フクジュソウの男の子
「え、一緒に来るわけじゃないんだ?」
翌日の朝食の席で、意外なことを聞いた俺はそのまま口にした。
「わたし、一旦家に帰らなくちゃいけないから。昨日の着替え、早くお洗濯しないといけないし」
「それに行ったところで、まだお店開いてない時間帯でしょ? だったら時間をおいて後で合流したほうが、アタシたちも仕事の邪魔になりにくいと思って」
「ふうん、そういうことか」
結局は二人とも来るということなので、遅いか早いかだけで俺にとってはあんまり変わらなかった。仕事の邪魔とまではいかなくても、気になるものは気になる。
朝食を食べ終えて軽く身支度を済ませると、いい感じに出発する時間になる。茉希ちゃんの家は駅に近いので、いつもよりは遅い時間でもゆっくりはできた。ただし、今日一日のことを考えるとあまり心は休まらなかったけど。
「それじゃ、先に行くね」
一声かけて玄関で靴を履き始めると、茉希ちゃんと茜ちゃん、それに茉希ちゃん母まで出てきてくれて見送りしてくれた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
「しっかりやるのよー」
「わかってるよ。お邪魔しました。夕飯、美味しかったです」
「あらあらどうも。またいつでも遊びに来てね」
それぞれに挨拶を済ませて、茉希ちゃんの家を出発する。その直後にふと、あくびが出てしまった。それは昨夜ガールズトークで盛り上がって布団に入るのが遅くなったこともあるが、もう一つ見落としたことがあったから。
「抱き枕なしだと本当に眠れないんだなぁ……」
茉希ちゃんの家にはお客さん用の布団がちょうど二人分あったので、俺と茜ちゃんはそれを貸してもらったのだが、別々になったせいかまた寝つきが悪かったのだ。
今日は久々に晴れて日差しも明るいのに、疲れと寝不足のせいで瞼は重い。アルバイトで動き回っていれば眠りはしないけど、今日が学校だったら間違いなく居眠りコースだった。
日曜の午前中の電車は比較的空いてるから、座れたら少し寝よう。乗り過ごしだけには注意しないとな。
バスの中でも少し寝て、ペイスへは問題なく辿り着いた。開店準備を始めている柊さんを手伝い、倉庫で着替えて、いつもの在庫チェックから俺の仕事が始まる。
「もうずいぶん慣れたわね~」
ふと褒められて、俺は後ろを振り返る。柊さんはどうやらレジで俺の様子を見ていたようだ。
「ほんとですか?」
「手際がいいもの、仕事を覚えてきてる証拠ね。愛想もいいおかげでお客さん増えてきてるし、本当に楓ちゃんさまさまだわ~」
「それはよかったです」
園芸の知識がちょっとあるだけの俺なんかでも役に立てているようで、褒められたことが素直に嬉しい。ただ、それでも俺はまだ生花や鉢をいじる仕事を任されていないことが気にかかっていた。
週に二日というペースは仕事量としても決して多くない。だから仕事を覚えるのにも上達するのにも、菊池さんや優希さんよりも時間がかかっているはず。それならまだ触らせてもらえないのもしょうがない、そう考えて今の仕事をしっかりやることに考えをシフトさせた。
「いらっしゃいませー」
人が入って来たのか、柊さんがいち早く反応して明るい声を上げた。奥で土の品出しをしていた俺も、遅れてそれに倣う。この状況なら、そのまま柊さんが接客に当たるだろう。
「何かお探しですか?」
「あ、いえ、特に決まったものはないんですが、この子が少し見たいからと……あっこら、勝手に触ったら痛むでしょう? やめなさい」
「少しなら平気ですよ。ボク、その代わりに優しく触ってね~?」
どうやら小さい子供連れのお母さんのようだ。柊さんの対応を聞いた限り、男の子が入ってきたらしい。けど、珍しいな。男の子が花屋に入りたいなんて言うなんて。まるで一昔前の俺みたい――
「フクジュソウってありますか?」
――――ん?
