千紗の物語(2)
観月 千紗が先ほど綾芽と華の姿に直前まで気づかなかったのは、考え事をしながら歩いていたからだ。声が高かったのは、驚いたというのももちろんあるが、それ以上に気持ちが高ぶっていたからだ。それは心が浮き立つようなプラスの気分ではなく、焦りや不安といった翳りのあるものだった。
千紗は華たちと別れてすぐに学校を後にした。向かったのは下宿しているアパートではなく、裏手の御蔵山だった。
御蔵山は歩いて登っても山頂まで三十分ほどしかかからない。山というよりは丘というほうがふさわしく、子供でも登れる緩やかな遊歩道が整備されている。地元では遠足の定番であり、常にハイキングを楽しむ老若男女でにぎわっている。ただし、最近世間をにぎわせている失踪事件が起きてからは、その人出も減っている。
千紗はこれまでと比べればずいぶん寂しい人通りの遊歩道をしばらく歩くと、急に脇道にそれた。案内板も何もなく、その先に何があるのかは一般には知られていない。立ち入り禁止とも書かれてはいないが、その道に踏み入るものは千紗以外にはいなかった。脇道はすぐに先細りし、ちょっと歩いただけで道とも言えない細さになる。山頂へ向かうのとは逆に、谷のほうへと下っていく。
最後には草が踏み倒されただけの獣道となった。その先にあったのは、細く流れる川の先が沼地となった場所だ。
千紗はその沼の端に立った。単子葉類の細長く鋭い葉をつけた雑草がびっしりと生い茂る。それらの背の高い草に覆われた、整備などはされていない自然にできたと思われるその沼は、谷底に溜まった泥を抱きこんで黒々とぬめっている。その中央辺りに目を向け、千紗はつぶやく。
「姉さん、迎えに来たよ。一緒に帰ろう」
小声のはずなのに、その声は辺りの空気を震わすような、不思議な響きを持っていた。周りに生える草が風も吹かないのにさらさらと揺れる。そのまま待っていると、静かな、誰もいないはずの沼に、千紗とは別の女の声が同じざわめきを響かせる。
「なぜ迎えになど来た」
しわがれたような声だった。声の主の姿は見えない。ただ沼の表面がかすかに波紋を打つだけである。
普通なら不気味に思える光景。沼地にどこからともなく響いてくる声。そんな状況の中、千紗はただ一つ息をついただけだった。ため息とともに誰にも聞こえないように口の中でやっぱり、とつぶやき、その声を相手に会話を試みる。
「皆待っているわ。私たちが帰るのを」
再び響く千紗の声に、もう一つの声の主はふっと息を漏らした。笑ったのかもしれない。
「そりゃあ、お前は待たれているだろうよ。だが私のことなど、あの者たちは待っていないさ。誰が望むというのだ、こんな汚れ者の帰還を」
姿の見えないまま、会話は続く。
「それは違う」
「何が違う」
「私たちは、同じ母を持つ血を分けた姉妹。一緒に帰るのは母の願いよ」
「嘘をつけ!」
にわかに応える声が大きくなる。沼の周りの空気をとどろかすほどに。
変化は、目の前で突然起きた。沼の面から盛り上がってくる影がある。黒い塊が周りの泥をまとわりつかせて現れる。泥水が流れ落ちると、丸いものの下に二本の長細いものが見えてくる。よくよく見ると、それは二本の腕だった。黒く見えていた塊の正体は髪が絡みついた頭部で、今では体の半分が沼から出ている。泥でぬめって貼りついた髪の分かれたところから片目が覗く。その目は千紗の姿を見定めて鋭く光っている。肩の辺りが上下に動いていて、そのものの感情の高ぶりをあらわにしている。怒りをこめて睨んでくるその異形のものを前にしても、千紗はひるまない。ただ悲しげな顔でその姿を見つめる。
「嘘じゃない。私も姉さんと一緒に帰りたいの」
髪が少しはがれて、口元が見えた。肩頬だけを引きつらせるような皮肉な笑みを浮かべる。
「申し訳ないが、私はもうそんな戯れ言にほだされるような純真は持ち合わせていないよ」
