スタートライン
帰宅後、俺は茉希ちゃんと茜ちゃんに透との会話の一部始終を話した。
「――というわけだから、明日には透から話があると思うよ」
「またみんなで勉強ができるね。茉希ちゃん、よかったね」
笑いかけた茜ちゃんに、茉希ちゃんも比較的笑顔で頷いた。
「なんか不思議そうな顔してるな?」
「いえ、本当に楓の言う通りになったから……」
「俺を信用してなかったってこと?」
「そうじゃないわよ。でも、どうやって説得したの? アタシ、透には煙たがられてると思ってたのに」
「わたしも、お姉ちゃんが透くんに何て言ったのか気になるなぁ」
二人とも透の頑固さを知っている。だから、俺の言う通りに透が折れて、こんなに簡単に茉希ちゃんが勉強を教えられるようになるとは思わなかったんだろう。
「何度も言うけど、透は茉希ちゃんを嫌ってたわけじゃないよ。それに、さすがの透も赤点と補習だけは避けたかったんだろ」
もちろんそれは追い詰められた今の段階での結果論で、元々は茉希ちゃんにいいところを見せたかったという、透の見栄から始まったものだ。でも、いくら一人で頑張ったところで、結果が残せないなら意味がない。とりわけ、努力している部分を隠そうとしたのだから、なおさらだ。
俺はその焦りと唯一の解決策を吹き込んで、透を上手く誘導したに過ぎない。
「とりあえず、俺にできることはここまでかな。勉強だったらまだ協力するけど、恋路のほうは茉希ちゃん自身が頑張らなきゃ」
「ええ、ここがスタートラインってことね。楓に負けないように頑張るわ」
「俺と競り合ってどうするんだよ……」
「茉希ちゃんとお姉ちゃん、どっちが先に恋が実るか、競争ってことじゃないかな?」
「そういうのは競っても意味ないだろ? ていうか、先にテストを乗り切ることを考えないと」
子供みたいにはしゃぐ茉希ちゃんと茜ちゃんを宥めるが、いったん盛り上がったトークはなかなか収まらない。いつの間にか俺もペースに巻き込まれて、夕飯の時間が過ぎるまで続いてしまった。
茉希ちゃんはここからがスタートラインだと言った。
けど、俺はその場所に立っているんだろうか? そもそも、どこに向かう道の始まりなのか。その日の夜遅くまで考えたけど、俺にはまだわからなかった。
六月も終わりを迎え、いよいよ期末テストが一週間後に迫ってきた。
あれからテスト勉強はみんなでやることになり、平日は放課後に北見家へ集まっていた。そして気のせいかもしれないけど、茉希ちゃんと透の言い合いも少し減った。その分勉強がはかどって、透はなんとか赤点の心配がないレベルまで力をつけていた。
そうやって順調にテストの準備を進めて、その先の夏休みに胸を躍らせている中、俺にとってはさらにもう一つ嬉しい出来事が起きた。
「まだかなぁ、茜ちゃん……」
日曜日のお昼、アルバイトの休憩に入りながら、俺は携帯電話を開けたり閉じたりしてそわそわしていた。今日のシフトは柊さんがお休みで、俺と菊池さんと優希さんの三人がいる。そしてこれから送られてくるはずの写真を、どうしても菊池さんに見てほしかった。
「うーん……あっ」
唸っていると、待ちかねていた携帯電話の着信音が鳴る。すぐにメールを開けて写真を確認した。
「ふふっ、ふふふふ」
さすが茜ちゃん、綺麗に写してくれている。そして何より、これを見た菊池さんがどんな反応をしてくれるか、想像しただけで俺の頬はだらしなく緩んでしまう。
これに気づいたのは今朝、アルバイトに行く直前だった。自分でも写真を撮ろうと思ったが、近づきすぎるのかピントがボケてあまりうまく映らなかった。慣れない操作に四苦八苦しているうちに電車の時間が迫って来たので、藁をも縋る思いで茜ちゃんに頼み込んだのである。
「茜ちゃん、ありがとう、っと」
取り急ぎお礼のメールを茜ちゃんに返信して、俺は倉庫を出ようとした。そのタイミングで、外からのノック音に気づいて立ち止まる。
「楓ちゃん、入るね」
「あっ、はい」
返事をすると、菊池さんが倉庫のドアを開けて入ってきた。
「何だか嬉しそうだね? いいことでもあったのかい?」
