雪美の物語
定期便の船を降り、島の土を踏みしめても、なんだかまだ海の上にいるようなふわふわとした気持ち悪さがあった。
荻野 雪美は鞄の取っ手を強く握りしめる。その中に入っているものを強く意識するように。
それは産婦人科の診療証明書にエコー写真、そして母子手帳である。
本土の産婦人科を一人で訪れ、確定診断を受けた。妊娠九週目に入っていた。
この結果を、恋人である沖田 将志にどう伝えたものか、その元に向かっている今になってもまだ迷っている。彼は一体何と言うだろうか。もしも、堕してくれと言われたら……?
将志は港にいた。船着場にあげられた将志の家の船をメンテナンスしているところだ。父の友章が病に倒れたため、早くも独り立ちすることになった、少年と青年の間にいる若い彼。周りの漁師も助けてはくれるが、根が真面目な将志は早く仕事を覚えたいと思っていた。今もだから、他の漁師仲間が引き揚げた中で黙々と作業を続けている。
雪美が姿を見せると、将志は作業の手を止めて近づいてくる。
「帰ったのか」
「うん」
「楽しかったか」
ぼそりとつぶやく言葉が的を射ないのは、将志にも両親にも、学生時代の友人に会いに行くと言って本土に行っていたからだ。返事をしない雪美を不審に思って確かめるように問う。
「遊びに行ってたんだろ」
「ごめん。嘘なの」
その声があまりに低いので、様子がおかしいということに将志も気づく。よくよく見れば顔色も悪い。いつも快活な雪美が、積極的に喋ろうとしない。やたらと口が重い。相当具合が悪いのではないかと心配になり、将志が手を伸ばして体を支えようとするのをやんわりと遮る。黙って鞄から出したものを将志に差し出す。雪美の名前が書かれた母子手帳。
「病院に行ってきたの。九週目だって」
まるで誰かに聞かれるのを恐れているように、ささやくほどの小声で言う。しばらく黙って手元を見ていた将志がうわ言のようにつぶやく。
「俺の子、なのか」
それは疑いから出た言葉ではなかったのだが、雪美は悲しそうな顔をした。雪美に他の男の影がないことは誰よりも将志がよく知っていた。
将志は雪美の手を取って正面を向かせる。うつむいたままの雪美に、静かに告げる。
「結婚しよう」
さすがに驚いたように顔を上げた雪美と目が合う。「プロポーズ」などというようなムードは全くなく、飾り気のない言葉を継ぐ。
「お腹の子も含めて、もう家族だろう。心配するな。何とかなる」
二十歳を過ぎたばかりの若者とは思えないような頼もしさは、島で育った者がもつ特有のものかもしれない。少ない島民同士で支えあうことを常にしているためか、子供の頃から自律心が強い。島の若者ならばそれは当然のことであるようにも思えた。それでも、嬉しかった。
雪美は泣いた。
夜だった。雪美はいつの間にか暗い海辺に一人で立っていた。星明かりだけが照らす夜の海は黒くうごめいていて、まるで得体の知れない巨大な生命体がこちらを窺いながら横たわっているようだ。ここへどうやって来たのか、なぜ来たのかも定かでなく、雪美は夢でも見ているのだろうかと思ったが、その割に潮の匂いを強く感じるのが不思議だった。
――おいで。
佇んでいると、ふいにそんな声を聞いた気がした。辺りに人の気配はない。海風に混じってどこか遠くから気まぐれに届いたような、あいまいな声。聞き違いだろうか。
――おいで。
――帰っておいで。
風のざわめきが大きくなる。しかし雪美は、はっと気づく。さっきから、風など吹いていない。夏の湿った空気が貼りつくように澱むのみだ。それなのにざわざわと、人の声のようなざわめきだけが雪美の耳元をすり抜けていく。
「誰?誰かいるの」
思わず雪美は声のする方へ、海へ向かって問うた。
――我々は……あなた。
――あなたの帰りを待つ者……。
たくさんのざわめきが「おいで」「帰っておいで」と繰り返す。雪美はやっと、何が起きているのかを理解した。
「いないはずの場所にいて、聞くはずのない声を聞く」
