14.5:「足跡」
幸せとは何なのだろうか。どんな家族で、どんな家にすんでいて、どんな食べ物を食べて、どんな風に生きているのか。いや、この問いは意味をなさないのだろう。なぜなら幸せという概念自体が人それぞれであり、他人の幸せが自分の幸せになるとは必ずしも言えないからだ……。
蜃気楼にも似た理想が、灼熱の太陽の中、消えていった。いつまでも途切れることのない夏の音……蝉の鳴き声に街の雑踏、クラクション、……そういった雑音が強い風とともに舞い上がり、街を覆い隠す。
進まない原稿の前に、私は脂汗を滲ませながら、続きを、続きを……書けないでいた。
熱せられたアスファルトの上に現れる陽炎のように、ぼやけ、淀み、煙る意識に重なったのは、灰皿にのせた煙草の煙に目を奪われた時だった。
幸せな人は過ぎ去る日々に何を思い、どう生きているのだろうか。
そんな、意識しなければすぐ立ち消えてしまうような微かな疑問の中から、もう一つの不毛な問いを自らに投げ掛けていたのだ。いわく、私は幸せなのか。あるいは、幸せではないのか、と。
原稿が締め切りに間に合い、何からも縛られないたまにの日曜日。本当に久しぶりに神保町に古本でも探しに行こうとした矢先、妻が外出用の上着を羽織っているところを目ざとく見つけ、出かけるなら子供を一緒に連れて行ってください、と言ってきた。妻の頼みなら仕方がない。壁にかけていたお気に入りの中折帽子をかぶりながら、2人に行くか? と、聞いていた。
澪の兄は、嫌がっていた。前に連れて行った時、退屈そうにしていたから当然だろう。同じ反応をするであろう澪を見ると、私をじっと見た澪は、別に行ってもいいけど、とつぶやくように返してきた。反抗期が来た娘は、それでも私からは離れてはいかなかった。
家を出て行くとき、閉まるドアの向こうで、お母さんに、何か手伝おうかという澪の兄の声が聞こえたような気がした。
私の問いは、何度も何度も繰り返した。いわく、私は幸せなのか。あるいは、幸せではないのか、と。
先を歩く澪が駐車場に向かっていたので、呼び止めた。
「神保町には、車は使わないよ」
立ち止まった澪は、何も言わなかったが、後一歩だった車から向き直ると唇を尖らせていた。
改札を通るとき、歩くなら歩くって言ってくれればいいのに、と、澪の言葉をこぼす声が聞こえたので、私が何か言ったか、と聞くと、澪は丁寧語で返してくる。
「何も言っていません」
どうやら、拗ねているようだ。私は、しばらくそっとしておくことに決めた。
「何読んでるの?」2度目の回送電車が通り過ぎた後に、澪が隣に立った。
「短編集」
ふーんと鼻で言った澪は続ける。
「それ、面白いの?」
私は答えに迷いながら、そこそこには、と当たり障りなく返していた。
「また、大学の時の知り合いの人のとか?」
澪は、私の開く文字の海に目を落としながら言葉も落とす。
「この前、話していた人たちみたいに」
「ああ、そうだよ」
「そう」澪は、顔を上げホームに滑り込んできた電車を見た。
「お父さんの知り合いって、変な人ばっかだね」
「まあね」私は本をしまいながら答えていた。
「まったくだ」自分自身も、その中の人間なのだから。
走る電車の窓から覗いた景色には、綺麗な青空が広がっていた。雲ひとつなく、晴れ晴れとしていて、お世辞を使わなくてもすむだけの清々しさがあった。その下の景色を見て、私は失笑する。乱立した高層ビルが空に切り込みを入れ、視界に入る景色の半分を鉄筋コンクリートの老朽化した建物が埋め尽くしていた。その街の景色は活気を失い、目に付く建物は既に朽ち果て、いずれ訪れるであろう死に向かって、ただその時を待っているようだった。
その街に暮らす私たちは、時間という風にもてあそばれ、運ばれ、吹き溜まりのような日の光の当たらないところに集まっていく。人は小さな砂埃のようものなのだ。高いところと低いところがあれば、低きに流れる。大きな流れの前では、なんと無力なものだろう。自分たちで作った世の中にすら、あらがえず、翻弄される様を見る限り、私たちは一見自由であると錯覚しているだけであって、実際は違うのかもしれない。動物園の檻の中で守られ暮らす動物と、檻の外で常に命を狙われる動物、私たちは、そのどちらなのだろうか。また、どちらの方が、幸せなのだろうか。
乗っていた電車は、気がつくと地下を走り始めていた。
人はまばらで、少し間を空けて座っていた澪と私は、向かいの座席の上に広がるガラスに並んで映っていた。
私は隣に座る澪を見て、自分にもこんな時期があったのかと、まだあどけない顔を見て思いを巡らせた。
夢に見ていた大人に、気がついたらなっていた。あまりにも、夢からかけはなれた大人に。
「どうして、お父さんはお母さんと結婚したの?」
ある日、澪が唐突に聞いてきた。私は、少し戸惑い、お母さんがどうしてもっていうから、しょうがなくだな、と、言い訳をするように慌てて返すと、澪は、クスッと小さく笑ったので、その反応が気になった私は、聞き返していた。
「どうしたんだ? 何かおかしなこと言ったか?」
澪は満面の笑みで私を見上げると、私に向かって指をさした。
「それ、お母さんも同じこと言ってる。」そして、澪はあははと笑った。
私は帰ってきてから取っていなかった帽子をかぶりなおして、気まずそうに笑うと、澪は笑いすぎたのか涙をぬぐいながら、いいよ、そういうことにしといてあげる、と、私に言った。
澪は、こういうところが妻に似ていた。
「あーあ。早く大人になりたいなぁ。」
ガラス越しに澪と目が合う。一瞬の無言。短く息を吸い込む音。短い静寂を切り裂いたのは、澪の言葉だった。
「お父さんと私って、似てないね」
息を呑み込んだ。動揺しそうになる感情を抑えながら、必死に冷静さを装い、口を開いた。
「……その変わり、お母さんに似ているよ。」
私の言葉を聞いた澪が小さく笑った。
「そっか、……良かった。」視線を落としながら呟いた澪が私の顔を見ることはなかった。
私は幸せなのか。あるいは、幸せではないのか。私は、まだ決めあぐねている。ただ、大切なもののために生きる、それだけで、今は良いように思えていた。いつか訪れるであろう、最後の時まで答えは見つからなそうな問いなのだから。となりにあるかけがえのないものを守れれば、それだけでいいのだ。
私が、顔を上げると、ガラス越しに澪と目が合う。澪も気が付いたのか、ふんっとそっぽを向いた。
反抗期の娘を、私はほほえましく見守っていた。