よほど俺の表情に出ていたのか、顔を合わせるや否や不思議そうに聞いてきた。午前中は茜ちゃんからのメールを待っていたせいでそわそわしていたから、そのギャップもあったかもしれない。
「はい。これ、見てもらえますか?」
「ん、何かの写真かい? どれどれ……」
俺が差し出した携帯電話の画面を覗き込んで、菊池さんはしばらく写真を見入った。それからすぐに気づいたようで、肩眉を上げて「へえ」と感嘆の声を漏らした。
「サルピグロッシスの蕾じゃないか。僕が種をあげた花だよね?」
「はいっ。今日、蕾がついてることに気づいたんです。朝は時間がなくて撮れなかったので、さっき茜ちゃんに送ってもらいました」
「そうかぁ、順調に育てられてるんだね。大事にしてくれて嬉しいよ」
菊池さんが本当に嬉しそうに言っているのを見て、俺も心の底から湧き上がるみたいに喜びを感じる。幸福感が手足の先まで染みわたって、蕾でこんなに嬉しくなるなら、花を咲かせたらどうなるだろうと想像を膨らませた。
「もう少しだね。咲いたらまた教えてくれるかい?」
「はい、きっと咲かせて見せます」
「楽しみだよ。その時はよかったらだけど、楓ちゃんの家で実物を見せてもらいたいな」
「もちろんです! ぜひ家に……」
言いかけて、おや、と思考が止まった。菊池さんが家に来る? えっ、それってもしかして、すごいことなのでは?
「誠悟ぉー? 楓ちゃんと二人で何してんのかなー?」
俺が言いかけた答えに窮したタイミングで、菊池さんの後ろから優希さんの低い声が聞こえた。
「商品取りに行くのにどんだけかかってんのさ。次、私が休憩なんだから、誠悟は働け」
「わ、わかってるよ」
優希さんに急かされて、菊池さんは渋々と倉庫から箱詰めされた商品を外へ運んで行った。それを見届けると、不意に優希さんが俺に目を向けた。
「邪魔しちゃってごめんね。楓ちゃんはもう少し時間あるから、ゆっくりしてて」
「あ、はい。すみません、お仕事の邪魔しちゃったみたいで」
休憩は交代制だから、タイミングが良かったとはいえ菊池さんを足止めしたのは俺が悪かったかもしれない。後で菊池さんにも謝っておこう……。
「気にしないで。じゃあ、私は仕事に戻るから」
そう言って、優希さんも倉庫を後にした。
一人残った俺は、改めて携帯電話の写真を見る。春に菊池さんからもらった種が、ようやく蕾をつけた姿だ。菊池さんが喜んでくれて嬉しかった。でも、この花が咲いたら。
「ほんとに家に来てくれるのかな……」
疑ってるわけじゃない。きっと菊池さんはうちに来てくれる。やっぱりこれって、大きな前進じゃないだろうか?
蕾をつけているのはまだ一部で、半分以上は何も変化がない。これらが一斉に咲くとしたら、テストが終わったあたりだ。夏休みに入ったばかりなら、まだ花を見られるはず。
だったら俺が今やるべきことは、目の前に迫っている期末テストを乗り切ること。
夕方になり、俺のシフトの時間が終わる。お店を出ていく前に、レジの前にいた菊池さんと優希さんに挨拶をした。
「それじゃ、お疲れ様です」
「うん、お疲れさま。次のシフトは夏休みに入ってからだったかな?」
「そうですね、テストが終わってからになるので」
アルバイトの許可が下りたのは、学校の成績を落とさないことが前提だった。その判断基準は普段の授業態度とテストの結果だ。中間と同じように気を抜くわけにはいかないので、テストの一週間前は勉強のために休みをもらうことになっている。柊さんを含めてみんな事情は分かってくれたので、休みに関しても二つ返事で了承してくれた。
「もうそんな時期かあ、テストやだなー」
俺の話を聞いて、優希さんがだるそうに呟く。
「大学もテスト、同じ時期にあるんですか?」
「僕たちも一応は学生だし、基本的には学期末だからね」
「でも、それさえ乗り切ったら夏休みが待ってる!」
優希さんの言う通りだ。テストさえ乗り切ることが出来れば、纏まった休みの日々を手に入れられる。
「ねえねえ、楓ちゃんはもう予定作った?」
「具体的にはまだですけど、やりたいって思ってることはたくさんあります」
「おっ、いいね~。どっか行きたいところとか?」
