高校受験を控えている。次の確認テストはひとつの山といえる。

 前を歩いていく灯に、拓海は背後から声をかける。

「灯は勉強しなくていいのか。一緒に赤嶺行くんだろ」

「今その話したくない」

 海へ行きたい、と口にしたのは灯だった。受験を控えた身で遊んでいる場合ではないとは思ったが、今日だけという条件で同意した。灯の様子が気になったからだ。最近、ずっとふさぎがちで元気がない。体面の明るさは維持しているので、他人から見ればたいした変化ではなかったが、拓海には重大なことに思えた。海に来て気分が晴れるなら、それもいいと思った。

 三年に上がった四月、灯は四人で赤嶺高校を受験しようと言い出した。学生寮があり、なおかつ灯や華の偏差値でも十分狙えるレベルだったからだ。拓海にとっては赤嶺のレベルは低いので、自分の勉強の心配はしていない。

 夏の日は長い。もう四時を回っているが、太陽は沈む気配すら見せずに照りつけている。

 拓海は前を歩く灯の髪がさらさらと揺れるのを見ていた。やわらかな黒髪は、今はまとめられることもなく背中に奔放に広がっている。学校中の誰よりも長いその髪を、拓海はよく指で梳いてやる。そんなとき、灯はいつもの大人びた顔ではなく、子供が親に甘えるときのような屈託のない顔を見せる。拓海にしか見せない、灯のもう一つの顔だ。

 灯は小さい頃から妙に大人びたところのある、しっかりした女の子だった。人に甘えたところをほとんど見せない。末っ子特有のしたたかなところはあるものの、わがままで人を困らせるようなことはまずしない。唯一の例外が拓海だった。灯が甘えるのは、なぜか拓海だけだった。兄と姉は頭脳明晰の秀才で、性格も灯とは似ていない。そのことで気が引けているのか、きょうだいで遊んでいるようなところは島にいても見たことがなかった。二人が本土の学校へ行ってしまってからは、まるで最初から一人っ子だったかのように、一緒にいる姿さえ見ない。一人ぼっちの灯が本当は寂しがっていることを、拓海だけが知っていた。

 島に住む者たちは、全員がゆるくつながった家族のようなものだ。盆を過ぎれば他所の者はほとんど訪れない閉鎖された土地で、しかも皆同じ学校を出て同じように成長していくのだから、よそよそしくするほうが難しいというものだ。秘密を作ろうにも、こんな狭いコミュニティの中ではすぐにどこかから漏れてしまう。

 そういうわけで、拓海と灯が付き合っていることも周知の事実だった。中学生同士で交際なんて、と非難めいた声をあげる者もいるが、拓海は灯に熱心に勉強を教えるので、暗黙のうちに許されている。

 拓海は前を行く灯を心配しながらも引き止めたりはせずに気の向くまま歩くに任せている。時々顔を上げたときに垣間見える横顔には硬い表情がのぞく。つい最近、そんな灯の顔を見たことがあった。

 夏休みに入る少し前、たまたま一人で帰り道を歩いていた灯に、年上の男たちが絡んできたことがあった。それは高校へも行かず、かといって家業を手伝うでもなくふらふらしている若者たちだった。島にはあまりいない類の柄の悪い者たちで、大人たちも手を焼いていた。その男たちと運悪く出くわしてしまい、灯は立ち往生してしまった。後から通りかかった拓海が気づいて助け出したので事なきを得た。そのとき拓海は、安堵しながらも違和感を覚えた。普段なら先に察知して避けるか、それができなくても脚力に任せて逃げおおせることもできそうなものなのに、か弱い少女のように立ち尽くしていた灯。

 あのときも様子がおかしかった。何か思いつめて考えているような感じ。そういうとき、灯は何者をも拒絶するような冷たい顔を見せる。それはとても脆くて美しいものに見えた。

 目の前で灯が立ち止まった。灯がお気に入りの、日が沈んでくると夕日がちょうど灯台と重なって見える場所に着いていた。まだ日は高いが、灯は砂浜に腰を下ろす。いつもながら、制服のスカートが砂まみれになるのもお構いなしだ。拓海ももう慣れているので、その隣に座る。それとほぼ同時に、海を見たまま灯がつぶやいた。

