不機嫌の理由
居残りで透と勉強を終えた後、家までの道を透に送ってもらう。昨日はゲームのことや翔太とのことを話していたけど、今日はほとんど会話がなかった。気まずい、とまでは思わないけど、俺は家に帰ってからのこともあって、少し落ち着かなかった。
「ここでいいよ。ありがとう」
家が見えてきたところでそう言うと、「おう」と答えて透は歩みを止める。俺が家に向かって歩き出すのを見てから、何も知らない透は今度こそ自分の帰り道についた。
玄関の前に立って、無意識にサルピグロッシスの様子をちらっと見てから、俺は深呼吸をして家の中に入った。
「ただいま」
玄関を開けて、茉希ちゃんの靴が目に入る。予定通り待っていてくれたみたいだ。
「お帰り、お姉ちゃん」
「茉希ちゃん、いるんだね?」
「うん、こっちに。まずは着替えてきたら? 茉希ちゃんも一回帰って、着替えてから来てるから」
「わかった」
茜ちゃんの言葉に甘えて、まずは自分の部屋に向かう。制服を脱ぎ、普段着に着替えてからリビングに戻った。
「早かったわね」
「待たせるのは悪いと思って」
私服姿の茉希ちゃんは「どっちでもいいけど」と呟いて、それきり黙り込んだ。俺はその向かいに椅子を引いて座り、茜ちゃんは三人分の麦茶を用意してキッチンから出てきた。
俺は麦茶を一口飲んで、茉希ちゃんの言葉を待った。あんまり重苦しい雰囲気にすると話しづらいだろうから、何か話を振ったほうがいいかとも思うけど、茉希ちゃんの調子を乱すかもしれないと思うと、どんな話を振ればいいのかもわからない。
茜ちゃんはどうだろう、と隣に座っている顔をちらりと見てみるけど、いつも通りの表情で麦茶を飲み干していた。茉希ちゃんも何かつられたように麦茶を飲み干して、茜ちゃんの「おかわりいる?」という言葉に頷いた。
再度、コップいっぱいの麦茶が出てきたところで、茉希ちゃんが重たい口を開いた。
「今日は勉強、どうだった?」
「透のか? まあまあかな。力はついてきてるけど、テストには間に合いそうにない。もっと時間があればいいんだけど、普段から勉強しないあいつにも責任はあるし」
「まあ、それはしょうがないわよね」
茉希ちゃんが呆れたように笑いながら言って、俺も少し口元を緩める。
「でも本人は真剣だから、赤点だけは取らないようにしてあげたいんだよな。補習は何としても回避してやるって意気込んでたし」
「透くんらしいね。補習になっちゃうと、遊ぶ時間が減っちゃうから」
「そうそう。それでみんなと遊べなくなるのが嫌だって、俺に頭を下げてきたんだ。それなら茉希ちゃんに教えてもらったらよかったのにさ、どうしても見返したいんだって」
「アタシはうるさく言うだけだからね……透が楓を選ぶのもわかるわ」
ぽつりと言った茉希ちゃんの顔を見て、俺はようやく理解した。これまで透の面倒を見ていた茉希ちゃんが、急に透に頼られなくなって、ぽっと出た俺に役を取って代わられたと思ったんだろう。最近の不機嫌の原因は、恐らくそれだ。
「……そうじゃないよ、茉希ちゃん」
俺が茉希ちゃんの言葉を否定すると、茉希ちゃんは俯いていた顔を上げて俺の顔を見た。
「透は、いつも茉希ちゃんに勉強を見てもらってたから、引け目を感じてたんじゃないかな。ほら、男ってプライドだけは強いからさ。特によく見知った女の子相手には強がりたくなるもんなんだよ。要するに透は今回、茉希ちゃんにいいところを見せたくて、俺に勉強を教えてくれって言ったんじゃないかな」
透は決して茉希ちゃんをないがしろにしたかったわけじゃない。俺を頼る形にはなっても、茉希ちゃんの手を借りずに勉強を頑張って、自分もできるっていうことを彼なりに証明したかったのかもしれない。
「つまりお姉ちゃんは、透くんからしてみれば頼りやすいけど、茉希ちゃんが思っているようなことには絶対にならないってことだよね。そういう目で見てないってことだから」
茜ちゃんがそう言ったのを、俺は透の意志を汲み取って茉希ちゃんに伝えてくれたのだと思っていた。
「お姉ちゃんも、透くんをそういう目で見てるわけじゃないでしょ? そもそも菊池さんがいるんだし」
「うん……え?」
頷いて一拍おいてから、俺は思わず茜ちゃんに聞き返した。
「なんでそこで菊池さんが出てくるの? ていうか、そういう目って?」
話の方向がおかしいと思った。どうやら俺とこの二人の間で、何かの認識の違いがあるみたいだ。困っていると、茉希ちゃんが唐突に口を開いた。
「楓は透のこと、どう思う?」
「どうって……?」
質問の意図がわからなくて聞き返したが、茉希ちゃんは何も言わずに俺の顔を見る。俺が答えるまで、何も言わないつもりだろう。
「うーん……気を許してもいい友達かな、一応」
「ほら、わたしの言ったとおりだったよ?」
深い意味もなく答えると、俺の隣にいた茜ちゃんが自信たっぷりに茉希ちゃんを見やった。
「楓にはその気がないかもしれないけど、透がそうとは限らなかったし……」
「でも、さっきのお姉ちゃんの話だと、透くんにもそういう気はないってことだよね? むしろ茉希ちゃんのほうを向いてるって思ってもいいんじゃないかな?」
「……あのさ、さっきからこれ何の話?」