「まあ、そんなところですね。いつもの友達と集まってちょっと遠出もしたいです」
「あーそれいいわねー」
「優希さんはどうですか?」
「うーん、これから考える予定。とりあえずやってみたいのは親睦会かな」
「しんぼくかい?」
あまり聞きなれない言葉だったので首を捻る。
「具体的に言うと、柊さんに一日だけお店を休みにしてもらって、四人でどこか行くとか」
「わあ、それいいですね!」
「でしょでしょ? 誠悟もどうよ?」
「いい案だと思うけど……問題は休みがいつ取れるかと、どこに行くかだね」
「最悪でも半休とれれば何とかなるんじゃないかな。夕方のちょっと早めにお店を閉めて……そうね、夏祭りなんてどう?」
「それならいけそうだ。でも、とりあえずは柊さんに聞いてみないとね」
「じゃあ明日にでも聞いてみよっか。楓ちゃんには誠悟から連絡すること。そしたらきっとテストも頑張れるよね?」
「はい、もちろん!」
元よりテストに手を抜くつもりはないけれど、俄然モチベーションが上がる。柊さんからいい返事を聞くことが出来ればいいけど、ううん、きっとくれるはず。
「さあ、あんまり長く話してるとバスの時間になるよ」
「わ、そうですね。それじゃあ、俺はお先に失礼します」
「気を付けてね。お疲れさま」
「楓ちゃんお疲れ」
二人に手を振ってお店を出て、バス停まで少し急いだ。さっきの会話を反芻しながら、来る夏休みに胸を膨らませる。
夏休みのため、かあ。
思えば服装もすっかり変わって、今は半袖か七分袖になりつつある。初めてここに来たときは春先で、風もまだまだ冷たかった記憶があるのに。この四か月、振り返ってみるといろんなことがあって、長いようで短かった。でも、すごく充実した日々を送っている実感がある。
そしてこれからやってくる夏休み。自由な時間が増えて、やりたいことができる。もちろん、アルバイトも例外じゃない。
アルバイトの時間が長く取れるということは、俺にとって花に触れられる時間が増えるということ。もちろんお仕事だからしっかりやるべきことはあるけれど、菊池さんを始めとする親切な人たちと一緒に楽しく働ける。
そういえば菊池さんとは、週何回のペースで会えるんだろう?
「……」
そんな疑問が違和感なく浮かんできたことに、俺は自分自身で驚いている。これまでのシフトでは、菊池さんに会えるのは週一回、たまに菊池さんが遊びに来ることが合っても多くて二回だ。シフトの時間が増えれば、菊池さんと顔を合わせる機会だって多くなるだろう。そうすれば、今の気持ちも少しはわかってくるんだろうか――。
と、考えていたら鞄の中でバイブレーションの音が聞こえた。携帯電話に着信が来ているらしい。急いで開けると、そこには初めての人の名前が表示されていた。
「委員長……?」
確か以前、連絡網に追加するって名目で携帯電話の連絡先を教えたことがあった。こっちにかかってくるってことは、何か緊急の連絡なのかも。俺はそう思って、すぐに通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし?」
出てみたものの、向こうからの音がない。いったん耳から話して電波を確認してみたけど、悪いわけじゃなかった。
「あれ? もしもーし?」
もう一度呼びかけると、ようやく誰かがぼそぼそと言う声が聞こえてきた。
「委員長だよね? あの、悪いんだけどあんまりよく聞こえなくて……」
そう言いつつ、俺は人込みから離れてペイスの外へ出る。喧騒から離れたので向こうの音が聞きやすくなった。
「……すけて……」
「え?」
あまりにか細い声だったから、聞き間違いかなと思った。でも、間違いなく委員長の声だ。
「あの、どうしたの」
「……助けて、楓さん……!」
声はやっぱり大きくないけど、今度ははっきりと聞こえた。焦っているような、何かに怯えているような声。ただごとじゃなさそうだ。
「委員長? 何があったのか聞かせてくれない? 俺にできることなら――」
そう言いかけたとき、電話の向こうでガサゴソと雑音が聞こえた。そして次に聞こえてきた声に、俺は驚きのあまり目を見開いた。