来訪者の物語(2)
優悟は島の中を歩いて回った。昨日は慣れない船旅の疲れからあまり出歩けず、ゆっくり見て回るのは今日からということにしていた。ポケットには黒い表紙の真新しい手帳。まっさらな中紙は若者の初々しい気持ちを映し出している。
沖田家を出て昨日着いた船着き場のほうに歩いていくと、途中に漁港がある。島民のほとんどが漁業に勤しんでいるとはいえ、そもそも人口が少ないため港もそう大きなものではない。ちょうど夜明け前から漁に出ていた船が数隻、港へと戻ってきたところに行きあった。将志も漁に出ているはずだが、その姿は見えない。
港には漁協が運営する作業場が併設されていて、獲れた魚はそこで選別され、出荷されていく。本土にそのまま鮮魚として出荷されるものもあれば、干物などに加工されるものもある。ここで選別から漏れた規格外のものが島民たちの食卓に並ぶ。魚の旬があまりない夏が終わり、これからどんどん漁獲量も増えて忙しい時期に入っていく。夏場にだけ観光客が多いというのも、実はこの漁師にとっての閑散期であるということも関係している。この小さな島に観光案内所などなく、臨時便の運営などは漁協が兼任しているのだ。
人々が忙しく立ち回る港を後にして、優悟は島の内陸側へ向かった。島の中心は山になっているため、坂道を登る格好となる。道路はアスファルトで舗装されているものの、砂や海からの潮風のせいで白く乾いた色をしている。最後に張替えられたのがいつなのか疑問に感じるほど色あせて古びているが、そもそも車がほとんど通らないので張替えが必要なほど傷むこともあまりないようだ。
少し行くと役場があり、その奥には小学校と中学校を兼ねた学び舎がある。どちらも意外と新しそうな白い鉄筋コンクリートの建物だった。おそらく耐震工事のため最近建て替えられたのだろう。高台にこれらの施設があるのは、津波などの災害時に避難所として使われるためだ。まだぎりぎり夏休み中であるため、学校は閑散としている。
校門から中へと足を踏み入れて、優悟は立ち止まった。そのグラウンドに、人影があったからだ。夏の終わりとも思えないようなうだる暑さの中、悠然とたった一人で佇んでいる女性。白いワンピースを着てつば広帽をかぶっている。肩を越えるほどに伸びたストレートの黒髪が吹き抜けていく風にさらさらとなびく。その姿は幻と錯覚するほど、強い日差しの中に儚げに見えた。
優悟はその姿に思わず見とれた。後ろ姿だが、そこには凛とした美しさがある。背景の白い校舎を含めてまるで絵画を見ているかのようだ。その非現実とも思える光景に、優悟はまぶしそうに目を細める。
そのとき、ふと優悟の周りの空気がざわめいた気がした。それはいわば、風が強く吹いたときに樹木がざわめくような感覚だ。しかし優悟が立っているのはグラウンドの脇で、傍には樹はおろか、草さえも生えていない。優悟は辺りを見回してみたが、ざわめきの元を捉えることはできなかった。
改めて校舎のほうを見て、優悟は息を呑んだ。先ほどまで背を向けていた女性が、こちらを見つめて立ち尽くしている。顔には驚きの表情を浮かべ、じっとこちらを見ている。我に返った優悟はまるでいたずらが見つかったようなばつの悪さを味わってでぎこちなく会釈する。
「こんにちは」
女性はその様子を黙って見ていたが、やがてその緊張を解いて微笑んだ。
「こんにちは」
だが優悟には、なぜかその微笑がとても悲しげに見えた。
女性は観月 千紗と名のった。この島の生まれで、今年大学を卒業するのだという。今は夏休みで里帰りしているところだった。優悟がこの島の風土を調査研究するために来たことを話すと、千紗はいろいろとこの島のことを話してくれた。
「でも、どうしてここだったんですか」
ふと千紗が訊いた。優悟は照れたように頭をかく。
「いや、偶然のところもあるんですが。知り合いが世話してくれまして。もともとこうした離島に興味があったんです」
「離島にですか」
「えぇ、まあ。ここは本土とはそこまで離れてないので、離島と言うにはちょっと違う気もしますが。でも定期便の数だったり、本土との交流度合だったり、そういった心理的な距離はあるかなぁと……」
そこまで言いかけて、優悟はあわてたように両手を前で振る。
「あ、いや別にここが田舎だとかそういう意味ではなくて……」
言い訳をするような優悟を見て、千紗は思わず声を立てて笑った。笑われた当人は何が起きたのかわからずぽかんとしてしまう。笑いの発作をおさめた千紗は息を整えながら言う。
「ごめんなさい。あなたがそんな風に思っていないことは、口振りでわかります」
優悟は赤面した。何か見透かされている気分だ。
「真面目なんですね」
「あ、いや、その……」
しどろもどろになっている優悟に、千紗はやさしく微笑む。しかし、その笑顔はやはりどこか寂しげだった。心にどこか引っかかるようなその表情に、優悟は思わず魅入られてしまう。
その瞬間、優悟の脳裏をあの言葉がよぎった。
――この島には人魚がいるの。
一瞬、目の前の千紗の姿がかすんだような気がした。そこにいる千紗が本当はいないような、奇妙な感覚。優悟は頭を振った。
「……どうかしましたか」
不審な動きを目にした千紗が首をかしげる。
