目覚め、ふたたび
「あ……」
気づいた時には、そんな声が出ていた。
とても長い夢を見ていた気がする。現実的というか、感覚もすべて残っているような。むしろ今この身体のほうが夢なのかと疑うほどだった。
唐突に戻ってきたその意識は、まだ現実に馴染めていない。身体が思うように動かせないし、視界は強い光にぼやけている。本当に長い間眠っていたことが容易に想像できた。たぶん二、三日はずっと横になっていたんだろう。
「ここは……」
いやに清潔な天井と無機質な蛍光灯。自分の部屋じゃない、でも既視感はあった。すでに一度、こんな目覚め方をしたことがあったから。
記憶の最後にあるのは、強い痛み。それから徐々に暗闇に覆われていく視界と感覚、遠ざかっていく俺を呼ぶ声。はっきりと思い出せないそれが、俺の頭の中でぐるぐると回る。寝ているのに軽く眩暈を覚えて、俺はきつく目を閉じ、再び開けた。
がらり、と唐突に音が飛び込んできた。
その瞬間に俺は、ここが病室なんだと気づいた。俺は何かしらで意識を失っていて、今眠りから覚めたばかりなんだ。そして今入ってきた誰かは、きっと見回りの看護婦さんか俺の身内で見舞いに来てくれた人で。
「そろそろ目覚める頃合いだと思っていたよ」
その予想は間違いではなかったが、満点を採れるような正解とも言えなかった。ただ、その人は俺がよく知っている人で、身内といえば身内で、ここにいることにもっとも違和感のない恰好をした人だった。
「気分はどうだい、楓くん?」
「おじ、さん……」
寝そべったまま首を動かして、視界の中におじさんを捉える。何があったのかはわからないけど、少し前に見たときより老けたなと思った。そして、どこか遠くを見ているような、空虚な瞳で俺を眺めた。
「身体が痛んだり、違和感を感じることはないかい?」
「はい、大丈夫です。でも」
「なんだね? どんな些細なことでも、今は言ってほしい」
「ちょっと説明が難しいんですけど……いや、どう聞いたらいいかわからないっていうか。俺、なんかまだ寝ぼけてて、そもそもなんでまたここで寝てたのかもよくわかってなくて」
「……そうか。その様子だと、記憶が曖昧になっているようだね。それは時間次第ではっきりしてくるだろう。君の言う通り、まだ寝ぼけ眼の状態だ。無理に思い出そうとすることもないよ」
「そうですか? でも、大切なことのような気がして」
「もう少し落ち着いたら話してあげよう。今は目覚めたばかりだ、時間を使って頭を整理するといい。そうだな、夕方、今度は茜を連れてここに来るよ。その時に、全部話そう……」
心なしか、おじさんの視線が下を向いた。言葉にも覇気がなく、俺のことを気遣っているというか、壊れ物でも扱うみたいに接しているような感じだ。
「すまないが、それまでの間は失礼するよ。ゆっくり休んでおいてくれ」
そう言って、おじさんは静かに部屋を出て行った。
なんだか肝心なことがわからなかったことで、俺の中にはもやもやが残った。おじさんもいつものような、自信に満ちた態度じゃない。そして目覚めてしまった今、カーテンの取り払われた窓から差し込む日差しが眩しくて、寝付けそうもない。
しょうがないな、と思って身体を起こす。ずいぶん長いこと眠っていたのか、凝り固まった筋肉や関節が少し軋むような違和感があった。でも、身体は思い通りに動いてくれるようだ。
「よっ……と……」
自分の手でカーテンを引き寄せて、直接顔に日差しが当たらないところまで陰で覆う。その瞬間、遠くのビルの窓がキラキラ光った気がした。
なんだろう? と思ったけれど、特にめぼしいものは見つからない。気のせいだったらしい。俺は興味を失って、再び部屋に視線を戻した。
そこはやっぱり、最初に俺が入院していた個室だった。ベッドの傍に丸椅子と、小物をしまう棚、それに乗っているテレビ。唯一、テレビだけが最新式のものに変わっている。一目でわかったのは、ブラウン管から薄型になっていたからだった。この数ヶ月でよく変えられたものだと感心する。
そうだ、暇ならテレビでも見れないかな。そう思ってテレビの近くを探すと、引き出しの中にリモコンを見つけることが出来た。電源ボタンを押すと、控えめな音量でコマーシャルが鳴り始める。やがて画面が映し出された。
しばらく流しているとコマーシャルが明け、ワイドショーの続きが放送される。テーマは観光。行楽シーズンの到来に備えて、紅葉で名高いスポットを取材してきました、って。
