期末テストに備えて
週末が明けて、いつもの学校生活が戻ってきた。
「楓、起きてっか?」
「ん……」
机に突っ伏していた俺は、珍しく声をかけてきた透に起こされる。今は昼休みで、昼食を食べ終えた後に軽く寝ようとしていたところだ。
「邪魔した?」
「いや、別に……何か用?」
「実はちょっと相談があって。もう少ししたら期末テストあんだろ?」
「あー、うん、そうだな」
もうすぐ梅雨が明けて、学生の一大イベント、夏休みがやってくる。しかし、それを謳歌するためには直前に実施される期末テストを乗り越えて、欠点と補習を回避しなくちゃいけない。
だからか、最近の教室の中は嫌に騒がしくて寝られない。夏休みに興奮を抑えられないのも、期末テストが迫ってきて焦るのもわかるんだけれど。
「それで、テストがどうかしたの?」
「単刀直入に言うと、勉強を教えて欲しい」
「勉強を? ああそっか、テストに備えて勉強……え?」
寝ぼけていた俺は、はっとして透の顔を見て、自分の目と耳を真っ先に疑った。
「頼む。俺に勉強を教えてくれ」
今度ははっきり聞こえた。透が、しかも俺に坊主頭を下げて「勉強を教えてくれ」って。
「……何してんだ?」
「いや、熱でもあるんじゃないかと」
俺は透の額に手を当てて温度を測ろうとしたが、その手首を思いっきり掴まれて、ずいっと顔を近づけられた。
「ふえっ?」
「言っとくけど真剣だからな? 真面目に話してんだぞ」
「ご、ごめんって。でも、中間テストの時とイメージが違いすぎて……なんでまた?」
いきなり顔を近づけられたからびっくりした。少し透から身体を遠ざけながら、今度は真面目に理由を聞く。
「中間でやばい教科がいくつかあったんだ。期末でそれを落としたら、夏休みに補習が入っちまう。俺はみんなと遊ぶ時間を減らしたくない。だから、今回は何としても乗り切りたいんだよ」
「理由としてはもっともだけど、どうして俺なんだ?」
勉強なら中間テストの時、みんなで家に集まってやった。わざわざ俺一人に言わなくたって、またみんなで集まって勉強すればいいだけのことに思えたんだけど。
「……言うけど、笑うなよ?」
「え? ああ、うん。笑わないからさ」
透はさっと周囲を確認した後、そっと顔を近づけて囁いた。
「できるだけ、あいつらに勉強してるのがバレないようにしたい」
「……は?」
「だから、勉強してるっていうの、内緒にしておきたいんだよ。そんでいい点を取って、あいつらをびっくりさせてやりたいんだ」
「なるほど、そういうことね」
聞いた話だと透の中間テストは、全体的に散々とは言わないものの、酷い教科は本当に目も当てられない点数だったらしい。五人の中では一番勉強していなかったし、それに順じた結果になったということだ。
影ながら勉強してみんなを見返してやりたいと思う気持ちは、わからなくはない。
「わかった。俺でよければ勉強に付き合うよ」
「よっしゃ! よろしくな、楓」
「いつから始めるつもり?」
「今日の放課後から。ああそうだ、みんなには適当な理由つけて遅くなるって言っておいてくれ。帰りは送って行ってやるから大丈夫だろ?」
「はいはい」
帰りも透と一緒で一人じゃないなら、茜ちゃんたちも反対はしないだろう。まあ、たぶん茉希ちゃん相手に隠し事は無理だろうけど……と心の中で思いながら、俺は離れていく透の背中を見送った。その直後にチャイムが鳴り、お手洗いへ行っていた茜ちゃんと茉希ちゃんが戻ってくる。
「透とどうかしたの、楓」
「ちょっと話をしてただけ」
「ふうん、珍しいね?」
俺の視線を追った茉希ちゃんは、すぐに気づいて俺に問いかけてきた。
「実は放課後に用事ができちゃって。今日は悪いけど先に帰っててくれないかな」
「えっ、だめだよお姉ちゃん、一人で出歩くなんて」
茜ちゃんはすぐに俺の身を案じて反論する。これは元から予想していたことなので、大したことじゃない。
「大丈夫だよ。何か透も用事があるらしくて、帰りは付き添ってくれるみたいだからさ」
「ふうん、透も? 珍しいわね、何の用事なのかしら」
「それは知らないけど……」
言い訳そのものはそれぞれ考える方針なので、俺はとぼける。
「ちなみにお姉ちゃんは何の用事?」
「俺は、その……そう、体育館横の花壇の様子を見ておきたいんだ」
「そんなところに花壇なんてあったの?」
