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灯の物語(3)

  お願い拓海。私から意識を離して。

  約束どおり、全部海の底へ持っていくから。

  もうもたない。引き出せなくなる。

  糸が―――――切れた。



「なぜ、灯さんが引かれたとわかったのですか?誘拐や事故を疑うことはなかったのですか」

 優悟はかすれた声で訊く。将志の話をどう捉えたらいいのか判断しかねていた。将志はやはり淡々と、感情のこもらない声で応える。

「妻が言ったのです。引かれてしまうと。あの子は聞く者だからと」

「では奥さんは、どうしてそう断言できたんでしょう。引かれる時期は決まっているのでしょうか」

「それは――」

 将志がことばを濁すのと入れ替わりに、戸口に現れた雪美が後の言葉を継いだ。

「それは、私自身が聞く者だったからです」

 雪美は目を真っ赤に腫らしていた。先ほどまでとは打って変わって、一気にやつれたように見える。

 沖田家にとってこれが辛い出来事であったことは、将志の話しぶりからわかっていた。話をさせることで、その傷口に塩を塗っていることもわかっていた。残酷な自分に今さら気づいても、もはや後戻りはできない。

 小さくつぶやくような声とともに、雪美が優悟を招いた。

「こちらへ来てください」

 雪美が先に立って入ったのは仏間だった。奥に仏壇が設えられ、活けたばかりとみえる花が彩りを添えている。その前に雪美が座るので、優悟はその後ろにならう。雪美は立ち膝になって手を伸ばし、置かれていた白いものを手に取ると、優悟に向き直った。

 その手に乗っていたのは、白い二枚貝だった。中に何か入っているらしく、雪美が動くたびにカラカラと音を立てる。

「これは、形見貝と呼んでいるものです」

 上の貝殻をよけて中を見せた。そこには女性もののアクセサリーがいくつかと、腕時計が入っていた。

「ここに入っているのは、灯が使っていた物です。これは、灯の骨壷の代わりになるものなんです」

 優悟はかける言葉が見つからなかった。その貝の中に納められた品々をただじっと見つめる。心の奥底に冷たく重い何かが溜まっていくように思えた。それは目の前の雪美と共有できない悲しみが、行き場を失って内側に溜まっていくようだった。雪美は手元に目を落とし、悲しみにのまれたように、先ほどまで流していたであろう涙をまた流した。泣きながら、雪美は語る。

「聞く者は、海へ帰るときに人々の記憶を道連れにします。風上さんに灯の記憶がないのはそのためです。皆、引かれた者がこちらで暮らしていたことを忘れてしまう。私たちのような、聞く者を家族に持った人間を除いて。

 引かれた者は海で生き続けますが、二度と会うことはできません。もちろん、墓に骨を納めることもかないません。だから残された家族は骨壷の代わりに、これに形見の物を入れて納めるんです」

「あなたは」

 優悟の声に雪美は顔を上げた。ずっとその手元を見ていた優悟もまた顔を上げて雪美を見る。

「帰らなかったのですね、海へ」

 優悟の指摘に、雪美の頬に赤みがさした気がした。

「私は、声を聞くのが少し遅かったというだけです。海の声を聞いたときには、お腹に洋介がいました」

 ようやく少しだけ雪美が笑った。昔を思い出して、懐かしんでいるようだった。

「私が聞く者だからといって、お腹の子もそうとは限らないのです。人の子ならば私が帰ってもその子は海では生きられません。地上で生まれる聞く者は女の子だけですから、洋介がそうでないことは、割にすぐわかりました」

 だから雪美は覚悟を決めたのだ。子供とともに生きる未来と引き換えに、永遠に帰る場所を失う覚悟を。

 涙の跡をぬぐって、雪美は人好きのする笑顔を優悟に向けた。話したことで気を持ち直したようだ。

「風上さん、島で生きるというのであれば、よかったらしばらくうちで暮らしませんか。洋介の部屋はまだそのまま使えますよ」

 そう、次は自分の身の振り方を考えなければならない。島の秘密を知った以上後に引き返すことはできないが、先のことなどまるで考えていなかった。優悟は遠慮がちに言う。

「さすがにそこまでお世話になるわけには……」

「でも、身を寄せる当てはないのではありませんか。私たちにとって、困ったときは助け合うのが常ですから。灯の話を聞いていただいたのだし、私たちは歓迎しますよ」

 優悟は雪美の芯の強さを思い知った。辛いことを思い出させてしまった自分を、快く受け入れてくれる。頭の下がる思いだった。雪美の言うとおり他に当てはなく、その申し出はありがたかった。