雪美はそっとつぶやく。それは幼い頃、祖母の口から聞いた言葉だった。
理解してしまえば、すとんと納得できるものだった。何となく生きにくく感じていた島での暮らしの端々を思い浮かべる。住む世界が違っていたのだ。
一歩ずつ、ゆっくりと波打ち際へ歩いてゆく。ざわめきが喜んだような気がする。寄せる波が足元を洗う。もう一歩進むと、海水の中にくるぶしまで浸かる。帰らなければ。在るべき場所へ。
ドクン、と己の体の中で何かが跳ねた。それで雪美は我にかえった。下腹の辺りに触れる。今帰れば、この子はどうなる。
どうしよう。どうしたらいい。
胸の奥底から突き上げるように湧いてくる「帰りたい」という思い。それと同時に湧いてくる、この子を産んで母になりたいという思い。どちらも強く雪美の心を揺らす。どうしよう。どちらも捨てることができない。しかし選べる未来は一つ。
結局雪美は海を背にして駆けた。いつか帰るのだとしても、今すぐには判断できない。追いかけるようなざわめきを振り切るように走った。もしも夢なら、早く醒めて。そう願うのに、走っている世界は見慣れた光景と寸分違わない。
道の先に将志の家が見えた。窓から光が漏れている。雪美は門をくぐり、玄関の戸を開けた。
ちょうど玄関の小上がりにいた将志と目が合う。将志は驚いたが、息を切らして青ざめている雪美をいたわるようにたたきに降りてくる。
「どうした」
訊かれても、口をきくことはできなかった。そうしているうちに将志の母、ツネまで玄関に出てくる。
「あら、ユキちゃん。どうしたのこんな時間に」
笑みを浮かべて近づいてきたツネも、すぐに様子がおかしいことに気づく。
「ちょっと、顔真っ青じゃない。大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくるツネを将志が制す。
「母さん。ちょっと二人で話させてくれ」
静かだが有無を言わせないような息子の台詞を、ツネはどうとればよいかわからなかった。呆然としているうちに将志は雪美を連れて自室に引っこんでしまった。
畳の上に向き合って座る。顔色が悪いまま口をつぐんでいる雪美に将志から水を向ける。
「子どものことか」
問われた言葉の意味を吟味するようにわずかに思案し、うなずきかけて雪美は首を横に振った。
「ううん。そうじゃなくて、私のこと」
「お前のこと?」
つぶやく声は小さく、将志は聞き間違いかと思ったがそうではなかった。スカートの上に置いた両手を硬く握って、絞り出すように言う。
「いないはずの場所にいて、聞くはずのない声を聞く」
「……雪美?」
その台詞は、島の者なら誰もが一度は聞いたことのある言葉だ。しかしなぜ今、雪美がその言葉を口にするのか将志には飲み込めなかった。訝しげな表情を崩さない将志に、雪美はまるで最後通牒とでも言うようにまっすぐ目を見て告げた。
「私、聞いてしまったの。聞くはずのない声を」
終わりには嗚咽が混じり、雪美は大粒の涙を流した。将志は絶句してしまい、しばらく言葉が出なかった。衝撃が大きすぎて、何をどう考えればいいかわからない。声を殺して泣く雪美のしゃくり上げる音だけが部屋に響く。ややして、将志がぽつりと言った。
「お前、聞く者だったのか。海へ帰るのか」
雪美に対して言ったというよりも、独り言のようだった。
泣いていた雪美が将志の腕にすがりつく。
「どうしよう。ねぇ、どうしたらいい?」
「お前はどうしたいんだ」
責める調子にならないように気をつけながら将志は訊く。雪美は動揺で体をがくがく震わせている。
「わからない。……帰りたい。もう海が懐かしくなってる。帰りたい……でもこの子を産みたい。将志さんの子に会いたい。でも、胸の奥をかきむしられるみたいに強いの、帰りたいっていう気持ちが。わからないの。どうしたらいいか」
命を宿している腹をいたわるように抱えて雪美はうつむく。
「帰りたい、帰りたい……」
発作のように繰り返しながらむせぶように泣く雪美を、将志はただ見つめることしかできなかった。