泥はずいぶん流れ落ちたが、その腕は黒ずんでいた。沼の色を映したような、それが生来の肌の色のようだ。嘲笑する黒いものとは対照的に千紗は苦いものを呑みこんでいるように顔をゆがめる。
「でも、ずっとここにいるわけにはいかないでしょう」
相手の返答はないが、千紗はなおも語りかける。
「ここに留まってどうするの?人間たちを引き込んで帰さないのは復讐のつもり?そんなことを続けたって、姉さんの傷は癒えない。今の姿はその何よりの証拠でしょう」
切実に、訴えるように言い募る。まるでそうすればこの状況を変えることができるというように。
異形のものを、千紗は何度も「姉さん」と呼び慣らす。明らかに人ではないその生き物は、しかし確かに千紗と血のつながった姉である。千紗が動じないのは、己も人ではないからだ。
千紗は、ずっと姉を捜していた。母は同じだが父を異にする実の姉妹。帰るのであれば、そのときは姉とともに行こうと決めていた。
御蔵山へやって来たのはひとつの賭けだった。いまや千紗の勤める高校でも口さがなく噂されている失踪事件。その原因に、姉が関わっているかもしれない。なぜなら姉は、人間をひどく憎んでいるはずだから。
姉の父親は人間だったのだ。そのせいで、姉は中途半端な形でこちらへ残された。その怒りのやり場を求めるように、姉は妹に辛く当たる。今度は嘲笑ではなく、激情に任せて鋭く言い放つ。
「今さら連れ帰るくらいなら、こんな所へ産み落とさず、そのまま帰ればよかったのだ。なのに母はそうしなかったじゃないか」
泥の中から大きな魚の尾が現れたと思うと、勢いよく泥をはね上げた。飛び散った泥は千紗の顔や腕に点々とかかるが、されるがままにしている。怒りがおさまらない姉は沼の中でもがくように暴れまわる。ばちゃばちゃと、沼面が汚い音を立てる。その音にかき消されそうなかすれた声で、なおも千紗は語りかける。
「姉さんが海へ生まれる者だという、確信が持てなかったんでしょう。それくらい本当は、姉さんもわかってるんじゃないの?」
姉はにわかに動きを止めて黙り込む。髪の間から覗く目だけでは、その感情の動きを読み取ることはできない。千紗の声には、だんだんと力がこもっていった。
「私だって、母と一緒に暮らしてはいないよ。それは姉さんと同じでしょ。でも、それでも帰りたいと思う。姉さんだって本当は、心の底ではそう思ってるんでしょう?」
いつの間にか溜まっていた涙が頬を伝った。
姉妹には、帰るべき場所がある。それは本来、二人が生まれるはずだった場所。人ではない彼女たちの同族の者が二人の帰りを待っている。静かに、見守りながら。
かすれる声で、最後の力を振り絞るように言う。
「母のことが許せない?でもそれは、帰りたい気持ちの裏返しでしょう」
ここで引くことはできないと千紗は思った。必ず、姉を連れて帰る。本当は本人もそう願っているはずだと知っているからだ。母の本当の顔を知らなくても、そこがどんな場所なのかがわからなくても、狂おしいほどに帰りたいと思う。まるで見えない糸に手繰られるように、心が強く惹かれていく。
千紗は手を差し伸べた。決然と、まっすぐに。
「さぁ、帰ろう。私たちの在るべき、あの海へ」
二人は見つめあったまま、しばらくどちらも動かなかった。あまりにも長く隔たってしまった距離は、そう簡単に埋まるものではない。半分だけ血のつながった姉妹。今は醜く変わり、比べる術もないその容貌にも、似たところがどこかにあるはずの異形の姉妹。
やがて姉のほうが目をそらし、その黒い手を妹へと伸べた。
それ以降、御蔵山での失踪事件はぱたりと止んだ。以前に発生した事件もやがて忘れ去られていった。あれほど噂されていた都市伝説も風化していった。御蔵山は元の賑わいを取り戻した。人々は恐怖を忘れ、再び以前と同じ日々を繰り返す。
時を同じくして、赤嶺高校からは教員、観月 千紗が姿を消した。しかしその行方を捜す者はない。彼女が存在したことは、波にさらわれる砂のように、人々の記憶から消え去った。後には、記録のひとつも残っていない。