 その晩、将志の晩酌に付き合った優悟はぽつりと言った。

「もしも、もう少し早く出会っていれば……あるいは、引き止められたのでしょうか」

「灯を、ですか」

 小さくうなずく。優悟が覚えていなくても、灯と親しくしていたことを沖田夫妻は覚えていた。将志は冷酒を一息に干すと、己の意見を述べた。

「それがあの子の幸せかどうか。それは我々には計り知れんのです」

 優悟は、今もかいがいしく立ち働く雪美の背中に目をやった。雪美も灯と同じ聞く者だという。海へ帰らない選択をした彼女は、幸せそうに見える。灯もそんな風に生きることができたのではないか。

 酔いが回ってきた頭で考えながら、優悟は訊いた。

「そもそもなぜ、人魚の子が人の間に生まれるのでしょう」

「さぁ、どうしてでしょうね。我々に伝わる言い伝えのようなものもありますが」

 優悟が聞く態勢なので、将志は注がれた酒を再び飲み干す。

「人魚と人が契約を交わしたというものです。その昔、好奇の目にさらされていた人魚たちは、漁師たちによって捕らえられ、密かに売買されていたようです。人魚の肉を食べると不老不死になれるというような迷信もありましたから。

 このままでは種が滅びてしまうと危惧した人魚たちは、海の底へ漁船を何隻も引きずりこんでそれをやめさせようとした。漁師たちは恐怖し、許しを請うた。その際二度とこういうことが起こらぬよう交わされたのが、人魚の子を人が育てるという契約だった。なぜそんなことをするかわかりますか」

 興が乗ってきたのか、将志が尋ねてきた。優悟が首を横に振ると、満足そうに再び喋りだす。

「情を引きこむためです。己の家族かもしれないと思えば、人魚をむげにすることはできないでしょう。だから聞く者は海へ帰り、家族だけはそのことを忘れんのです」

 将志はさらに酒をあおる。もう既に顔が赤いので優悟は心配したが、本人はお構いなしだ。

「まぁ、そんな話も残っているという程度のことです。何も確かなことはない。今は穏やかなこの辺の海も、時には結構荒れますから」

 ろれつが怪しくなって、目がとろんとしてきた。まだまだ上機嫌で海のことを喋っていたが、明らかに飲み過ぎだった。どうやらいつもより酒が進んでしまったようである。

 舟をこぎだした夫に雪美がタオルケットをかけてやる。

「この人、風上さんを実の息子みたいに思ってるんだわ。一緒にお酒を飲めるのが嬉しいんですよ。洋介はなかなか家に寄り付かないから」

 そのやさしい笑みを見て、優悟はまぶたの奥が熱くなるのを感じた。あっという間に涙が溜まり、溢れた。その様子を不思議そうに見ていた雪美に、その時の感情をうまく伝えることはできなかった。それは嬉しさのようであり、悲しみのようであり、その形を様々に変えていくような、とらえどころのないものだった。


 砂浜には、先客がいた。いつも灯が座っていた辺りに、こちらに背を向けて座っている。拓海はその人影に近づいていった。

「灯は聞く者だったんですね」

 後ろからいきなり声をかけられても、将志は動じなかった。振り返りもせず、海を見つめ続ける。その姿に、いつかの灯の面影が重なる。

「君は灯を覚えてるのか」

 それは問いかけではなく、確認だった。灯の名前を出した時点で、記憶にあることは明らかだった。拓海が何も応えないうちに将志は告げた。

「忘れなさい」

 有無を言わせない、きっぱりとした声だった。将志がそんな風に声を発するのを、今までには聞いたことがなかった。黙っている拓海に将志はさらに続ける。

「覚えているのは家族の役目だ。君は宮間の跡継ぎなのだから、過去にとらわれてはいけない」

 宮間家と沖田家は古くから親交があった。将志は拓海をよく知っているし、拓海もまたそうだった。もちろん、島民すべてが顔見知りという土地柄でもあるのだが、拓海の父と将志が同年で、幼い頃から馴染みだったこともある。その頃から家族ぐるみの付き合いがあった。拓海と灯が同年だったことも、両家をより近いものにした。

 ずっと黙っていた拓海がようやく口を開いた。

「おれは、灯の家族になるつもりでした」

 実際、それを疑うことはなかった。まだ中学生だったが、いつか二人は結婚し、灯を宮間の妻として迎えるのだろうと思っていた。灯にしても、自分が聞く者とわかるまではそう思っていたはずだ。それはずっと昔からの約束事のように、二人の意識に自然と根付いた思いだった。

 灯を忘れたくなかった。たとえその記憶に苦しむ日が来るのだとしても。

「灯という名前は、俺がつけた。海を照らす灯台の灯だ。いつか漁師の妻となり、帰る場所を示す導きの灯になるようにと願った」 

 将志は誰にともなく語った。そしてにわかに立ち上がると、後ろに立っていた拓海の顔を一瞬だけ見て、その肩を二度ほどたたくと、砂浜を後にした。あとにはただ静かな海が輪唱のような波音を聴かせるだけだった。


