来訪者の物語(1)
いいところでしょう?都会から来た人たちは皆言う。
海はずっと遠くまで見えるし、自然が溢れているし、人も皆穏やか。
どこか神秘的な感じがするでしょう。
ねぇ、ここだけの話、聞きたくない?
実はね……この島には人魚がいるの。
海じゃなくて、この島に。
人魚って、どうして美しいか知ってる?
それはね、この美しい海で生まれるから。
島ではね、美しい女の人は実は人魚だって言われてるの。
ためしに美人を見かけたら、声をかけてみるといいよ。
きっと人魚だから。
からかってる?そうかもね。
確かにいきなり話しかけたりしたら引かれちゃうかも。
それだけ美人に見えたってことだから、悪い気はしないと思うけど。
でもね、じゃあ
沼に生まれた人魚は、どうなると思う?
夜の帳は、ここでは幾千の輝きを放つビロードでできているようだ。波の音は穏やかで、海は夏の夜の匂いを湛えている。こちら側の海岸には港はなく、灯台の光も届かないためただ暗いばかりだ。新月なのか、月明かりさえもない。
誰もいないはずの海岸に、一人の女が立っている。長い髪を夜風になびかせ、たった一人で海と向き合う。
風が少し強くなってきた。ざわざわと草木が揺れるような音がする。しかし周りに揺れるほどの草木は生えていない。耳をそばだててみると、そのざわめきは人のささやき声のように聞こえてくる。
――……おいで……。
――おいでよ……帰っておいで。
――帰ろう。……さぁ早く。
ざわめきは時に重なり合って強く、そしてまた弱くなって風とともに通り過ぎていく。そして、それに呼応するように女が口を開いた。
「だめ……まだ帰れない」
――どうして。
――……帰りたくないの?
――早く帰ったほうがいいよ……。
――でないと帰れなくなっちゃうよ。
風はまるでその場を巡るように吹き、ざわめきが迷いを帯びたように乱れ始める。
「まだ、だめ。願いを叶えなきゃ」
その声は悲しげに響く。風のざわめきも女を慰めるようにやさしく吹き抜けていく。
――早く……帰ってきてね。
――待ってるから……きっとね。
――……きっとね。早くね……。
ざわめきは遠ざかり、風とともに消えていった。女はしばらく立ち尽くしていたが、やがてきびすを返して海岸を去った。
本土の一番近いところから直線距離で四十キロほど離れた海上に、その島はあった。火山の噴火によってできた島で、中央は深い森に覆われた標高六百メートルほどの山になっている。平地はほとんどなく、人が住んでいるのは海沿いのわずかな場所だ。小学校と中学校が一緒になった小さな学び舎がひとつ。役場がひとつ。公的機関といえばそれくらいで、あとは島の主要産業を取り仕切る漁協と個人で開業している診療所がある。島民のほとんどは漁業で生計を立てている。人口四百人弱。世帯数で言えば二百に届かない程度。とてつもなく田舎ではあるが、夏場にはその美しい砂浜を目当てに観光客も少なからずやって来る。とは言っても、にぎわうのは夏のトップシーズンくらいで、その一時を除けば島民が穏やかに暮らす静かな島だ。
そんな島に今、季節はずれの客人が訪れている。風上 優悟というその青年は、晩夏を迎えたこの島へ、週に二回しか出ていない定期便の船に乗ってやって来た。レジャー客向けの臨時便はもう既に営業を終了している。民宿すらないこの島へ、知り合いのつてを頼って泊めてもらえる家を探した。
その家――沖田家には中学三年になる娘がいた。名はあかりという。灯台の灯という字を書く。この家の末っ子で、上に兄と姉が一人ずついるのだが、兄は大学、姉は高校に行くために島を出ている。夏休み中姉は帰ってきていたそうだが、優悟が来たときには学生寮に戻ってしまっていた。よって今この家にいる子供は灯一人だった。
灯は中学生にしてはずいぶんませた娘だった。末っ子で兄や姉を見て育った影響もあるのだろうが、それだけでは説明が付かないような、妙に大人びたところがある。