「あ、いえ何でも。ちょっと虫がいたような気がして」
とっさにごまかしておおげさな身振りをすると、千紗はまたころころと笑った。
今、どうしてあの言葉がよぎったのだろう。正直、千紗との会話に夢中で人魚がどうこうということも頭の隅に追いやられていた。その思考が不意に浮上してくるとは思っていなかった。灯が語っていたこと――人魚が、美しい女性の姿になって、島民の中に紛れている。脳の中で何かが結び付いたのだとしたら、千紗が並外れた美人だということだろうか。
それからしばらく話をして、千紗とは別れた。まだどこかに高揚の余韻が残っている。それからしばらく島のあちこちを歩いてみたが、よほど浮き足立っていたのか何も目に入ってこなかった。
沖田家に戻ってから、優悟は今日見聞きした物事を整理しながら手帳に記した。持ち歩いていたわりに、島内を巡っていた間はメモ程度しか取れなかったので、その余白を埋めるように要点を書き加えていく。ふと思いついて、それとは別に手帳の最後のページに「観月 千紗」の名を記した。それはなんとなく照れくさいことでもあった。
夕食後、庭に面した縁側で夜風に当たりながら、優悟は灯と話をした。生垣の上方に丸い月が浮かんでいる。さすがにこの時間になると気温の変化を感じる。虫の声が夏から秋へ、季節の移り変わりを唄っている。
「灯さんは、来年高校へ行くんですよね」
「一応ね。そのつもり」
「じゃあ今は受験勉強で大変な時期ですね」
そんな時期に邪魔をして申し訳ない、と言うつもりだった。しかし灯はこだわりのない調子で言う。
「そうでもないよ。のんびりやってるし」
「お姉さんと同じ高校へ行くのではないのですか?結構レベルが高いとお聞きしましたが」
「私の学力であそこは無理。寮があればどこでもいいの」
「そうですか」
灯の姉である帆香は本土の有名私立高校に通っている。現在三年生、つまりは受験生で、やはり有名大学への合格を目指しているそうだ。大学生の兄、洋介は法学部生で、司法書士を目指している。家業である漁師は継がないだろうことを将志が淡々と語っていた。もしかしたら、もう島には戻らないかもしれないとも。
言葉を途切れさせた優悟を、灯が覗きこんでくる。
「ねぇ、ずっと気になってたんだけど、何で私にまで敬語なの」
「えっ」
いきなり質問されて、優悟は素っ頓狂な声をあげる。立場上自分が質問することには慣れているのだが、逆にこうして尋ねられることには慣れていない。灯は思ったより真剣な目でこちらを見つめている。思わず頭をかく。
「いやぁ、私は沖田さんご家族にこうしてお世話になってる身ですし」
「お世話してるのはうちの親でしょ」
「同じことですよ。それに……」
優悟は言葉に詰まった。何と言おうか考えていなかったわけではなく、言おうとした言葉を直前で飲み込んだのだ。果たしてそれを口にしていいものか判断しかねたからだ。だが灯は黙って言葉の続きを促す。その目に見つめられると、言わずに通すことは不可能に思えた。優悟はあきらめたように声を落として言った。
「私がこちらへ来た目的からすれば、灯さんにも随分助けてもらってますし」
「ふーん」
「あの、とにかくこれは私の性格なので、その、勘弁していただけませんか」
しどろもどろの優悟の台詞を聞いて、灯は急に吹き出した。愉快そうに笑うのを優悟はぽかんとして見つめる。
「別に私、怒ってるわけじゃないよ。気遣わなくていいのにって思っただけ」
「あ、はぁ、そうでしたか」
「その方がいいなら、そうしたらいいんじゃない」
灯はなおも笑う。その横顔が月明かりと居間から漏れる明かりに照らされて輝いて見える。中学生にしては大人びた、艶のある笑顔。その姿に見とれそうになって、優悟はあわてる。頬に上ってくる熱を感じながらごまかすように別の話題を振った。
「ここは海に囲まれていて、漁業が盛んですね。人が泳げる浜などもあるんですか」
「もちろん。うちの近くにもビーチがあるよ。夏のお客さんはほとんどビーチが目当てでしょ」
「灯さんも夏場は行かれたりするんですか」
「ううん。行かない」
灯の応答はそっけなかった。観光客でいっぱいの海では地元の人間は楽しめないのかもしれないと思った。だが、灯は思ってもみなかったことを言った。
「私、泳げないから」
「え?」
驚いて灯を見た。灯は華奢ではあるが、運動を不得意とするようには見えない。肌は適度に灼けていて、細身ではあるものの身体の線は締まっており、年相応の筋肉をつけていることがわかる。訝る優悟を見返して灯は不機嫌そうな顔をする。
「皆そんな反応なんだよね。島に生まれたからって、誰も彼も泳ぎが得意なわけないじゃん」
「あ、いや、その、すみません」
それきり、灯は口をつぐんでしまった。その反応から鑑みるに、おそらく以前にも同じようなことがあったのだろう。優悟もどこかで決め付けていたところがあった。それは本人にしてみれば腹立たしいことだろう。先ほど「怒ってない」といわれて安心したところなのに、自分のうかつな発言で灯の機嫌を損ねてしまったと思うとひどく気まずい。怒ったような顔の灯の隣で、優悟は冷や汗をかくばかりだった。
しかし翌朝には灯の機嫌は元に戻っていた。さっぱりとした性格で引きずらないのが灯のいいところだった。




