遠い世界のお話のように
「ごめんね、急に取り乱したりして」
「気にしないで……」
俺は結局、こっそり抜け出した病室へと戻ってきていた。成長して見違えた、看護師の茜ちゃんと一緒に。
未だに信じられない。最後に会ったのは、確かアルバイトに行く前の朝ご飯の時。俺と変わらない身長で、長い髪をツインテールにしていて、一部分の発育がちょっぴり遅いことを気にしていた、高校生の女の子だった。
目の前にいるのは、そんな彼女が成長した姿だ。
清潔な看護服に身を包んでいても、髪を切って眼鏡をかけていても。親しげで優しそうな雰囲気は間違いなく俺が知っている人のもの。それだけで茜ちゃん本人だと納得できる。長い間ずっと傍にいた俺だからこそ、わかるんだ。
同時にその感覚を信じたくない気持ちも強かった。高校生から大人になっているということは、それだけ時が流れたということだ。だとしたら俺は、いったい何年間眠っていたというのか。一体どんな理由で、何があったのか。
「あの、俺は」
口を開きかけて、迷って、そのまま固まってしまう。浮かんでくる疑問が多すぎて、何をどう聞けばいいかわからない。
「驚いてる、よね。いきなりこんなの見せられて」
俯いた俺に、茜ちゃんは柔らかく声をかける。
「えっと、お父さんには会った?」
「うん。次に……夕方に来る時に説明するって言ってた」
「そっか」
相槌を打ちながら、看護師の彼女は俺の肩に優しく手を置く。「座ろ?」とベッドの端に腰掛けさせて、自分も隣に座った。
「お父さんが来るまで待つ? それとも今、わたしから聞けることを聞きたい?」
「……わからない」
消え入るような声が出た。聞きたい、知りたいことは山ほどある。けれど今は、それを受け入れられるかわからない。事実を、他ならない茜ちゃんから聞かされることが、想像以上に怖い。
「ゆっくりでいいよ。落ち着くまでここにいるから」
ぎゅ、と右手が握られる。大人になった茜ちゃんの左手は、当たり前だが俺よりも少し大きかった。その当たり前から目を逸らしたいとも思ったけれど、その体温がもたらす安心感によって落ち着くというのも、また事実だった。
「おっきく、なったね」
「ちょっとだけね」
本人は謙遜するように言った。その手を見つめながら、俺がこうなるまでどれくらいかかるだろう、とぼんやり考える。少なくとも数ヶ月では絶対に足りなかった。
「俺、どれくらい眠ってたんだろう」
「あんまり驚かせたくはないんだけど、六年、だね」
「ろく……」
想像したよりも遥かに長い時が経っていた。むしろ現実感がなくて、俺は反応ができずにいる。
「いくつになったの?」
「今年で二十二だよ。高校卒業してから看護学校に三年行って、今年看護師になったばかり」
「そっか……すごいね」
自分のことを聞くのが怖くて、茜ちゃんのことを聞いたつもりだったけど。結局、俺から抜け落ちた年月を突き付けられたようで、思わず視線が下を向いた。
茜ちゃんだけじゃない。ここにはいないけど、茉希ちゃんも透も翔太も、きっと大人になっているはずだ。また俺だけが周りから取り残されたんだ。
「俺は、どうしたらいいんだろう」
みんなの中にある六年間が、俺にはなくて。もう取り戻すこともできなくて。そんな理不尽を突然叩きつけられて、不安と困惑と恐怖と――いろんな負の感情がごちゃまぜだった。
「そんな悲しい顔しないで。命があるだけ幸福なことだよ。お姉ちゃんはまた生き返れたんだから」
「……え? それは、どういう」
茜ちゃんの声のトーンは、俺を励ますときのそれだった。けれど、俺の中では余計に謎が増えた。俺がまた生き返ったということは、また死んだってことじゃないか。
「あ、えっと……何があったか、覚えてない?」
「あんまり思い出せないみたいなんだ。日曜日で、アルバイトが終わったところまでは覚えてる。それから――」
言葉が途切れる。ペイスを出たところまでは何とか情景が浮かんだが、そこからの記憶がない。いつもだったらバスに乗って家に帰ったはずなんだけど。
「……そう」
茜ちゃんはそれだけ言って口を閉じる。俺に言うべきかどうか、迷っているようにも見えた。もしかしなくても、その日に何かが起こって、俺は死んでしまったんだろう。
「あの、ごめんね。わたしだとうまく伝えられるかわからなくて……。たぶん、聞いたらお姉ちゃん、もっとショックを受けると思う。忘れているのならなおさら、今のお姉ちゃんに聞かせるのは、ちょっと気が重くて」
「そう、だね。今は受け止められそうにない」