「は?」
いや、何をばかな。今は夏の直前で、梅雨が明けたばかりのはずだ。けれど、目の前に映し出されたのは紅葉しかかった山の景色だった。
「来週……十月……!?」
ってことは、俺は三ヶ月もの間眠っていたことになる。一学期の期末テストどころか、夏休みまで超えてしまって、すでに次の季節の変わり目だ。これにはショックを隠し切れない。
話題は芸能人の熱愛報道に切り替わる。実は何年前からこの男優は女性問題で取り上げられていまして、うんたらかんたら。
その男優さんには見覚えがあった。茜ちゃんと一緒に見ているドラマの主演さんだ。誠実で真面目を絵にしたような人だって、学校でもたびたび女子の口から出てくることがある。俳優さんに詳しくない俺でも知っているような、有名な人。だけど、もう少し若い顔をしていたような……。
その人の女性問題が最初起こったのが、そのドラマが終わってから一年経った頃だという。
不倫に始まり、徐々に女癖の悪さが目立ち始め、一時期は改心して注目を集めたものの、それから三年後にまた不倫。以降は女たらしのイメージが定着し、俳優としてもヒール役がメインになっていったとか。
「ちょっと……」
ちょっと、待って。そんなこと知らない。
少なくともドラマはまだ放映中で、茜ちゃんや茉希ちゃんと次の話が気になるって話をしてた。この人が三年前に不倫してたなら、誠実で真面目なんてイメージが定着するはずがない。そもそも、あのドラマがこの人のデビュー作だったはずだ。
キャスターが示している男優の経歴の年表を追う。そこには未来の年月が記されていて、俺は思わず「は、ははっ」と乾いた笑いを声に出していた。
「うそ、だろ……」
何かのドッキリじゃないだろうか。実は今流れているのは架空の番組のDVDで、病人をからかうためのおじさんのジョークグッズだとか。
うん、わかってる。おじさんはドッキリを仕掛けるような人じゃない。おじさんじゃなくても、俺の周りにはこんな質の悪い冗談を企画する人も、実行する人もいない。
おじさんが老けたように見えたのも、暗い顔をしていたのも、気のせいじゃなかったんだ。本当は俺に話すことがあるはずだ。俺も聞かなくちゃいけない。夕方まで待っていられない。
「うおっ、と」
思ったよりベッドが高くて足がつかず、軽く飛び降りる形になる。咄嗟に両手がついたけど、幸い身体は動いてくれるようだ。
とりあえず、今の状況を確認したい。窓の外を見た以上は、いつものおじさんの病院で間違いないから、道くらいはわかる。待合席でも受付でもなんでもいい、人に会って確かめたい。
おじさんに休んでおくように言われた以上、俺はこっそりと病室を抜け出した。スライド式の扉をゆっくり開けて、周りを確認する。この辺りは個室ばかりだからか、人影はほとんどなかった。
記憶を頼りにエレベーターの前まで来る。ナースステーションは確か三階で、今いる階は五階だった。そして下行きのボタンを押すよりも前に、目の前でエレベーターの扉が開いた。
「あっ」
エレベーターから降りようとしたお姉さんが、俺を見て目を丸くする。出で立ちからして、見回りに来た看護師さんだ。俺よりも背が高い……けど、ナースキャップがそれを助長しているようで、目線は確かに向こうのほうが高いけど、俺よりも拳一つくらいしか変わらないようだった。眼鏡をしているけど、どこかおっとりした親しみやすそうな人だ。
「あ、すみません」
俺は咄嗟に謝って、お姉さんの邪魔にならないようにエレベーターの前から離れようとした。その途端に、看護師さんが持っていたバインダーが床に落ちた。
「わっ?」
驚いて、俺は目を瞬かせる。顔の近くに、看護師さんの顔があった。離れようとした俺を、看護師さんが唐突に抱きしめたのだった。
「え? え?」
予想だにしなかった事態に慌てる。看護師さんの知り合いなんていないし、ましてや抱擁される理由なんて覚えがない。反射的に逃げようとするも、思いのほか強く抱きしめられていて抜け出せない。なのにまったく痛くないという、手品の体験者になったような力加減だった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「えっ……」
その言葉は確かに耳に届いた。でも、その意味に気づくにはたっぷり十秒かかった。
「あ、あかね、ちゃん?」
俺を抱きしめる若い看護師さんは、俺の問いかけにゆっくりと頷いた。