 翌日、優悟は一度本土に戻ることになった。こちらで暮らすにしても、整理しなければならない事柄は山ほどある。島民になるといっても監禁されるわけではないので、掟さえ守っていれば島外に出ることもある程度自由がきく。だからといって、優悟がこれからも研究職を続けることは難しいだろう。在籍する大学にほとんど行けないのであれば、新人の研究者にはとても務まらない。だが悪いことばかりでもない。引越しのための荷造りはほとんど済ませてある。それをそのまま島へ運ぶよう手配すればいい。仮契約していた不動産屋には断りの連絡を入れなければならない。大学に在籍を辞退すると伝えに行くのはさすがに気が重い。だがもう選んでしまった道だ。

 帰路につく前に、灯が使っていた部屋を見せてもらった。見事に何もなかった。机も、タンスも、本棚も、置かれていた形跡は畳に見て取れるのに、そのことごとくが運び出されて何も残っていない。灯が一体どんな少女だったのか、その殺風景な部屋からは何も読み取ることができない。灯が写っている写真さえも残っていない。海へ帰ってしまった者の面影がわかるようなものは、あの形見貝に残すもの以外は、使っていた家具などと一緒に燃やしてしまうのだそうだ。

 人々の記憶から消え、島で生きた形跡もそのほとんどを消し去り、海へと帰っていく人魚たち。島民たちが秘匿しなければ滅んでいたかもしれない種族。

 優悟は肌身離さず持っていたあの手帳の最後のページを見た。灯と並んで書かれている名前の女性も、おそらくは人魚だったのだろう。優悟の記憶にないのだから、こちらの言葉で言えば、海に引かれたということだろう。それらの文字が、気のせいか少しずつかすれているように見える。まるでその記録さえも消え去ろうとしているようだった。

 船に乗り込むと、あの日と同じように甲板に出て港のほうを見た。あの日と違って沖田夫妻は見送りには来ていない。誰もいないはずのその場所に、優悟は一瞬幻を見たような気がした。こちらを見上げる、憂い顔の少女。長い髪を風になびかせ、その影は少しだけ笑ったように見えた。


「ねぇ、確認テストの勉強した?」

 二学期の始業式が終わった教室に、華の明るい声が響く。目の前の席にはやはり拓海が座っている。相変わらずぼんやりしている拓海の気を引こうと必死な華を見かねて、綾芽も二人のそばへ行く。

「そりゃあ拓海はしてるだろうよ。華は大丈夫なの?」

「大丈夫だったら勉強した?なんて訊かないって」

「あんたねぇ……」

 綾芽は頭痛を覚えた。今では華が一緒に赤嶺高校に合格したことが奇跡のように思える。

 夏休みが終わって、三人の関係は元に戻ったように見えた。終業式の日、拓海が語ったことはいまだ華と綾芽の心の中にあったが、いつまでも気にしているわけにもいかないという結論に至っていた。どんなにあがいても沖田 灯の記憶は華たちにはないのだ。写真の一枚も残っていないのだから、拓海の思いを共有することは不可能だった。あの島で育った者としては、慣れたことでもある。

 「聞く者」に関する話は、島の子供は子守唄代わりに聴いて育つ。そういう者がいることも、忘れてしまうことも島では日常なのだ。もちろん、家族に海へ帰った聞く者をもつ島民だって少なくない。日常であることにいちいち悲しんでいることはできない。それを割り切ることも島に生まれたさだめと言える。帰ってしまった者をいまだに覚えている拓海のほうが特殊なのだ。

「華」

 女同士であれやこれやと言っていた最中だった。いきなり拓海が華の名を呼ぶ。

「何」

「お前、その髪型やめろよ」

「はぁ?何で」

 言い返しながらも嬉しそうに頬を染める華を、拓海は無表情に近い顔でじっと見つめる。そしてふいに華の頭の前方、前髪の辺りを手でわしゃわしゃと乱した。

「ってできないだろ」

 いきなりされたことにびっくりして目を閉じた華は、次の瞬間には顔を真っ赤にして抗議した。

「何それ、マジで意味わかんないんだけど」

 その勢いのままお返しといわんばかりに頭に襲いかかってくるのを、拓海は余裕の態度でかわし続ける。その様子を綾芽はただ微笑ましく見守った。

 「意味わかんない」とまで言った割には、華は週明けには髪を切って登校してきた。ボブにして髪を下ろした姿は、綾芽でさえも久しぶりに見るものだった。わざわざちょっかいを出されに拓海の元へ駆けていく華を見やって、綾芽はやれやれとため息をつく。しかしそれと同時に綾芽は予感していた。この二人はきっともう大丈夫だ。

 新学期を機に始まろうとしている三人の新たな関係を、綾芽は少しだけ涼しくなった風を浴びながら秘かに思った。

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