ゼラニウムの危機?
体育館の入り口を横切り、花壇のある裏庭へと足を踏み入れる。放課後になったばかりで運動部もまだ活動していないらしく、威勢のいい掛け声もない。もちろん、人の気配はまったくなかった。
そして、そこにあったのは色とりどりの花ではなく、青く茂った膝ほどの高さもない植物だった。
「そっか、もう夏が近いもんね……」
ゼラニウムには季節性のものと通年性のものがある。ここに植えてあるような季節性のゼラニウムの開花時期は、4月初めから6月の終わりまでだ。梅雨が明けた今はもう、雨で花弁が落ちて葉っぱだけになっている。でも、ゴールデンウィークに見た時よりは色もいいし、世話が行き届いているのがよくわかった。
「本郷さん、ちゃんとしてくれてたんだ」
俺のための追悼の花を俺自身が甲斐甲斐しく世話をするのは、なんだか躊躇いがあって避けるようにしていた。もちろんそれだけじゃなくて、中間テストでの一件やアルバイト、コーエイたちのこともあったので、今までなかなか来ることができなかったのも事実だ。その一方で、本郷さんが一人でちゃんと世話ができているかも気になっていた。
ゼラニウムは高温多湿を嫌うので、無事に梅雨を乗り切ったのは安心した。ここは風通しもいいし、強い日差しが直接当たることも少ないので、真夏でも水やりさえ怠らなければ枯れることはなさそうだ。と、思った矢先に植物の天敵を発見した。
「うわあ、こりゃまた、びっしりと……」
葉の裏や茎にくっついて、よく見ると少し動いている緑色のブツブツ。目を凝らすと透明に近い白い色の足が六本と、頭から生えた糸のようなツノがチロチロと動いている。植物に寄生して養分を吸い取る害虫、アブラムシだ。
「お前、何してんだ?」
「うわっ」
じいっとゼラニウムを見ていたら、背後から声をかけられてびっくりした。いつの間にかそこにいた男子生徒が、怪訝な顔をして俺を見下す。
「だ、誰?」
「そりゃこっちの台詞だよ。この花壇に何か用?」
じろり、と怖い顔で睨まれて臆してしまい、次に話す言葉を探せなくなる。そのまま数秒の膠着状態。
「おまたせ……って、なにこの状況?」
そこに遅れて現れたのは丸い眼鏡の女子、二年のクラス委員長の本郷さんだった。
「遅えよ。ていうか先客がいるんだけど、聞いてねえぞ?」
「あー、うん、私もびっくり。また北見さんが来てくれるなんて」
「お、お久しぶりです」
ようやく見知った顔に会えて心底ほっとした。
「えっと、こちらの方は……?」
「ああゴメンゴメン。今日は助っ人に男子を呼んでたのよ。同じクラスの須藤君」
「うっす。なんか驚かせたみたいで悪かったな。あんた一年か?」
「あ、はい。北見楓です。以前この花壇で本郷さんと会って」
「肥料のあげ方をレクチャーしてもらったの。おかげで枯れずにすんだよ、北見さん」
嬉しそうに花壇を指差して笑う本郷さんに、俺も大きく頷いた。
「それはよかったです。でも、俺は全然お世話できなかったので、本郷さんの頑張りのおかげだと思いますよ」
「ありがとう。花も元気になってくれたし、そう言ってもらえると頑張った甲斐があったわ。けど、最近はちょっと嫌な奴らがまとわりつき始めてね……」
「嫌な奴? もしかして、アブラムシのことですか?」
俺が言うと、本郷さんは驚いて丸くなった目をこっちに向けた。
「もう見たの? っていうか、こいつらアブラムシって言うんだ……初めて知った」
「なんだ、虫を駆除してくれっていうから仕方なくついて来たのに、ただのアブラムシかよ。ゴマくらいのサイズなんだから、オレがいなくても何とかできるだろ」
「口だけならどうとでも言えるわよ。問題は大きさじゃなくて数なの。数がとにかく多いの。葉っぱとか茎とかにびっしりついてて……ううう鳥肌が……」
前屈みになって腕をさする本郷さんを見て、ちょっと納得してしまう。虫が嫌いな人ならこれくらいの反応が普通だ。そうじゃなくても、あの大量のブツブツが細かく動いているのを見たら、気持ち悪いと思わなくもない。一匹一匹を見ていればそうでもないんだけど。
「北見さんはよく平気よね? 普段から花の世話している人なら何ともないのかな……?」
「特に何も思わないですね……ただ、このまま放っておくとどんどん増えて、花の元気がなくなっていきますから、早いうちに駆除しましょうか」
「駆除って、こんなのどうやって?」
ゼラニウムにびっしりついたアブラムシを見下ろして、本郷さんが青ざめながら言う。それを見て、須藤くん――いや、今は先輩だから「さん」づけで呼ばないと変か――は呆れたように言った。
「お前、ノープランでオレに助けを求めたのかよ……」
「こんなのどうすればいいかわからないじゃない!」
「ま、まあまあ落ち着いてください。数は確かに多いですけど、一匹一匹は大したことないですから、殺虫剤で一掃すれば……」
「そんなの持ってるか?」
「持ってないわね……」
「俺の家にありますよ。明日でよければ持ってきましょうか?」
顔を見合わせて困った様子の二人にそう提案すると、本郷さんはぱっと顔を明るくした。
「本当? それなら助かるわ!」
「でも明日ってことは、今日できることはないのか」
「そうですね、駆除は明日の放課後ということで。念のため、マスクと軍手を持ってきておいてください」
俺の言葉に二人は頷いた。
「んじゃあ今日は解散か。結局無駄足だったな」
