暗い道のりの入り口にて
俺はまた言葉の意味を飲み込めず、首を傾げることすら忘れていた。
「どういう、こと?」
「あの事件のあと、お姉ちゃんがクローンだったってことが、世界中に報道されたの。見て」
茜ちゃんが指した先に、俺が持っていた新聞の一文があった。
【禁断の医療 永遠の命の研究】
【政府が隠蔽 クローン人間の製造】
【高校教師の英断 人類最大の禁忌を暴く】
「北見楓は、北見樹が作り出した世界初の人間のクローンである……?」
「鹿角はお姉ちゃんたちと引き換えに、お父さんの研究成果を要求したの。つまり、クローン技術や記憶継承の資料。それを手にした鹿角は、捕まる前にその全部を出版社や新聞社に送り付けていて」
「そんな……」
「記憶継承の資料や技術の詳細は、国外に漏れるのを恐れた政府が回収して大事にならずに済んだ。でも、お姉ちゃんがクローンだったってことは公表されてしまって」
国だとか政府だとか、スケールの大きな話になっている。すでに俺の想像を超えていて、ついていけそうもない。あまりに途方もない話に眩暈すら覚えた。
俺がクローンとして生き返っても普段通り過ごせていたのは、おじさんのおかげと言ってもいい。さらにその裏では国も動いていたんだろう。疑問に思ったことはあったけど、おじさんの研究に国が手を貸しているなら、何とでもできたはずだ。すでに死んだはずの俺……もとい「北見楓」という本来はいなかったはずの人物の戸籍を、おじさんが用意できた理由もこれでわかってくる。
俺が研究対象だというおじさんの言葉は、確かに間違いじゃなかった。そもそも俺はそれを承認した上で、クローンとして生きていたはずなのだから。
「けど、待ってよ。それが鹿角の裁判が長引くのと、何の関係があるのさ?」
「……まだ、法律が整備されてなかったの。お姉ちゃんがクローンだったってことで、殺人という罪に値するのかって。前例のないことだったから。今はクローンであっても、人だって認められてる。人のクローンを生み出してはいけないって法律もできた。でも、それが施行されたのは四年前なの。鹿角の罪にそれが適用されることはなくて、だから裁判が長引いてる」
法律には詳しくないけれど、聞いてみれば、確かにややこしい問題だ。俺は他人事のように思って、新聞を読むのを途中でやめた。
俺が眠っている間に、文字通り世界が変わってしまっている。途方に暮れるとはこのことだ。
「クローンを生み出したらいけないって、じゃあ、俺は」
「法律が施行される前に、お父さんがもう身体を育て始めてたの。身体の完成と政府に認めさせるのに今まで時間がかかったけれど、それでお姉ちゃんを生き返らせることが出来た。他にクローンが作られたってニュースはなかったはずだから、お姉ちゃんは世界でただ一人の人間のクローンなの」
茜ちゃんはそう口にして、自分の胸を撫で下ろす。俺が目覚めた事実を実感して安堵しているようだった。俺はそれを横目に、ベッドから腰を上げた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ちょっとお手洗いに。大丈夫、一人で行けるから……」
まだ慣れない新しい身体なのもあって、よたよたと壁に手をつきながら歩く。茜ちゃんを残したまま静かに部屋を出て、トイレを目指しながら考えた。
情報を一気に入れたせいで、頭が混乱している。いや、一つ一つの出来事に対して、理解はできたのだ。けれど、それを受け入れる精神的な余裕がない。理性と感情が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、考えること自体が億劫になる。
言うことを聞かない身体で歩き続けていると、いつの間にかトイレに辿り着いていた。すっかり慣れたように女子トイレの個室に入り、便座へ腰掛ける。
今更のように思い出して、自嘲のような笑みが漏れる。自分がどんな顔をしているかわからないが、茜ちゃんに見せても混乱させるだけだろう。ここに逃げてきたのは正解だったようだ。
早くも俺は後悔しているのだ。茜ちゃんから聞いたこと、何もかもに。さっきの話を聞いて、欠けていた記憶はほとんど戻ってきていた。自分の身に何が起こったか。鹿角の陰謀に巻き込まれて、男子の暴力の記憶を最後に、意識が途切れた。その恐怖は言わずもがな、それで自分……北見楓が死んだことや、今の俺が新しく作られたことなど、できれば知りたくなかった。
いっそ何も知らないまま、前と同じように生きていければそれでよかった。
もちろん、それができないことはすでにわかりきっている。あれだけメディアで報道されているなら、日常的に目にする新聞やテレビ番組から、いやでも情報は入ってくるだろう。後で混乱するよりは、今のうちに知っておいてよかったと思っておくべきか。
「……これから、どうすればいいんだろう」
誰もいないトイレで一人呟く。もちろん返事はなくて、虚しさだけが俺の胸中を支配した。
暗くて先の見えない場所を、歩いて行けと言われているような気持ち。右も左も、そんな道があるのかもわからない。真っ直ぐ歩いても、その先に正解が待っているとは限らない。