また二人が俺を置いて勝手に話を進めようとしたから、俺はもう一度二人に尋ねる。すると、茉希ちゃんは茜ちゃんに不安げな視線を送り、茜ちゃんはそれに頷いて応えた。その僅かなアイコンタクトの後、茉希ちゃんは珍しくおどおどといった感じで俺に言った。
「これから言うこと、笑わないで聞いてくれる?」
「笑ってほしくないことなら笑わないよ」
俺が言うと、茉希ちゃんはまた少し考えるように黙り込んで、息を吸ってから話を始めた。
「楓も気づいてたと思うけど、最近のアタシって機嫌が悪かったでしょ。それにも関係することなんだ」
「今の話が?」
「そう。アタシね、本当は不安だった。今まで何とか隠してきたけど、透が楓を頼って勉強をやり始めたって聞いてから、たまらなくなった。アタシのこれまでの立場が、あんたに取られたんじゃないかって」
そう、俺もついさっき、茉希ちゃんの気持ちを考えてみてたどり着いた。ずっと透のことを見ていた茉希ちゃんにとって、素直に喜べない複雑な部分もあったと思う。
「うん、それは……」
「違うの。楓は悪くない」
謝ろうとした矢先、俺の言葉は遮られる。驚いて茉希ちゃんの顔を見ようとしたが、目の前の彼女は暗い顔をして俯いていた。
「学校でも言ってたけど、みっともなかったんだ、アタシ。友達である楓を邪推したり、イライラして透に気持ちをぶつけたり。茜が言ったみたいに、アタシの気持ちを察してほしいなんて甘いこと考えてたんだ」
自分を責めるかのように言う茉希ちゃんは、普段の様子を知っている俺からすれば別人のように見えた。
「でも、それはアタシ自身が一番嫌なこと。感情に任せて周りに当たって、みんなに迷惑をかけてた。だからここで謝って、ちゃんと言おうと思うの」
そう言って顔を上げた茉希ちゃんは、ようやく普段通りの顔つきになったように思った。けれど、いつもと違うところが一つだけ。なぜかわからないけど、ほんのりと顔に赤が差している。考えなくても、これから話そうとしていることに関係があるんだとわかった。もとより俺も真剣に聞くつもりなので、少し前のめりになって茉希ちゃんの顔を見つめた。
「アタシは、たぶん、透のことが好き」
茉希ちゃんは短く、俺にそう告げた。
一瞬それが何を意味するのか、俺にはピンとこなかった。けど数秒経って頭が回り始めると、ああ、そうだったのかと不思議なくらいすんなりと腑に落ちた。
簡単なことだったんだ。茉希ちゃんが不機嫌になったタイミングも、理由も、さっきの意味深な会話の内容も、全部の辻褄が合う。
それと同時に、どうして今までその答えにたどり着かなかったのか、自分の鈍さにほとほと呆れた。
「透が好き。それを伝えなかったアタシが悪かったの。だから、楓には落ち度はないのよ」
「……そんなことないだろ」
俺が透と勉強していたことで、茉希ちゃんがどれだけ悩んだのか。ヒントは山ほどあったのに、俺はまた気づくことができなかった。
「本当にごめん。知らなかったとはいえ、茉希ちゃんを不安にさせたのは俺だよ。謝って済むかどうかもわからないけど……」
「い、いいのよ別に。楓に嫌な思いをさせたのは事実だし、理由を黙ってたのはアタシたちなんだから」
「たち? そういえば茜ちゃんは知ってたんだよね?」
「うん、けっこう前から。はっきり聞いたのは今日が初めてだけどね。それにこういう大事なことは、茉希ちゃんの口からちゃんと言わないと、意味がないと思ったから」
女の勘とはやはり恐ろしい。いや、これはやっぱり俺が鈍感なのか、考えが足りなかったんだろう。いずれは身に着けられないと、何度も同じ轍を踏むことになる。そして、すでに今回の失敗は起こってしまっている。挽回する機会があるとすれば、俺にできるのは一つしかない。
「茉希ちゃんが悩んでたのはわかったけど、それならやっぱり俺じゃなくて茉希ちゃんが透の勉強を見てやるほうがいいんじゃないか?」
「そ、それは透に不審に思われないかしら? それに、アタシも今は面と向かって話せる自信がないし……」
俺が茉希ちゃんの場所を奪って、透に近づきすぎたことが原因だ。それなら、今の俺の立場を茉希ちゃんに返せばいい。そう思ったのだが、予想よりも茉希ちゃんの心境がもどかしい状態になっていた。
「俺には散々、菊池さんにアピールしろとか言ってたのに」
「矛盾してるのは自分でもわかってるけど、アタシだってその、経験がないものだから」
「思い知ったか」
「……はい」
徐々にいつもの調子に戻りながら、俺たちは冗談を交えて恋話を始める。お昼の時に感じた茉希ちゃんの刺々しさや冷たさはすっかりなくなっていた。ただ、透の話になると少し顔を赤らめたり、照れたりすることがあって、普段はしっかり者の茉希ちゃんとは違って新鮮で、今の俺でも素直に「可愛い女の子だな」と思えるくらいだった。
これだけ恋に初々しい反応をする友達がいるなら、冷やかしたくなる気持ちもわかる。今まで茉希ちゃんはこんな気持ちで俺を弄っていたのか。それは妙な納得感とともに、俺の中で小さな悪戯心を芽生えさせた。
「明日、ちょっと俺に任せてくれないか? いい考えがある」
俺はそう切り出すと、二人に大まかな作戦を伝えて、その日は解散になった。