誘導作戦
次の日、俺たちは作戦を実行した。内容はまず、要である茉希ちゃんが透を攻める。具体的には授業で居眠りをした透を叱ったり、素行の悪さを咎めたりすればいい。これをいつもより回数を多くしてもらうだけだ。
「はあ、逃げられたわ……」
昼休み、透が教室を出たところで、茉希ちゃんは諦めて帰ってきた。もちろんこれは想定内で、もし透が逃げた場合は追わないようにしている。
「ねえ、こんなのでいいの? 口うるさく言うだけならいつも通りだし、多すぎたらむしろ嫌われそうな気がするんだけど」
昨日のうちに作戦を打ち合わせておいたが、茉希ちゃんは不安げな表情だ。
「問題ないよ。ちょっと強めに言ってもいいはず。頃合いは茜ちゃんが観てくれるし、言い過ぎた分は俺が放課後にフォローするから」
今回の作戦には、透が茉希ちゃんをどう思っているか見極めることも重要になってくる。透にとっては当然、茉希ちゃんに怒られるのは嫌なことだろうけれど、それだけなら日頃から一緒にいれるわけがない。少なくとも透は、茉希ちゃんが嫌いなわけではないのだろう。
「協力してもらっている側だから、あまり大きな口は叩けないんだけど……大丈夫なのかしら」
「任せてよ。いつも助けてもらってるんだから、絶対にうまくやって見せる」
一日の授業が終わって放課後になると、茉希ちゃんの今日の役目は終わる。ここからは俺がバトンを受け継いで、いつものようにテスト前勉強を理由に透と教室に残った。茉希ちゃんと茜ちゃんは翔太と一緒に下校してもらって、昨日と同じように北見家で待機してもらっている。
まずはいつも通り透に解いてもらう問題を指示して、俺も少し問題を解く。少し時間がたったところで、今日の本題に入った。
「なあ、透。もう期末テストまで二週間切ってるだろ?」
「そうだな」
透はこっちを見ずに問題を解きながら答える。そんなことはわかっている、とでも言いたげだ。
「焦ってるか?」
「少しな。でも、確実に解けるようにはなってるから、このままいけば……」
「悪いけど、今のペースじゃ難しいよ」
俺は透の言葉を半ば遮って答えを言った。透はそれに少し驚いて、ペンを止めて視線を上げる。
「そんなことないだろ、ギリギリだけどできなくはない」
今の透は問題が解けるようになってきて自信がついている。それ自体は勉強にとっていいことだけれど、同時に見通しも甘くなっているんだ。
俺は透が使っていた問題集を手に取って、ページを遡る。そして勉強を始めたばかりの頃の問題を一つ指差して、
「これ、今から五分で解いてみて」
「なんだこれ。一回やってるし、たかが基本問題だろ……」
渋々、といった様子で俺が出した問題を解きにかかる。が、途中までペンが走ったところで、透の手が止まってしまった。
思った通りだ。透は一回問題が解けたら次に進んで、その後のやり直しをしていない。そもそも俺といるときは時間がないから、なるべく先に進んで多くの問題を解くという勉強法しか取れなかったのだ。だから数日前にやった問題は、すぐに答えが出てこないばかりか、解き方を忘れてしまっていることすらある。それがたとえ基本問題だとしても。
「テストでは絶対に出てくる問題だぞ。ここと、それからここも。今日までの勉強は絶対に無駄じゃないけど、時間が足りなさすぎる。完璧に覚えられるわけがないんだ」
一応、透には家に帰ってからも勉強するようにとは言った。もちろんまったくやらなかったわけじゃないんだろうけれど、今まで疎かにしてきた二か月間の勉強を三週間で、全教科詰め込むなんて無理だ。しかも日が経つほど、新しい範囲を教えられて勉強するところは増えていく。その日の復習だけでも透には難しい話だった。
茉希ちゃんに聞いた話だと、透は中学の成績もかなり悪かった。エスカレーター式で高校に上がれるギリギリのラインだ。それよりもさらに発展した高校の授業――とりわけ理系科目は、誰にとってもそうだけど、勉強なしに手も足も出せるわけがない。
「俺は少ししか居残りできないから、復習するなら透が家で頑張るしかないけど」
