友達と時間
日が変わって、次の日の昼休み。俺は頭を悩みに悩ませて、頬杖を突きながら溜息をついていた。
「はあ……」
「楓ったら、また溜息ついてる。恋に悩む乙女は大変ね」
「そんなんじゃないよ、茉希ちゃん」
その姿勢のまま、俺の前に来た茉希ちゃんを見上げる。これからお昼ご飯で、最近はよく俺の机の近くに三人で集まって食べるのが習慣になっていた。
「それじゃあ何なのよ。恋の悩みじゃなかったらただ辛気臭いだけよ?」
「辛気臭いって……まあ、茉希ちゃんが気にするなら気を付けるけど」
「気にはなるけど、嫌ってわけじゃないわよ。悩みくらい聞いてあげたいじゃない。で、今度は菊池さんにどんなアプローチするの?」
「話聞いてたかな、茉希ちゃん?」
最近の茉希ちゃんはよくこの話題を持ち出して俺をからかおうとしてくる。初めはそのペースに振り回されて慌てたりしたけれど、今となってはもう慣れた。
「茉希ちゃん、お姉ちゃんの話聞いてあげようよ」
茜ちゃんも俺たちの会話に加わって、いつもの三人組が出来上がる。席を離れたクラスメイトの机と椅子を拝借してくっつけると、思い思いにお弁当箱を広げ始めた。
「聞いてあげるってば。で、何をそんなに悩んでるのよ」
「えっと……」
俺はちらっと教室を見回して、透がいないことを確認した。ついでに翔太も一緒に購買なのか、姿が見当たらない。男二人がいないなら好都合、と思い切って昨日のことを伝えてみた。
「透が勉強ぉ!?」
「しっ、声がでかい!」
驚いて大声を出した茉希ちゃんを宥め、もう一度教室を見回す。大丈夫、まだ透たちは戻ってきていない。周りも各々の会話に夢中でさっきの会話は聞こえていなかったようだ。
「あいつが楓にねぇ……珍しいこともあるもんだわ」
「よっぽどだったのかな、透くん。私たちを見返したいって」
「かもね。それで俺に頼んだんだと思う。一番意外性があったから」
「ふーん、あいつがねぇ……」
何かちょっと違和感がある。茜ちゃんからは驚きしか感じないけれど、茉希ちゃんからはそれだけじゃなくて、いつもとは違う何かを感じる。
「で、楓は何を悩んでるの?」
ひとしきり唸った後、茉希ちゃんは本題に戻って再び聞いてくる。その割には、俺の悩み事を聞く余裕はないように見えた。
「楓、聞いてる?」
「ああ、えっと……茉希ちゃんってさ、透にはどうやって勉強教えてる?」
「え、アタシ?」
「うん。前のテストの時は、透の勉強見てたんだろ? 俺も同じ教え方したほうが、透もわかりやすいとかあるんじゃないかと思って」
昨日の勉強は、とにかく形にならなかった。テスト明けにすっかり勉強癖が抜けた透は、普段の授業内容すら覚えてないという。実際、俺が問題集の基本の問題を解くように指示しても、教科書を何度も見てやっと理解するぐらいだった。
でも一度勉強を教えると約束した以上は、最後まで面倒を見てやりたい。幸いにも透の気持ちは強いようで、俺が教えている間はとても熱心に話を聞いていた。やる気はあるんだから、後は透が最も理解しやすい方法で教えてあげれば、絶対に赤点なんて取ることはない。
「アタシだって教えるのが得意ってわけじゃないし、特に変わらないと思うけど……。それにさ、透がわざわざ楓に頼んだんでしょ? アタシよりも頭いいわけだし、そういうことなんじゃない?」
茉希ちゃんはすぐに驚いたような顔を引っ込めて、まるで興味がないみたいにお弁当のおかずを口の放り込んだ。
「面倒見だって楓のほうがいいんだしさ。今回はアタシの出る幕じゃないわよ」
「そう、か? まあ、うん、でも……」
ここまで来ると、さすがに違和感の存在がはっきりしてくる。いつもの茉希ちゃんはもっと話しやすいのに、なんだか今はぴりぴりしてて、言葉を選ぶのが難しい。というか、なんで怒ってるんだろう?