この島には人魚がいる。そんな話を優悟に聞かせたのも灯だった。
夜も更け、灯が寝てしまってから、優悟は沖田夫妻から晩酌のもてなしを受けた。
沖田家は古い造りの家屋だった。玄関から土間続きに台所があり、食卓は小上がりに置かれている。昔は畳にちゃぶ台が置かれていたそうだが、今はビニール床にテーブルセットという形だ。当時使っていたちゃぶ台は居間で現役で使われている。
夕飯にも新鮮で豪華な魚料理が並んだが、酒肴にもそれに勝るような逸品が次々と出てくる。島の漁師の家では――つまりは大半の島民の家では――獲れた魚を自家製で干物や練り物に加工することが多い。生のままでは食べきれないし、冷凍するにも限度があるので、自然にそういう文化が根付いているのだ。加工は主に女性の仕事で、一夜干しや煮物の中のつみれもこの沖田夫人のお手製ということだった。優悟も東京では居酒屋に行くことがあったが、どんなにアットホームを売りにしているお店でもこの味は出せないだろうと思った。普段付き合い以外で晩酌などしない優悟も酒が進む。
「それにしても、お嬢さんはずいぶん大人っぽいですね」
饒舌になって、ついそんな言葉が口をついて出た。沖田夫妻は顔を見合わて苦笑する。
「ませているだけですよ。お兄ちゃんやお姉ちゃんのすることをすぐ真似するし」
妻の雪美が謙遜するように言う。夫である将志は黙っているが、不機嫌からそうしているのではなく、ただ口数が少ないのだ。将志も同じように酒が入っているし、赤ら顔は穏やかで人の好さが知れるというものだ。優悟はだいぶ酔いが回っているせいか気が大きくなり、上機嫌で言葉を継ぐ。
「いいお嬢さんですよ。じきにもっと綺麗になるでしょうね。父親の身としては心配ですか」
優悟があえて水を向けると、将志は小声で応える。
「別にそんなことはないですよ。いつかは手を離れていくもんだと思ってますから」
酔った夫を気遣いながら、雪美も笑って言う。
「こちらには高校すらないですからね。そんなこと言ってたら子育てなんてとても」
「いやぁ、ご立派なものだと思いますよ。なかなかそう割り切れるものでもないでしょうに」
ともに酒を酌み交わす将志のつぶやくような声。かいがいしく世話をしてまわる雪美の穏やかな明るい声。優悟は楽しい気分で談笑する。
その和やかな空気が、たった一言で急変する。
「お嬢さんがしてくれた人魚の話も、とても興味深いですね」
一瞬、夫妻の顔から色が消えた。
「……どうかしましたか」
酔っているとはいえ、その変化には優悟も気づいた。その問いに口を開いたのは将志のほうだった。
「いや、どうもしません。娘が客人に妙なことを言って困らせたかと」
「いえいえ、困るなんてことは」
「風上さんはこちらの風土に興味があるのですか」
将志が水を向けると、優悟は饒舌に語った。
「もともと大学では本土の地方の集落での暮らしがどう営まれているのか、その現状をフィールドワークを主として研究してたんです。研究室がそういう方向性だったので。でも私は離島のほうに興味があって。夏の盛りは観光客が多いと聞いていたので、その時期ではない普段の生活状況を実体験を踏まえながら――」
話しているうちに、先ほど感じた妙な空気のことも頭から消えてしまった。将志と雪美も楽しそうに相槌を打つ。
そのまま夜は深まっていった。優悟はふわりとした酔い心地に包まれて眠りについた。