「まあ、目立たないところだし。二年生のクラス委員長が一人で世話をしてて、その様子が気になってるんだ。それでちょっと遅くなるかもしれないから、二人は翔太と一緒に先に帰っててよ」
咄嗟に出てきたことだったけど、前々から気になっていたのは事実だ。体育館までの渡り廊下から見る限りは花も元気だし、本郷さんはしっかり世話をしてくれているようだったけど。花壇の世話を一人でするのは想像よりも大変だから、一度ちゃんと見ておこうと思ったのだ。
できるなら毎日、花壇の様子を見るだけじゃなくて世話も買って出たいのだけれど、うちのサルピグロッシスも大事だし、夕方からは茜ちゃんの手伝いもある。それに俺はまだ、一人で出歩くとみんなに心配される身なのだ。茉希ちゃんやクラスの女子によれば、他クラスや上級生の男子が未だに目を光らせているとのことで、クラスの外に行くには彼女たちの同行(というか勝手についてくる護衛)が必要だった。
もちろん誰かに言えば一緒に行ってくれるかもしれないけれど、暇な人ばかりでもないし、付き合わせるのは悪い気がする。というわけで、なかなか放課後に一人での自由行動は制限されていたのだけれど、この機会に透の名前が使えるのなら、存分に活用させてもらおうと思った。
「そういうことならいいんじゃない? 透も一緒だって言うし、一人じゃないなら大丈夫でしょ」
「そうだね。でもお姉ちゃん、気を付けて帰ってくるんだよ?」
「わかってるって。ほら、授業始まるよ」
二人に事情を話している間に本鈴が鳴り、数学の榊先生が教壇に上がる。このクラスの担任でもある先生の授業は、わかりやすいので生徒からの評価が高い。その上、担任特権で授業の終わり間際にHRの連絡もしてくれるので、次の授業が終わり次第すぐに放課後になるのもありがたかった。
ただ一つ問題があるとするなら、その最後の授業というのが化学だということだ。字が汚い・聞き取りづらい・教え方が雑といった最低三拍手の鹿角の顔を最後に見なくてはならないのは、なかなかの苦痛だと思った。
チャイムの音で、俺の意識は夢の世界から現実に引き戻された。
「んあ……」
いけない、そう瞬時に思って手元のノートと黒板を見比べる。わかりにくい字だったが、なんとか内容は漏らさずに書き写していたようだ。これで一番苦痛だった化学の授業が終わり、鹿角が教壇から降りる。
「ん?」
その拍子に鹿角は、何か冊子のようなものを落としてしまった。すぐに気づいて拾い上げる様子を、茉希ちゃんが割と近い距離で見ている。授業に使うようなものじゃなさそうだけど、あのオッサンの私物かな? まあ、気にしてもしょうがないか。
何はともあれ放課後だ。俺はひとまず、茜ちゃんと茉希ちゃん、翔太の三人と一緒に昇降口まで向かった。
「他人の世話してる花も気にするなんて、ほんとに楓は変わってるわね」
「そんなことないよ。犬が好きな人なら、隣の家で飼われてる犬も可愛いと思うだろ。それと一緒」
「ふーん、そんなものかしら」
「俺はちょっと、わからないかも……」
「翔太君、犬は苦手だったっけ?」
「え、いやっ、そんなことは……ちょっとだけだよ」
茜ちゃんに思わぬ弱点を曝されて必死に弁解しようとする翔太。俺は別に「そうなんだ」くらいしか思わないし、特に恥ずかしがる必要はないと思うんだけど。その慌てぶりを見て、俺は茜ちゃんと顔を合わせてクスリと笑ってしまった。
「とにかく、楓はあんまり遅くならないようにしなさいよ。いくら透がいるって言っても、油断はいけないんだから」
「わかってるよ。みんなには心配かけないようにする。何なら帰る前に電話もするよ」
そう答えて、校門へ向かう三人を見送った。
でも実は、そろそろ一人で行動しても大丈夫じゃないかと思い始めている。茜ちゃんたちには心配をかけないからなるべく一緒に行動することを守っているけれど、バイトの行き帰りは一人で問題ないし、下校の時の尾行もなくなっている。実際、茜ちゃんや茉希ちゃんが過保護なんじゃないかって思い始めていた。
実際、三人と別れて俺だけになっても、こっちを気にする生徒はほとんどいない。外にいるから生徒が少ないというのもあるけど、運動部も熱心に部活をしているせいで俺に気づかないみたいだ。
「やっぱり心配しすぎなんじゃないかな……」
そうぼやきながら、俺は体育館裏の花壇へと向かった。