「特別なんだよ」

「何が」

 独り言のようでもあったが、それは拓海に向けられた言葉だった。声は小さかったが、何を言ったのかはわかるので訊き返す。

 灯は時々こんな風に、主語のない話し方をする。それまでの会話から意味が通るときもあるが、今のように唐突で、何を言いたいのか訊き返すことも多い。

「私にとって、拓海は特別なんだよ」

「知ってる」

 何を今さら、という気分だった。それは拓海にとっての灯も同じだ。疑う余地などないからあえて口にはしないだけで。

 二人の関係が変化したのは中学に入った頃だ。同年の中でも、拓海は華や綾芽とは違う何かを灯に感じていた。それは初めて、女の子として意識したということだ。一方で灯はそのずっと前から、拓海のことを見ていた。どこか大人びたところのある、熱を帯びたような視線。拓海が灯を好きになるよりもずっと前から、灯は拓海のことを特別な男の子として見ていた。それから二人は自然に付き合うようになり、もう二年以上、お互いが一番大切だと思って生きてきた。

 だから次の言葉に、拓海は少なからず動揺することになる。

「だから拓海には、嘘ついたり隠し事したりするのは嫌なんだよ」

「……何のこと?」

「私、もうすぐいなくなる」

「はぁ?」

 思わず声が大きくなった。こんな不穏な言葉を聞くとは思っていなかったのだ。一方の灯は淡々としている。

「女の子が月に帰った話あるでしょ。同じようなものだよ」

「それって」

 拓海には思い当たることがあったが、口にするのははばかられた。もしそれを今言葉にしてしまったら、目の前から灯が消えてしまうような気がしたのだ。

 しばらく二人の間には沈黙が流れた。拓海は突然の告白をどう受け取ればいいのかわからずにいた。灯は灯で、拓海がどう受け取ったのかを慎重に見極めようとしていた。流れた時間は長かったようでもあり、あっという間であったような気もした。半ば諦めたように口火を切ったのは灯のほうだった。

「私は、拓海の前からいきなりいなくなるのは嫌。その前に、ちゃんとお別れをしたいって思ったんだよ」

 こらえたのだろうが、声は震えていた。拓海のほうに顔を向けた灯の両頬を涙が伝う。そのまま無理やり笑顔を作った。

「だから私を拓海にあげる」

 息が詰まりそうだった。ようやく傾きだした太陽を横から浴びた灯は、ぞっとするほど綺麗だった。

 隣に寄り添って横たわる灯の体温を感じながら、拓海はどうしようもなくやるせない気分に襲われていた。そこにはまだ中学生の身でこんなことをしてというような罪悪感などはなかった。だからといって、心が晴れるものでもなかった。隣の灯を見ることもできず、視界はぼんやりと部屋の天井が埋めている。その冷たいほど綺麗な顔は、これが最初で最後であることを思い知らされるものだったからだ。灯と重なった喜びよりも、先のない二人の関係に対する絶望のほうが大きかった。これが灯の最後の望みだったとしても、あまりにも辛い。だからといって拒むのはもっと辛かった。どうすることが正しいのかなどわかりようがなかった。

 拓海の肩に顔をうずめて灯がささやく。

「拓海が他の子を好きになったら、やっぱり悲しいと思う。身勝手だけど」

 ならねぇよ――それを口にすることはできなかった。残される者の運命を知っているからだ。灯が引かれれば、灯に関する記憶をすべて失ってしまうことを。

「行くなよ」

 拓海は灯の頭を自分の胸元に引き寄せ、懇願する思いで言う。すると灯はふいに息をもらすように笑った。そして噛みしめるようにゆっくりとつぶやく。

「拓海は、やさしいよね」

「別にやさしくなんか」

「……やさしいよ。私はずっと甘えてただけ」

 拓海の腕の中で、灯が大きく息を吸う。笑おうとして、失敗したように。

「私は、勝手だよ。拓海がやさしいの知ってて、ずっと甘えてた。だけどね」

 灯の細くしなやかな腕が拓海を抱き返す。

「こればかりはね、拓海にも甘えるわけにはいかないよ」

 甘えてくれればどんなに楽だろうと拓海は思った。そしてそれを決してしないのが灯であることも、誰よりもわかっていた。

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