1話 萩野一鶴と萩野一鶴
萩野一鶴は優等生だった。
品行方正、頭脳明晰、質実剛健。
勉強させれば、上位にその名を轟かせ、スポーツさせれば、ギャラリーの歓声が轟く。
しかしそれは、あくまでも中学生までの話。
萩野一鶴は優等生だった。その事実は、過去形でしか語れない。
高校受験を控えた中学3年の夏、受験勉強の息抜きに彼は手にとってしまう。
当時、日本中のゲーマー達が虜になった天地創造SRPG、『神の創造世界』を。
自らゲーム内に異世界を創造するだけでなく、ストーリー展開やモンスター、NPCは疎か魔王まで、1から10まで何から何まで自分の思い通りになる「箱庭」にプレイヤー達は昼夜問わず没頭していた。
そして、このゲームの一番の売りは、自ら創造した世界の主人公となり冒険できるという所だ。自ら設定した敵を倒し、自ら隠した伝説の剣を探し、自ら生み出したヒロインを救う。
販売当初のキャッチコピーは「理想と夢のヒーローを作り出す世界」。
オンラインで他人の作った「箱庭」を冒険する事もできたが、プレイヤーはみんな自分の理想の世界とストーリーとを作り遊ぶのに夢中だった。
萩野一鶴もご多分に漏れず、自分の理想と夢が手軽に叶う自分だけの「世界」に没頭していった。
鉄血と魔法の国『エルドゥグア』。
彼はそこの創造主にして勇者になった。
そして気づけば彼は、高校受験に失敗していた。
それもそのはず、「創造世界」を初めてからの彼の毎日は、新しいNPCと武器の創造の繰り返しで受験勉強は疎か、睡眠時間すら削るいわば廃人に成り果てていたのだから。
萩野一鶴は愕然とした。
自らの人生に於いて、重要なイベントである筈の高校受験を、たかがゲームによって棒を振るなんて。
そこには、かつて神童と呼ばれた優等生の姿はなく、ただのダメ人間がいるだけだった。
こうして萩野一鶴は人生初の挫折と後悔により、今ではすっかり平凡なただの高校生へと成り果てた。もちろん、滑り止めの高校である。
勉強は普通。度重なるゲーム生活により身体機能の低下。誠実といえば誠実だが、ただそれだけのつまらない男。
それが萩野一鶴の高校生活の全てだった。
人生で一番、いや、唯一と言ってもいいほどにハマった「創造世界」も、狭い押入れに封じ込め、彼はただただ平凡な日常を送っていた。
……筈だった。
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「ここは………?」
目が覚めると、そこは森の中だった。鳥達は歌い、木々の木漏れ日が頬を撫でる心地よい朝だ。
いや、昼間かもしれない。何せ太陽は真上にあり、体感時間ではあるが、確かに午後1時は回っている筈だ。
萩野一鶴は体を起こす。やけに身体が軽く感じた。
見ると彼は裸だった。
「……っっ!!」
慌てて大切な色々を隠し、周囲に人がいないのを確認する。
恥ずかしい事に、すぐ近くに男が一人いた。
いたというよりは、すぐそばに転がっていたが、正しい。
萩野一鶴の足元に、同じく萩野一鶴が転がっていたのだ。
「はれっ………????」
確かに自分は萩野一鶴だ。と彼は再認識する。
しかし、足元に転がっているのも間違いなく萩野一鶴だ。と彼は再認知する。
見ると足元に転がる彼は服を着ていた。それは彼が自分の家で愛用しているパジャマだった。
裸の一鶴と、パジャマの一鶴。
「どうなってんだこれは……?」
そこにきて、ようやく彼は気づく。
裸の方の一鶴は先程から宙に浮いている事に。
なるほど、合点がいく。これはまさに、幽体離脱というものだ。
「いやいや待て待て。幽体離脱?。えっ何これ??」
目覚めたら知らない森の中で、しかも幽体離脱している。何なんだこの状況はと、彼は兎角、混乱した。
「これ……俺が身体に入れば戻るのか?」
幽体離脱の解決法といえば、やはりそれである。裸の方の一鶴は早速、パジャマの方の一鶴に入ろうとすると、
ヒュンッッッ!!!!