「そんなことないわよ、北見さんと会えたんだもの。ね、時々でいいから、花壇の世話できないかしら? 今は私と須藤君でなんとかやってるんだけど、あまり積極的になってくれる人がいなくって」
「俺が、ですか?」
本郷さんからのお願いに、俺は返事を躊躇った。本人たちは知らないが、このゼラニウムは男の俺が死んだときに植えられた花で、言ってみれば俺への追悼の意が込められている。そんな花を俺が世話するのは、やっぱりどこか迷いがあって。
「お願いっ、週に一回だけでも、水やりしてくれるだけでいいから!」
「オレからも頼むわ。少しでも人手が欲しい」
決めかねていると、本郷さんに加わって須藤さんからもお願いされる。それに、ゼラニウムが枯れないかどうか、気になっていたのも事実だ。それならやっぱり、俺も二人を手伝って世話をするほうがいいように思えてくる。
残る問題は、あと一つ。
「あの、実は……」
「おーい楓、こんなところにいたのかー」
唐突に後ろから間の抜けた声で名前を呼ばれる。振り向くと、手を振りながら坊主頭の男子がこっちに向かって小走りで近づいてきていた。
「透? どうして?」
「いや、勉強見てくれるって約束しただろ。教室で待ってても戻ってこねーし、探してたんだぞ」
予想以上にここで長居してしまったらしい。本郷さんとまた会えるとは思ってなかったし、ゼラニウムが新たな問題を抱えていたこともあって、話が長くなってしまったようだ。
「ごめんな、もう戻ろうとしてたところ……」
「あなたって確か、北見さんとよく一緒にいるよね?」
俺の台詞が終わるか終わらないかのところで、本郷さんが質問を被せてきた。尋ねられた透のほうは、一瞬驚いたような顔をした後、俺の顔の近くで囁いた。
「えっと、誰?」
「ちょっと知り合いの先輩たちだよ」
「知り合い? まあ、楓に纏わりついてるとかじゃないんなら、いいけど」
「そんなんじゃないって」
「本郷、俺たちだいぶ嫌われてるみたいだぞ」
「初対面なのにそれはショックね。でも、あなたっていわゆる北見さんのアレなの?」
本郷さんが再び透に質問を投げかける。アレ、というのは何だろう。なんだかふわっとした質問で、俺は真意がわからずに首を傾げる。隣に立つ坊主頭のほうに視線を向けると、透もよくわからないといった顔をしていた。
「本題はそっちじゃないだろ。ええと、北見の友達みたいだけど」
「おう。一年上の先輩方が、俺たちに何か用でも?」
「……何で喧嘩腰なんだよ」
「こ、こらっ、先輩に失礼すんな!」
須藤さんが透の言葉遣いに突っ込んだことで、俺はぎょっとして透の腰を叩く。
「すみません、よく言っておきますから」
「いいのよ、気にしてないから。ひとまず、あなたが北見さんを守っているナイトだってことはよくわかったわ」
「あ? 俺は桐山透って名前なんだけど」
「ナイト」って単語を「騎士」じゃなくて「夜」というふうに訳したらしい。透は名前じゃなくて肩書きの話だということに気づいてない様子だ。もっとも本郷さんは深く考えずに、「そう、桐山君ね」と流してしまった。
「実は北見さんにお願いがあってね、私たちのお手伝いをしてもらえないかと思っているの。この花壇の花のお手入れなんだけどね、私たち二人だけじゃ、どうしても人手が足りなくて。よかったらあなたからもお願いしてくれないかしら?」
「花壇の? あー、そういや楓って花に詳しいんだっけか?」
「ああ。でも、茉希ちゃんと茜ちゃんには、どう話したらいいかって思っててさ……」
「楓自身はどうしたいんだ?」
「もちろん、手伝えるならそうしたいよ。でも、一人で行動できないっていうのが枷になってて。誰かについて来てもらうのだって気を遣うし、かといって帰りが遅くなると茜ちゃんたちが心配するし」
さっき本郷さんにいいかけていたことを透に相談する。結局はここが一番の問題で、俺が一人で自由に動けないと、そう頻繁に手伝いに来ることはできない。
「そこはそれ、あなたが北見さんのこと守ってあげなさいよ」
「それ自体は、まあ、いいけどよ。何か他人に指示されると腹が立つな」
「そういうこと言うなって! すみません、本当に」
「あはは、いいわよ。まあ、すぐに返事してとは言わないわ。あなたもいろいろ大変だったみたいだし、気が向いたらここにおいでよ。いつでも歓迎するから。あ、でも明日だけは来てね? この虫、早く駆除したほうがいいんだろうし」
「あ、はい。明日の放課後は必ず」
そう、アブラムシの対処は早急に行わなくては。二人が解決できないことなら、さすがに俺が手を貸すしかないだろう。まあ、殺虫剤があればなんとかなるし、難しいことではないんだけれど。約束は約束だ。
「じゃあ今日は解散ね。ナイト君、お姫様を引き止めちゃってごめんなさいね。私たちはお花に水をあげてから帰るから、どうぞお先に」
「あんた、なんでいちいち俺のこと間違えて……」
「いいから! すみません、お先に失礼します!」
俺はぺこりと頭を下げた後、透の腕を掴んで足早にその場を去った。本郷さんの言葉の意味が分かってしまって、急に恥ずかしくなったからだった。
「早いうちに、茉希ちゃんと茜ちゃんに相談するか……」
自分の行動を省みて独りごちる。あまり透と二人きりで行動するのは、周りにいらない誤解を招くことになりそうだ。放課後に残るのも、どこか人目につかないところのほうがいいだろうか……。
やっぱり一人で行動できたほうが便利だ。そう思いながら、俺は透を引き連れて校舎へ戻って行った。