千紗の物語(1)
「ねぇ、ちょっと聞いてる?」
髪を頭の天辺でふわふわとした毬のようにまとめた夏服の少女は、机に手を付いて目の前の男子生徒をにらむ。
「あぁ……」
夏用の白い半袖シャツを適度に崩して着ているその男子は、窓のほうに目を向けたままであからさまな生返事を返す。それはただ話を聞いていないことを明白にするだけだった。隣で聞いていた別の女子生徒が声をかける。
「無駄だって華。このボンヤリ君に話しかけても」
華と呼ばれた少女は不満そうに頬を膨らませる。
部活動に多くの生徒が勤しむ今の時間、教室に残っているのは三人だけだった。夕凪 華と梶 綾芽は窓際の宮間 拓海の机を囲っている。机の主である拓海は目の前の二人が何を話していようとどこ吹く風で、グラウンドの部活の様子を見るともなく見つめている。
華、綾芽、拓海の三人は幼馴染だ。小、中学校が一緒になった学校で、九年間の義務教育を一度も離れずに修了した。本土から離れた小さな島が三人の故郷だ。同年で、同じように育った。そして今、彼らは本土の同じ高校で学んでいる。
「じゃあ綾芽はどう思う?この話」
「まるで私はついでのようだね」
ストレートの髪を後ろに流し、冷ややかな目で華を見る。それでも華がくじけないのは、綾芽のそれがポーズであることを知っているからだ。事実綾芽は今も、表情を戻してちゃんと受け応えをした。
「そうだなぁ。怖い気もするけど、やっぱりリアリティに欠ける」
「でも作り話じゃないんだよ」
華は一つのことにのめりこむタイプだ。興味が一点に集中する。それ自体は悪いことではないが、一旦のめりこむと他のことはおざなりになることと、こうして幼馴染の二人に意見を聞かなければ気が済まないということが周りがこうむる弊害だった。
華が先刻語っていたのは、最近噂になっている失踪事件についてだ。
ここ、赤嶺高校は御蔵山という山を背景にして建てられている。標高はそれほど高くなく、地元の人がハイキングで登るような山だ。最近、その御蔵山へ出かけた人間が行方不明になるという事件が立て続けに起こっている。テレビニュースでの報道は下火になっているが、一部のワイドショーでは世間の興味をあおるように様々な憶測が飛び交っている。しかしそれとは別に、都市伝説としか言いようのない噂が流れているのだ。失踪した人間は御蔵山で亡霊にからめ取られているのだと。行方不明になっているのが男ばかりであるせいか、亡霊は女だとされている。
「作り話じゃないって根拠はどこに?」
綾芽が問うと、華は声を低めて言う。
「その亡霊を見て、帰ってきたって人がいるんだよ。噂の大本はそこから出てるんだって」
「うさんくさいな」
綾芽は話半分で聞いている。華は素直すぎるのだ。
「綾芽のその反応がわかってるから拓海にも言ってんのに。どう思うのよ、この話」
「あぁ……」
ぼうっとしていることに変わりない拓海だった。
「あきらめろ華。話を聞いて欲しければ、拓海が食いつくような話題を持ってくることだな」
「もういい!帰る」
ついに華が切れた。自分の鞄を乱暴に掴むと、振り落とさんばかりの勢いでターンし、どかどかと歩いて教室から出て行ってしまった。綾芽は拓海に一瞥をくれると、仕方なく華の後を追った。
綾芽がすぐに追いつくことができたのは、その長身の半分を脚が占めるというプロポーションのせいではない。大股で歩いているように見える華は、実ははじめから綾芽が追いつけるような速度でしか歩いていないからだ。結局はこれもポーズなのだ。
「かわいくないぞ今のは」
「綾芽に言われたくない」
むくれてはいるが、感情を怒りだけが占めているわけではないということが頬の赤さからも読み取れる。
「拓海と本当に話をしたいなら、私はいないほうがいいんじゃないか?あいつだって私が聞いていると思ってるからあんな態度なのかもしれないし」
「無理だよ、そんなの」
綾芽より十センチは背が低い華がうなだれると、こちらからその表情は見えなくなる。
「私一人で拓海と向き合う勇気なんてないもん」
やれやれと綾芽はため息をついた。自分の気持ちには気づいているのに、それを伝えるまでには至らないのだ。
「あのボンヤリ君のどこが良いのかね」
「綾芽にはわかんないよ」
隣でうなだれる毬のような大きなお団子を仕様のない気分で見ていた目の端に、廊下の先からやってくる人の気配をとらえた。綾芽とほぼ同時に華も前を見た。低い声で華がつぶやく。
「千紗だ」
こちらに向かってくるのは、観月 千紗だった。あちらはあちらで何か考え事をしているのか、相当近くに来るまでこちらに気づかなかった。ようやく顔を上げたとき、千紗と華たちの距離は二メートルもなかった。驚いたのか、千紗の声は高かった。
「あなたたち、まだ校内にいたの」
「今から帰るところですよ、観月センセ」
華は口を閉ざしているので、綾芽がそう応えた。千紗は眉をひそめて注意する。
「寮生活だからといって、あまり帰りが遅くならないようにね。あなたたち部活にも入っていないのだし」
「はぁい」
綾芽が返事をして、その場はそれで終わった。千紗は廊下の奥へと去っていく。隣を見ると、思いのほか険しい顔をした華がいる。口を真一文字に結び、睨むように一点を凝視している。
「いい加減、先生のことを呼び捨てにするのやめたらどう?」
綾芽は口ではそう言っているが、別に華を責めているわけではない。そもそも千紗とは同郷で、お互いによく知った仲だ。教員免許を取った千紗が赤嶺高校に赴任したのは偶然のところが大きい。さすがに担任ではないし、普段顔を合わせることもそう多くはない。だから余計に「先生」という実感がないし、いくら教師と生徒の関係になったといっても、急によそよそしくなれるものでもない。綾芽もそんなことは百も承知している。先の言葉は単に会話の糸口として言ったものだ。すぐに言い返してくるだろうという綾芽の予想に反して、だが華は喋ろうとしない。硬い表情も崩れない。
「どうした、華」
それがまるで何かに耐えているように見えて、綾芽は思わず訊いた。華は唇をほとんど動かさずに、息遣いと変わらぬ調子でつぶやく。
「千紗かもしんない」
「え?」
意外な言葉にも驚いたが、喋ったことで耐えていたものが崩れ、みるみる目を潤ませていくのにも綾芽は動揺した。
「拓海が好きなの、千紗かもしれない」
じっと前を見据えているのはそこまでが限界だった。華は顔を両手で覆う。
「ずるいよ。そんなの勝てるわけないじゃん」
後にはもう嗚咽が漏れるだけだった。
華は今まで、ずっと拓海のことを見ていた。授業中の教室、休み時間の廊下、放課後の帰り道。ずっと見ていたから、気づいてしまった。いつもぼうっとして見える拓海が、唯一その姿を目で追っている人の存在に。決して重ならない視線のわけを、本当はずっと前から知っていた。
隣で泣きじゃくる華の肩を綾芽はそっと抱いた。窓から差す西日の色が濃くなって、その影の暗さをより際立たせているのを、綾芽はあえて無視した。