「うわっ!!!!??」
すごい速さで何かが飛んできた。それは幽体の体を突き抜け、実体の方に当たる。
それは大きな石ころだった。
軽く成人男性の拳程の大きさ。飛んで来た方向を見ると何かが近づいて来るのが分かった。
何故そうしたのかは、本人にすら分からない。恐らく内に眠る本能がそうさせたのだろう。
一鶴は、反対側の茂みに身を隠した。
近づいてくるそれが、明確な脅威だと認識はしていなかった。が、彼の体、この場合幽体が勝手に動いていたのだ。
石の飛んで来た方向の茂みが揺れ、近づいて来たそれが姿を現す。
それは人でも獣でもなく、この世に存在する筈のない生物だった。
「…………子鬼?」
しかし、一鶴はそれの名を知っていた。
醜悪なる人喰い鬼の子供。ホブゴブリン。
子鬼は全部で三匹おり、それぞれ違う色のボロ布を腰に巻き、木の棒に尖った石を巻きつけただけの短い槍を持っていた。
「攻撃力は5……、HPは確か20だっけかや?」
茂みの中で一鶴は子鬼を分析していた。それらのステータスが、自分の知るものと同じかどうかは定かではないが。
子鬼達は、実体の方の一鶴に、近づいたり離れたりを繰り返す。時には手に持つ槍で少し突いたり、遠くからまた石を投げたり。
「何がしたいんだ……??」
用がないのならさっさと何処かへ行って欲しい。この状態では、実体に戻ったところでと一鶴は思考する。子鬼達は確実に実体の方の一鶴を警戒している。そんな中でいきなり一鶴が飛び上がりでもしたらそれこそ、戦闘開始なんて事になり兼ねない。
ひとしきり一鶴の実体をいじった子鬼達は、警戒を解いたのだろうか表情を緩ませた。
「よしよし、飽きたならさっさと行ってくれ。」
一匹の子鬼が手を叩くと、他の二匹も続けて手を叩きだした。何事かと、一鶴が茂みから身を乗りだそうとした瞬間。
一鶴の実体は、短い槍に串刺しにされた。
子鬼の顔は、醜い笑顔に歪んでいた。
「ひっ………!!!」
勢い、一鶴は悲鳴を嚙み殺した。
自らの体が串刺しになる姿を初めて見た。
その衝撃は、恐怖は、あまりに現実離れしていて、彼は茂みから一歩も出る事は出来なくなっていた。
これ以上の衝撃は、きっと二度とないと思った時、
それ以上の衝撃が彼を襲う。
子鬼がおもむろに、彼の死体を貪り初めた。
三匹が同時に、各々の好みの部位を喰らう。
腕を折られ、足を曲げられ、頭は気づけば子鬼の腹に消えていた。
吐き気と涙が止まらなかった。
自分の血がこんなにも赤く、こんなにも多く流れているなんて知らなかった。
最後の足の取り合いになり、どうやら三匹の中のリーダー格らしき一匹が綺麗に平らげる。
ほんの数分で、人、一人の死体が丸々消えた。
赤く染まる地面には骨すら残っておらず、目覚めた時と同じ様に、木漏れ日が降り注ぐばかりだった。
一鶴はショックで気絶しないのが不思議でしょうがなかった。どうやら幽体にはそういう機能がないらしい。
それが不幸な事だと、誰の目にも確実だった。
現に彼は、彼が子鬼に喰われるところを1から10まで目撃してしまった。
萩野一鶴の心はすでに壊れていた。
ゲームにはまり、廃人を経験した彼は、
異世界にて、本物の廃人となった。