「茉希ちゃん、茉希ちゃん」
「なによ、茜」
「マヨネーズ。唇についてる」
「え? あぁ……ありがと」
一番親しい仲の茜ちゃんにすら、鬱陶しそうに返事をしてる。やっぱり、いつもの茉希ちゃんらしくない。
居心地の悪さを感じて困っていると、偶然目が合った茜ちゃんが、俺に向かって微笑んできた。えっ、と思って返事をしようと口を開きかけると、茜ちゃんは立てた人差し指を口に当てて「しー」と内緒のサインを出す。
茜ちゃんも、茉希ちゃんの様子がいつもと違うことには気づいてるんだ。たぶん、その原因か理由も知ってるらしい。わからないことが多い俺が追及するよりも、付き合いの長い二人のほうが話しやすいこともあるだろう。ここは素直に茜ちゃんに任せることにした。
放課後になって、俺たちは居残り組と帰宅組に分かれる。茜ちゃんと茉希ちゃんに話を通したこともあって、俺と透は何も聞かれずに教室に残ることができた。翔太も割と素直に引き下がったと透が首を傾げながら報告してくれたから、この様子だと茜ちゃんあたりが翔太にも話をしたとみていいだろう。
さて、勉強の前に今日はやるべきことが一つある。透も暇そうだったので同行してもらい、昨日の花壇に向かう。本郷さんと須藤さんはすでに手袋を準備して待っていた。
「北見さん、わざわざ持ってきてもらってごめんね」
「家で使っていたものですから、心配しないでください」
そう言って、持ってきたトートバッグの中からスプレー容器を取り出した。
「それを噴きかけるだけでいいの?」
「はい。あ、殺虫成分とかはないんで、やっぱりマスクはしなくていいです。精神的に吸い込みたくないなら別ですけど」
「あら、そう? じゃあこのままで」
本郷さんはつけようとしていたマスクをポケットにしまって、俺からスプレーを受け取った。殺虫剤と提案はしたものの、倉庫を漁ってみるとよりいいものが見つかったので、それを持ってきたのだ。
「でも、殺虫成分がないならどうやって駆除するの? 効くのかしら、これ」
「効きますよ。直接的な害を与える成分は入ってませんけど、アブラムシの身体に噴きかければ窒息死させられるんです」
「窒息死? なんで?」
「ええとですね……簡単に言うと、このスプレーは噴いた後、乾燥してアブラムシの身体にくっついて、お腹にある呼吸器を塞いでしまうんです」
「お腹に呼吸器? ってことは、アブラムシって口で息してるんじゃないの?」
今世紀最大に驚いたみたいに本郷さんが言うと、隣で須藤さんが呆れた。
「そんなことも知らなかったのかよ……アブラムシだけじゃなくて、虫のほとんどは口で息しないんだぜ? これ、中学生くらいの理科の話だぞ」
「え、俺も知らなかった……」
最後にぽつりと漏らした透の呟きに、今度は俺が呆れてため息をつく。まあ、本郷さんもそうだったように、興味がないこととか覚えたくないことだってあるだろう。
「ええっと……とにかく、生き物に害を与える成分ではないので。これをアブラムシがついている葉の裏や茎に満遍なく噴きかけるだけで駆除できます」
「へぇー、便利なものもあるのね」
感心したように言いながら、スプレーをまじまじと見つめる本郷さん。俺はトートバッグからもう一つ、同じスプレーを取り出して須藤さんに渡した。
「サンキュ。しかし、北見はやっぱり手伝ってくれないのか?」
「ええ。すいませんけど、俺はお手伝いだけです。校内でも一人で歩くのは心配だって、妹に反対されたので……」
昼休みの後、茜ちゃんだけに相談してみたが、予想通りいい顔はされなかった。そもそも花の世話ならサルピグロッシスのこともあるし、アルバイトや定期検診でも家を空けがちだ。あまり茜ちゃんと一緒にいることができていない後ろめたさもあって、はっきりダメだと言われたわけではないけれど、花壇の世話は辞退しようと決めた。
「たまになら、そこのナイト君かお友達と一緒に来るのは大丈夫なんでしょ?」
「ええ、まあ。本当にたまになるかもしれませんけど」
「それでいいわよ。今回みたいに、私たちだけじゃどうしようもない困ったときに、あなたのところに行くわ。それほど頻繁にはならないようにするから」
俺が手伝おうが手伝わまいが、この人たちは困ったときに俺に助けを求めてくるらしい。まあ、一人で出歩くわけじゃないし、それなら断る必要もないか。
「わかりました。基本的にはいつも教室にいますから、何かあれば昼休みにでも来てください」
「助かるわ。それじゃ、早速始めちゃいましょうか、須藤君?」
「もう始めてるぜ」
本郷さんが呼びかけた先で、すでに須藤さんは葉の裏のアブラムシにスプレーを噴きかけているところだった。隣では透が興味津々に、その様子を覗き込んでいる。
「須藤君が振った話なのに、最後まで聞きなさいよ」
「本郷が引き継いだんだからいいじゃん。早く終わらせて帰ろうぜ」
本郷さんに返事をしながら、須藤さんはアブラムシがいる部分に満遍なくスプレーを噴射していく。それに倣って本郷さんも別のゼラニウムにスプレーを噴きかけ始めた。
花壇自体は小さく、ゼラニウムの数もそこまで多くはない。十分ほどで、ほぼすべてのゼラニウムにスプレーをかけ終えた。
「明日になったら目に見えてアブラムシが減っているはずです」
「期待してる。今日は本当にありがとう、助かったわ」
「いえいえ、また何かあれば言ってください。俺にできることなら協力しますから」
二人からお礼とともに殺虫剤を回収して、その場を後にする。
「あんなこと言って、大丈夫なのか?」
俺の後ろについてくる透が不機嫌そうに言った。
「何が?」
「手伝うってやつ、お前にそんな時間があるようには見えねーけど」
「まあ、確かに暇じゃないけどさ。たまになら大丈夫だよ。透の勉強もちゃんと見てやるから。ひとまず害虫駆除はできたから、しばらくは落ち着くさ」
「俺のことはいいんだよ。それよりも、もっと茜や茉希とも遊んでやってくれ」
透の予想外の台詞に、俺は思わず振り返っていた。
「珍しいな、そんなこと言うなんて」
「ここんとこお前、何かと忙しくて二人と遊んでねーだろ? 俺や翔太も同じだけど、女子同士ならもっと頻繁に遊びに行けばいい」
透のその言葉でふと、お昼の茉希ちゃんの態度に違和感があったことを思い出す。茜ちゃんとの時間は気にしていたけど、茉希ちゃんもそうだったんだろうか。だんだんと透の言葉が至極正しいように思えてきて、どこかで時間を作って二人を遊びに誘いたいと考え始めた。
しっかりと纏まった時間を作るとしたら、テストを乗り越えて夏休みに入ってからになる。アルバイトも今より入れるようになるけど、同じくらい遊びの時間も作れるはず。そのためにも、透には期末テストを頑張ってもらわないと。