「じゃあそうする。一回やった問題だし、解説見ながらならたぶん……」
焦りを覚えたからか、口調に自信がなくなっている。勉強慣れしていない透にとっては、当然と言える反応だった。
「なあ、透」
「なんだ」
「やっぱり、茉希ちゃんを頼りたくはないのか?」
「……」
茉希ちゃんの名前を出すと、透はわかりやすい渋面を作って首を振った。
「最初に言ったろ、今回は茉希の力を借りたくないって」
「夏休みに補習になるかもしれないのに?」
俺の言葉に透の渋面は濃くなる。
「それはもっと嫌だ……」
「だったらプライドを守ってる場合じゃないだろ。今からでも茉希ちゃんに教えてもらえば、ギリギリでも間に合うかもしれない」
「けど、それじゃ今までと変わらねーだろ。何とかあいつの力を借りないでやろうって言ってたのによ」
「それ前から気になってたんだけどさ」
頑なに茉希ちゃんの助けを借りようとしない透に、俺は当然の疑問をぶつけてみた。
「そこまでして茉希ちゃんに頼りたくないのはなんでだよ?」
「……このままだといつまで経っても、茉希やお前らの足を引っ張ることになる。それにガキ扱いされんのももううんざりだ。だから今回は一泡吹かせてやろうって思ったのに」
苛立ちから折れんばかりにペンを握りしめて、透は悔しそうに呻く。
「みんなが一人でできることが、俺にはできねーんだ。ほんと、情けねーよな」
「それは、違うだろ」
「何がだよ。楓は一人で勉強できるし、頭もいいじゃねーか。俺との差がありすぎるだろ」
「そりゃ勉強だけだったらそうかもしれないけど、本当は透にできて俺にできないことなんか、いっぱいあるんだぞ?」
俺がそう反論すると、透が少し驚いたように目線を上げた。
「例えばどういうことだ?」
「俺が両手でも持てない荷物を、透なら片手で運ぶだろ。運動神経だってクラスの中じゃ一番だし、先生や先輩に物怖じせず物を言える。透が何でもないようにやってることは、俺にはできないことばっかりだ」
「……まあ、言われてみればそうだけどよ」
「そういうことなんだよ。みんな何かしら一人じゃできないことがあって当たり前なんだ。だからみんなで助け合うんだろ。茉希ちゃんだって、頭ごなしに透を叱ってたわけじゃない。茉希ちゃんなりに透を心配してるんだ」
「あいつが、俺を?」
「そう。……本当は透に謝らなきゃいけないことなんだけど」
そう言って俺はいったん目線を下げる。俺が良かれと思ってやったことでも、透からすれば約束を破ったことになるのだ。悪びれる気持ちはあった。
「なんだよ、謝らなきゃいけないことって」
「茉希ちゃんたちにさ、俺たちがこうやってテスト勉強してること、話したんだ」
「うげっ、そうだったのか」
「ごめんな。でもさっき言った通り、茉希ちゃんも透の勉強のことで心配してたから、いい機会だって言って俺に一任してくれたんだ。だから俺も透の勉強を最後まで見るつもりだったんだけど」
「時間が足りないってか?」
「そう。だからやっぱり、茉希ちゃんにも教わったほうがいいと思う。家も近いんだし、それに……茉希ちゃんさ、俺にはああ言ったけど、透に頼られなくなったって少し寂しそうにしてたから。前に俺に言ったみたいに、透も少し茉希ちゃんやみんなとの時間を作ってみたらどうかなって」
「む……」
みんなと一緒にいられるならそれに越したことはない。そう言ったのは他ならない透だ。自分の地位やプライドを守るためにみんなと距離を置くことは、みんなと一緒にいることよりも大事だろうか?
その答えは、否だ。
「結局、最初に決めたこともできずじまいだな。茉希のやつ、今からでも付き合ってくれんのかな」
「大丈夫だよ、俺からも話を通しておくし、茉希ちゃんもきっと喜ぶ」
透にその姿を見せるかどうかは、今の茉希ちゃん次第だけど。
「俺や茉希ちゃんたちだけじゃなくて、茜ちゃんや翔太も呼ぼう。また一緒にうちで勉強会だ」
「ああ」
透もようやく顔を綻ばせて頷き、俺の作戦は無事に完了を迎えた。