しかしこの時を最後に、雪美が人前で「帰りたい」と漏らすことはなかった。
雪美が妊娠三ヶ月を迎える前に挨拶を済ませておいたほうがいいだろうということで、まず雪美の両親のもとを二人で訪ねた。二人が結婚するであろうことは周知の事実だったので、両親もついにこの時が来たかという感じで報告を受け入れたのだが、お腹に子供がいるということにはさすがに苦い顔をされた。それは順番が違うだろう、と。結婚前の妊娠にはまだまだ抵抗のあった時代だ。しかし母親のほうは娘の様子からある程度察していたようで、畳に額づく将志には何も言わなかった。代わりに父親に「責めたらお腹の子によくない」と自制を促してくれた。
将志の親であるツネにはその翌日に報告をした。二人でツネの前に座ったが、ほぼすべて将志が話した。雪美と結婚すること、子供がいることなどを淡々と話す。ツネはあの日、雪美が急に訪ねてきた日からなんとなく察していたようで、特に驚くこともなく黙って話を聞いていた。
将志が話し終えると、しばらく何事か考えるように口を閉ざしていたツネだが、おもむろに雪美と目を合わせた。
「私は、ユキちゃんがお嫁に来てくれるなら嬉しいけど、ユキちゃんは本当にそれでいいの?」
それは、雪美にとって衝撃的な問いだった。将志とは付き合って三年になる。年齢は少し若いかもしれないが、結婚してもおかしくない歳ではある。だからそれはツネが「条件」を問題としているのではなく、雪美の真意を問うているのだった。
見透かされている、と思った。雪美の中にある迷い、不安。もしかしたらツネは、己の正体に気づいているのかもしれない。
いろんな考えがめまぐるしく頭の中を交錯した。雪美は無意識にわが子のいる腹に手を当てる。まだ動くことも心拍を感じることもないその小さな生命に勇気付けられるように、雪美はツネをまっすぐ見つめたまま応えた。
「はい」
じっと見つめるツネの目にはどこか凄みがあったが、雪美はそれに負けないように見つめ返す。
「私は、この子と……将志さんの子と生きたいです。将志さんと、この子と、家族として生きていきたいんです。若輩者ですけど、どうかよろしくお願いします」
頭を下げた雪美を黙って見つめていたツネは、ふいに柔らかい声で「顔を上げなさい」と言った。張りつめた今までの空気が和らいだように思えた。ツネはいつものやさしい顔に戻っていた。
「あなたの気持ちはよくわかったわ。私は娘がいなかったから、本当に嬉しいんだよ。ユキちゃん、これから将志共々よろしくね」
「……はい」
声を出すだけで涙が流れた。それがツネに受け入れられた安堵から出たものなのか、それとも別の何か――例えば、聞く者として海へ帰るという選択肢を捨てることへの後悔――なのかは、雪美自身にもわからなかった。
臨月を迎えた頃、雪美はあの海辺にいた。日はとうに沈み、夜風が頬を冷やす。
「帰らない」と決めたからなのか、もうあのざわめきのような声は聞こえなかった。自分がもう聞く者ではなくなったのだと、その時に理解した。もう海へ帰ることは叶わないのだ。どんなにそれを渇望しようと。
赤ん坊が腹を蹴る。雪美は妊婦向けの雑誌で読んだ知識で、蹴られた辺りをやさしくぽんとたたき返す。生まれてくる子が男の子であることはずいぶん前の検診でわかっていた。普段物静かな将志と子供の名前をあれこれ考えた。
満たされている、と雪美は思った。いまだに時々発作のように「帰りたい」衝動は襲ってくる。だが、大丈夫だと雪美は海を見て思う。この子がいてくれれば、私はその衝動に打ち勝つことができる。
打っては返す波の音。風が冷たく吹き抜けてゆく。
――さよなら。
幻聴だろうか。そんな声が、かすかに聞こえた気がした。海が、海で生きる者たちが言ったような気がした。雪美の帰りを、待っていた者たち。
「……さよなら。私の故郷、帰る場所。永遠に……」
一滴流れた涙が海風に冷やされていく。それはたった一人の別れの儀式のような夜だった。