そもそも、死んだ後に生き返っていることすら、普通だったら受け止められない。これが二度目じゃなかったら、もっと狼狽えていたと思う。いいことなのか悪いことなのかはわからないけど。
「本当にごめんなさい」
「いいんだよ、茜ちゃんのせいじゃないでしょ。俺のことでそこまで責任を感じなくても」
「違うよ、わたし――わたしたちにも責任があるの! 一人で行かせたりしないで、わたしも傍にいれば――」
俺の言葉を遮って、茜ちゃんは激しくかぶりを振った。今にも泣きそうな表情で、俺よりもずっと深く視線を落としている。
「ごめん、わたし、こんなこと言いに来たんじゃないのに。お姉ちゃんの傍にいて、少しでも不安がなくなればって、思ったのに」
「謝らないで。俺のためなのはわかってる。ここにいてくれて助かってるから」
茜ちゃんは、成長したように見えて本質は変わらないままだった。逆にそれが俺を安心させて、彼女の手を握り返せるくらいには、覇気を取り戻すことができた。
「何かあったとしても、俺はこうして生きてるんだし。だったらウジウジしてないで、これからのことを考えないといけない。それには、何があったか知らないと」
「……本当に、大丈夫? 無理してない?」
「うん、平気。茜ちゃんがいてくれるしね」
安心させようと、俺は笑って見せる。それを見て茜ちゃんも決心したのか、「わかった」と小さく頷いた。
「誘拐、されたの」
「……誘拐?」
馴染みのある言葉ではない。思わず聞き返して、意味がようやく飲み込めた。
「俺が?」
「そう。お姉ちゃんはあの日、クラス委員長の村井さんと一緒に誘拐された。理科の教師だった鹿角と、数人の男子生徒たちに」
俺は次の言葉を紡げない。茜ちゃんのことを疑うつもりはなかったけれど、その話はあまりにも現実味がなかった。
「いや、待ってよ。そんな馬鹿みたいなこと、いくらなんでも」
「……うん、信じられないと思う。忘れてるならなおさらだよね。でも」
茜ちゃんは唐突にベッドから腰を上げて、テレビの乗った棚の引き出しを開ける。その中にあったのは、古い新聞紙と数冊の週刊誌だった。
「事件のこと、ここに全部書いてある」
「は……」
茜ちゃんが差し出したそれを、恐る恐る手に取ってページを捲る。茜ちゃんが話した内容と一致する見出し。文面には犯人の名前と、自分の名前と、クラス委員長の名前。
「まじ、か」
こうやって目にしても、未だに現実味を帯びて来ない。
「ぜんぜん、思い出せないんだけど」
「忘れてるってことはきっと、お姉ちゃんにとっては思い出さないほうがいいことなんだよ。だから無理には――」
茜ちゃんの言葉が不意に切れる。不審に思って週刊誌から顔を上げると、茜ちゃんは病室のカーテンを勢いよく閉めた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。とにかく今は、無理に思い出さないほうがいいよ。お父さんから説明があると思うけれど、お姉ちゃんはたぶん、死ぬときの記憶を封印してるんだと思うから」
「死ぬときの記憶、か」
そう聞かされれば、確かに思い出してもいいことにはならなさそうだ。茜ちゃんの言う通りなら、死ぬ間際の俺は恐怖のあまりに記憶を封印しようとした。それを解いたとして、今得られるものは何もない。
「委員長は無事? 鹿角は捕まったの?」
ざっと目を通したものの、あまり二人のことには触れられていないようだった。その割には、被害者である俺の名前のほうがよく出ているような――
「委員長は無事だったよ。鹿角は捕まったけど、裁判がまだ続いてる」
「まだ? 六年も経ってるんだよね?」
「そうだけど、いろいろややこしくて」
なんだそれは、と口を突いて出そうになる。
「俺を死なせたのは鹿角だよね?」
「それは間違いないんだけど……直接お姉ちゃんの死因になったのは、一人の男子生徒の暴力なんだって。その当たり所が悪かったのを、気づかずに放置したから……」
「見殺しにされたってことか」
「……うん」
つまり、直接的な鹿角の殺意が認められたわけじゃない。誘拐や暴行の罪を問うことが出来ても、肝心な殺人の罪を確定させるには情報が足りないってことか。
「でも、待ってよ。委員長もその場にいたんだよね? 証言とかしてるんじゃないの?」
「それはもちろん。だけど……」
茜ちゃんは言いかけて、再び視線を床に落とした。
「お姉ちゃん、あの、驚かないでって言うのは無理だと思うけど」
「……大丈夫。聞かせて」
今更驚くことはないと思っていた。その考えはすぐに裏切られて、生き返ったばかりの俺を追い詰めるように、現実が突き付けられた。
「まだ裁判が長引いているのは、お姉ちゃんがクローンだったってことも原因なの」