翌朝、優悟は携帯のアラームで目を覚ました。二階奥の、六畳ほどの和室。そこがこの滞在の間、優悟にあてがわれた部屋だ。窓際には古びた机と椅子が置かれている。ここは現在大学へ行っている沖田夫妻の息子が使っていた部屋だ。机と椅子は将志も使っていた代物で、木製の机はどこか明治モダンを匂わせる雰囲気がある。部屋は綺麗に片付けられていて、部屋の主が暮らした跡はあまり感じられない。まるで民宿に泊まっているかのようなその空間に、相当気を遣わせてしまったのだと申し訳なく思った。淡い水色のカーテンを開けると、庭に植えられた松の間から朝日が漏れ入ってくる。沖田家の庭は広くはないものの、生垣の一部に椿が植えられていたり、庭石なども置かれていてなかなか趣がある。水が貴重という島の事情から池までは作れなかったと昨夜雪美が語っていた。この庭は、雪美が嫁いだときに本土から庭師を呼んでしつらえてもらったのだという。事情はわからないが、夫妻は結婚式を挙げていないそうで、それに代えるお祝いだったそうだ。そんなこだわりの庭を、朝の白い日差しがまぶしく照らし出す。午前七時。夏の盛りは過ぎているとはいえ、この時間には日はずいぶん高くなっている。
階段を下りていこうとしたとき、優悟は下から話し声が聞こえることに気づいた。耳を傾けてみると、低く話す女性の声、そして一段高い少女の声。雪美と灯が何やら声を潜めて話し合っている。思わず息を呑んで聞き耳を立てたのは、そこに穏やかならぬ雰囲気を感じ取ったからだ。
「いたいっ!」
びくっと優悟は身をすくませた。それは灯の声だった。優悟は足音を忍ばせて階段を下りながら耳をそばだてた。
「あんたは!――のことは話しちゃだめって何度言ったらわかるの」
雪美の声はくぐもってよく聞き取れないところがあった。
「言ってないって」
「嘘おっしゃい!じゃあどうして風上さんが知ってるの」
急に自分の名前が出てきたので、優悟は血の気が引く思いがした。この不穏な状況に、己が関わっているということだ。
「知らないよ」
「風上さんはあんたが喋ったって言ってるのよ」
「そんなこと――」
会話は急にスイッチを切ったように途切れた。優悟が姿を見せたからだ。何かまずいところを見られたように、雪美はばつが悪そうに、灯は気を呑まれてぽかんと優悟を見る。
「……おはようございます」
恐る恐る軽く頭を下げる。
「あら、お早いのね。ちょっと待っててください。今朝の準備しますから」
「あ、いや、急かすようなつもりでは」
「いいんですよ。灯、手伝いなさい」
背を向けてしまった雪美に呼ばれ、その後に続こうとした灯が顔だけで振り返って優悟を見た。優悟は顔をゆがめて胸の前で小さく手を合わせて謝った。灯は小さく笑っただけだった。
朝食を済ませると、優悟は調査のため外出した。外はよく晴れていて、もう秋が近いはずだというのに、空には立派な入道雲が浮かんでいる。蝉の声はさすがに衰えを見せているが、それでも夏の残滓を叫ぶような鳴き声が森の中から響いてくる。
優悟は、後悔していた。灯は自分が発したあの一言のせいで叱られていたのだろう。あの時――人魚という言葉を発したとき、夫妻の空気が変わった意味がやっとわかった。先ほど雪美が言っていた言葉をちゃんと聞き取れなかったが、おそらく「人魚のことは話しちゃだめ」と言っていたのだろう。あの話の流れではそれ以外に考えようがない。どうやらこの島では、人魚に関することは禁忌になっているようだ。理由まではわからないが。
――この島には人魚がいるの。
灯の一言が耳によみがえってくる。その言葉を発したときの、灯の挑むような笑顔も。
本来、それは都市伝説とか怪談と同じように片付けられても不思議ではないものだ。そもそも優悟がこの話に興味を持ったのも、民話か何か口承で伝えられているものがあるのかもしれないと思ったからだ。もしそうなら、今回の調査とも無関係ではない。人魚に関する民話というのは沖縄の離島などにも一部伝えられているし、童話にも取り入れられている。あくまで文化への興味であり、本当に人魚がいると思ったわけではない。
それなのに、あの雪美の過剰に思える叱責は何だったのか。会って間もない印象ではあるが、雪美はそんな風に娘を叱ることを常としているような人間には見えない。普通なら大人が真剣に取り合わないようなことが、雪美にあのような態度を取らせた理由。戯言と流すことのできない理由が何かあるのだ。
もしかしたらこの島には、灯が言うとおり、本当に人魚がいるのかもしれない。