「お姉ちゃん?」
「っ? あ、茜ちゃん?」
出入り口から聞こえた声に、思わず裏返った声で返事をする。
「あ、ごめんね? わたし、そろそろお仕事に戻らないといけなくて……」
「そ、そっか。うん、わかっ、た」
人の気配が遠のいていき、俺は再び深いため息をつく。
一人になりたいと思ってここに逃げてきたのに、傍にいてくれる人がいなくなるとわかったとたん、心細くなってしまう。ここにいても病室にいても、狭く閉じた個室にいるよりは健康的だと思って、俺は病室に戻ることにした。
「あ……」
手洗い場にある鏡の自分と目が合う。その姿は俺の記憶にあるものと何ら変わらない。わざわざ同じ身体を作り直して、俺を生き返らせたんだろう。なんで男の身体のほうじゃなかったかな。おじさんも用意が悪い。
「もう今更、どうでもいいけどな」
どんな姿であったとしても、一度死んでいると聞かされれば受けるショックは同じだ。俺は何度目かになる大きなため息をつきながらトイレを出て。
「――ひゃっ!?」
「うわ!」
視線を落としていた俺は、近くを通りかかっていた人とぶつかってしまう。相変わらず軽い身体はその反動で体勢を崩し、思わず尻餅をついてしまった。
「いたた……」
「ああっ、悪い、大丈夫か?」
駆け寄ってきたのは背の高い少年だった。検査衣やパジャマではなく、ポロシャツにジーンズという出で立ちから、たぶん家族のお見舞いに来た高校生だろう。右手には文庫サイズの本を持っていた。
「いえ、こちらこそぼうっとしてて、ごめんなさい」
「不注意はお互い様だ。それよりも怪我、は……」
そこでその人の言葉は途切れ、俺に向かって差し出されていた左手が中途半端に静止する。不審に思って顔を上げると、初めて見る少年の顔が驚きと歓喜の表情で固まっていた。
「かえで、楓だよな?」
「えっ、なんで俺の名前を……」
立ち上がるのを忘れて、俺は少年の顔を見つめなおす。初対面で面識はないはずだ。だとしたら、クローンとしての俺のことを、メディアで知っている人、とか。
まずいかな、と逡巡するのもつかの間、少年は再び俺に左手を差し出して、笑いかけてきた。
「知ってるよ。やっと起きたんだな、楓。元気そうで何よりだ」
「……えっと」
「ああ、わかんないかな、オレのこと。そりゃそうか、長いこと眠ってたんだから」
手を引っ込めて、少年は俺と目が合うようにしゃがみ込む。意図しているのか、顔がかなり近くなった。
「とりあえず怪我とかしてないよな? 立てそうか?」
「ご、ご心配なくっ」
そう言って、俺は距離を取るように素早く立ち上がる。実際、お尻がちょっと痛むくらいで怪我らしい怪我はなかった。それよりも、そんな俺の様子を見てクスクス笑うこの少年だ。
「そりゃよかった。じゃあ病室に戻ろうぜ」
少年の見た目よりも大人びた、色っぽい笑みをしながら、彼は俺のいた病室に向かって先に歩いていく。
「え、あ、あの……?」
「どうしたんだ、早くしないと置いていくぜ?」
慌てて俺も彼の後を追う。そしてついて行くと、彼は迷うことなく俺の病室に辿り着いた。俺の不信感はますます大きくなる。
「さあ、入った入った。病人は大人しくしておかないとな」
扉を開けるや否や、ベッドまで俺の背中を押し、問答無用で腰掛けさせる。そして自分はと言えば、丸椅子に座り込んでここから動かないと言わんばかりだ。
「あれ、だいぶ警戒してる?」
「そりゃそうだよ。いきなり知らない人に名前を知られてる上、病室までついて来られたんだから」
「正確にはついて来たんじゃなくて、オレが先導したんだけどな」
「なおのこと気味が悪いよ」
追い出したいのは山々だが、すでに部屋に踏み入られている以上、非力すぎるこの身体では難しいだろう。代わりとばかりに、俺は目を眇めて威嚇しながら、怪しい少年の全身を観察した。
身長は翔太くらい、でも身体は鍛えているのかがっしりしている。運動か何かやっているのかと思えば、片手には文庫本だ。そして大人びた笑みを浮かべる甘いマスク。俺がいた教室に転校でもしてきたら、女子が何人か黄色い声を上げただろう。高校生の読者モデルか俳優と言われても違和感がないが、俺の記憶ではそんな知り合いは一人もいなかった。
「君はいったい何なの? どうして俺のことを知ってるの?」
「知ってるも何も、会ったことあるじゃんか。あー、まあ、あれからかなり時間が経ってるし、気づかないのも無理ないけどさ」
「……会ったことがある?」
「これ」
少年は持っていた本から、小さな紙切れを取り出した。本の栞であろうそれは、よく見るとラミネートフィルムで加工してあって、中にある白い紙には色も塗られていないスケッチのような、フクジュソウの絵が描かれていた。
確かにそれには見覚えがある。俺が描いて、プレゼントしたものだ。それをあげたのは一人しかいない。
「そ、星、くん?」
「へへっ、やっと思い出してくれたな。まあ、戸惑ってるところも面白かったから、もう少し見てたかった気持ちもあるけど。会えて嬉しいぜ、楓」
ニッ、と並びのいい歯を見せて笑いながら、バチリとウィンクして見せる。ドラマのワンシーンかと思うほど、それは様になっていた。