「え、フクジュソウ……?」
たぶん男の子が柊さんに尋ねたんだろう。一瞬聞き間違いかと思ったけど、柊さんが声に出して尋ね返したあたり、男の子は確かにそう言ったようだ。
「えっと、フクジュソウは春先の花だから、今はないかなぁ~……」
「……そうですか」
明らかに落胆した声が俺の耳にも入ってくる。それにしても、この声どこかで聞いたことがあるような? 気になって俺も店先に顔を出すと、ちょうど男の子が顔を上げて、俺と目が合った。
「――あ」
小さく男の子が声を漏らす。俺も声を出しそうになって、ぐっとそれを飲み込んだ。見たことがある、その直感だけで反応しそうになったのを堪えて、頭の中のデータを必死で検索して――
「そ、星くん?」
俺が呼ぶと、さっきまでの落胆の表情はどこへやら、喜色満面で俺のほうへ駆け寄ってきた。
「楓、久しぶり!」
俺を少し見上げて元気よく挨拶する、病院で一度だけあったことのある小学生の男の子。あのときよりもさらに明るい顔で、入院していたなんて言われなきゃわからないくらいだった。
「楓ちゃん、あなたのお知り合い?」
「あ、そうです。以前お会いしたことがあってそのときに……」
「一緒に絵を描いて遊んだんだ! 楓、覚えててくれたんだな!」
「あはは、まあね」
世間一般の男の子は俺と違って、花のお絵かきなんてつまらないだろうと思っていたけど、星くんの言葉を聞く限りでは本当に楽しかったようだ。おじさんからは退院したことと、あれ以来は車や飛行機よりも花や植物が好きになったということをちらっと聞いていた。
「退院おめでとう。まさか、花屋さんに来るなんて思わなかったよ」
「オレも、楓がいるなんて思わなかった! ぐーぜんだな!」
「そうだね、偶然だね」
星くんのテンションがやたら高いのは、俺とまた会えたことが嬉しいからだろうか。よくわからないけど、なんだか俺も嬉しい気持ちになって、一緒に笑顔を浮かべた。
「楓さん、お久しぶりです。先日は本当にお世話になりました」
「ああ、いえ。俺も楽しませてもらいましたから」
星くんのお母さんが丁寧に挨拶をしてきたので、俺もぺこりとお辞儀をする。改めて対面してみると、とても物静かでお淑やかな女性だった。
「星ったら、あなたに会ってから人が変わったように明るくなったんです。よほどあなたとの遊びが楽しかったんでしょうね」
「あはは……そう言っていただけるとほっとします」
ファーストコンタクトからかなり元気っ子なイメージがあるけど、母親が言うのなら変化はあったんだろう。ただ、元気すぎるのもちょっと考え物だな。この様子だとお母さんを振り回して困らせていることも簡単に想像できる。ここへ来たのだって、たぶん星くんが行ってみたいと強く言ったからだろう。
「さあ星、もうそろそろ行きましょう。お姉さんのお仕事の邪魔をしてはいけませんから」
「えー、でもまだフクジュソウが……」
「ないって言われたでしょう? 時季が合わないんですから、仕方ないわ」
そう言って、母親は先に店の外へ出てしまう。星くんはすがるように俺を見上げたけど、さすがに梅雨の時季に春先の花は手に入らない。株や種なら取り寄せができるかもしれないが、花はもうないだろう。
俺が答えないのを悟って、星くんはがっくりと肩を落としながら店の外へ歩き出す。
「あ、待って」
俺はあることを思い出して、その背中を呼び止めた。
「星くんはフクジュソウが欲しいんだったよね?」
「うん……」
「わかった。店長、ちょっと相談が……」
俺は柊さんに耳打ちして、とある機材の使用許可を仰いだ。理由を伝えると、柊さんはにっこりと笑って承諾してくれた。
「もう少しだけ待ってて?」
星くんにそう言い残して、俺は店の奥の倉庫に引っ込む。スチールラックの棚に乗せてあった機材の電源を繋ぎ、温めている間に材料を引き出しから見つけ出した。
「フィルムとハサミと、あとは絵だな」
さっき柊さんに許可をもらった機械――ラミネーターが温まったら、二枚のフィルムの間に絵をはさんで機械に通す。そうすることで熱でフィルムの端が閉じ、手作りの栞やカードが作れるのだ。
「よかった、ずっと持ってて」
俺はハンディサイズの図鑑に挟んでいたフクジュソウの絵を、フィルムよりも少し小さめにカットしてから挟んで、ラミネーターに通した。星くんと遊んだ時に、一枚目に描いた絵だ。彼もこれを思い出して花屋に探しに来ていたんだろう。
機械の反対側から出てきたカードを空気にさらして冷やしたら、すぐに星くんのところへ戻る。
「お待たせ。はい、これ」
「――あ!」
俺が作ってきた栞の絵を見て、星くんは目を驚きに丸くする。
「さすがに本物のフクジュソウじゃないし、メモ帳に描いたやつで色も塗ってなくて……急ごしらえでごめんね。でも、手ぶらよりはいいかなって」
「これ、もらっていいの?」
「うん。せっかくだから、退院のお祝いにどうぞ」
頷くと、これ以上ないってくらい顔を輝かせる星くん。フクジュソウってだけでこんなにも喜んでくれるとは思わなかったな。押し花を作るって手もあったけど、こっちで正解だったようだ。
「楓、ありがと!」
「いいよ。ほら、外でお母さんが待ってるぞ」
「おう! また来るからな!」
鉢の間を駆け抜けて、星くんは母親のもとに戻っていく。母親は星くんを迎えると、俺と店長のほうに一礼してから彼の手を引いてその場を後にした。
「花が好きな男の子なんて、まるで小さい菊池くんねぇ。でもまさか、楓ちゃんと知り合いだなんて思わなかったわ」
「俺もびっくしりしましたよ。ここで会えたのは偶然ですけど、あんなに花のことが好きになってるなんて思いませんでした」
「何はともあれ、新しいリピーター獲得ね。今度からの目当ては花だけじゃなくなるだろうし」
「目当て?」
俺は尋ね返したが、柊さんは意味深な微笑みだけを俺に見せて、レジに戻っていった。なんだかわからずに首を傾げるが、思い返してみれば今は仕事中だ。倉庫で使った道具を片付けたら、また品出しに戻らないと。
「また来る、か……」
なんとなく、昨日の夜にお別れした三人のことも思い出した。あの三人のほうがはるかに大人びていたけど、星くんとそこまで歳の差があるように思えない。そんな彼らと偶然出会って、仲良くなることができて。
そう考えると、なんだか俺と彼らの年代には、何かしら繋がりがあるのかも……とか。間違っても俺の精神年齢が低くなったとは思いたくないけど。
「楓ちゃん、ちょっといいかしらー?」
「あ、はい、今行きます」
そうだった、ふわふわしたことを考えるよりも仕事だ。俺は大急ぎで柊さんがいるレジのほうに向かった。