約束
脱衣所を出てすぐ、俺はまだ湿った髪をタオルでまとめ上げたまま、自販機で買ったサイダーに口をつけた。そのままぐいぐいと流し込んで、ビールを一気飲みするオヤジのように深いため息をつく。
「ぷはーっ」
「おっさんくせーな、楓は」
「うっさい、飲まずにいられるかってんだ」
と、先に上がっていた透と居酒屋のような掛け合いをする。俺は女湯に入った四人の中で一番早く出てきたけど、男子四人はそれよりも早く上がって涼んでいたようだ。
「あーやっぱり、お姉ちゃんが拗ねちゃってるよ」
俺が今回やさぐれる原因となった三人が女湯から出てくる。みんなずぶ濡れだった身体を洗い、服を着替えたおかげでさっぱりした顔をしていた。
本当は俺もそうなのだが、中で起きたある出来事のせいでご機嫌斜めになっていた。俺はつーんとそっぽを向いて、また炭酸のペットボトルに口をつける。最初の一口目で一気飲みするつもりだったのだが、炭酸がきつすぎて飲み干せず、サイダーはまだ三分の二くらい残っていた。
「ちょっとやりすぎたかしら? でもねー、そろそろこういうのにも慣れてもらわないと」
「慣れるって……普通はあんなことしないだろ」
ジト目で見やると、茉希ちゃんは悪戯っ子のようにぺろっと舌を出し、茜ちゃんも両手を合わせて謝った。
「嫌がる姿があんまりかわいいもんだから、つい」
「ごめんね、機嫌直して?」
「むー……」
炭酸をちびちびと飲みながら二人の謝罪に取り合わないスタンスをとる。ちょっとやそっと謝られたくらいでは、今回受けた辱めをなかったことにできない。だから今日はとことん反省させてやろうと、俺は不機嫌な態度を貫くつもりだった。
「楓はもっと大人なのかと思っていたのに、案外子供ですのね。拗ねるなんてみっともないですわ」
「むっ」
横で牛乳瓶のキャップを開ける晴香ちゃんに、不敵な笑みを向けられながら言われてしまう。
「おー、晴香ちゃんナイス。もっと言っちゃえー」
茉希ちゃん、囃し立てたってことは俺の敵ってことでオーケーなのかな? 反省すれば許してやろうかとも考えていたけど、再び怒りの炎がメラメラと俺の中で燃え始める。
「やめてよ茉希ちゃん、これ以上は本当に機嫌悪くなっちゃうから」
「でも、同性にちょっと胸を揉まれたくらいで騒ぐのは、ちょっと品がありませんわ」
「っ――けほっ、けほ!」
晴香ちゃんが今日の惨劇を口にしてしまい、俺は思いっきり咽せて、周りのみんなはフリーズした。他の人がいない貸切状態だったのがせめてもの救いだった。
が、男子に聞かれて俺の醜態を想像させてしまったのは間違いない。
「は、晴香ちゃん、そういうのは言っちゃだめだよ」
茜ちゃんもさすがに驚いて、晴香ちゃんを諭そうとする。
「あの程度なら挨拶のようなものですわ」
「そんなわけないだろ!? 鷲掴みされたしちょっと痛かったし!」
「お姉ちゃん敏感なんだね……じゃなくて、そういうことを大声で言うのはやめたほうが」
「だぁー! 俺はなんてことをー!」
「うるせーな、お前ら……」
自爆に気づいて頭を抱える俺を見て、透は呆れたようにため息をついた。その隣で茅君は牛乳瓶をもの珍しそうに眺めているし、コーエイに至っては無反応。唯一翔太だけが、僅かに顔を赤くして俯いていた。
「おいおい翔太くん、その反応は逆に『自分はエロいです』って言ってるようなものよ?」
「えっ、そ、そんなつもりじゃ……」
「今の会話でそういう想像をしたってことじゃないの? ねえ?」
「いや、なんで俺に聞くんだよ……」
翔太をエロいと思ったことは微塵もないけど、真偽を確かめるべく俺も翔太に視線を向ける。翔太もふと顔を上げて俺と目が合った。その途端、首元から茹で上がるみたいに真っ赤になっていく。なんで俺より恥ずかしくなってるのか意味わからん。
「茉希ちゃん、いい加減にしないとみんな困っちゃうよ」
「そうだぞ。いじるのも程々にしとけよな」
「あははっ、じゃあこの辺にしときますかね」
茜ちゃんと透が口を揃えて茉希ちゃんを咎めると、さすがにそれ以上は遊べないと踏んだらしい。茉希ちゃんは素直にこの話題を取り下げた。
「お姉ちゃんもほら、いつまでもそうやってると髪の毛が痛んじゃうから」
「むー……」
茉希ちゃんに反省の色が見えないことに納得できず、結局、俺は拗ねることを続行する。すると、茜ちゃんは俺の頭に巻いていたタオルを解いて、水気を含んだ長い髪を拭き始めた。
「いいよ、そこまでしなくても」
「わたしがやりたいだけだからいいの」
「そ、そう……?」
茜ちゃんは反省してるみたいだったからもう許していたんだけど、そこまで献身的になられると逆に悪い気がしてくる。そもそも今日、茜ちゃんが茉希ちゃんと一緒に悪戯をしてきたのは、最近あんまり一緒に遊ぶ機会が作れなかったからじゃないだろうか。
ここ一週間、コーエイのことで頭がいっぱいだった俺は、家のことも茜ちゃんにすっかり任せっきりになっていた。何気ない普段の会話はあったけれど、俺が家にいる時間が極端に減っていて、一緒にいることがまた少なくなっていたんだ。
茜ちゃんはしっかりしているように見えて、寂しがりでもある。この状況はちょっと落ち着かないけど、茜ちゃんの気が済むなら、少し大人しくしていよう……。
「お嬢、そろそろ」
いつの間にか牛乳を飲み干していた茅君が、携帯電話を手に晴香ちゃんを呼んだ。
「時間かしら」
晴香ちゃんは呟いて、空になった牛乳瓶を俺に寄越すと、銭湯の出入り口に向かう。慌てて俺たちも荷物を持って後を追うと、暖簾を潜った目の前に黒い車が停まっていた。
「迎えを呼んでいたのね」
「もともと、長居するつもりはなかったのですわ」
晴香ちゃんたちも銭湯に寄ったのは、雨でずぶ濡れのまま車に乗ったり、家に入ったりするのを晴香ちゃんが嫌ったからだ。晴香ちゃんたちをコーエイの家に送った運転手さんは、着替えを運ばせるためにいったん帰っていたらしく、ここには今着いたとのことだった。
ちなみに今三人が着ているのは、透や茉希ちゃんの家から持ってきてくれたものだ。コーエイはともかく、普段執事服だった茅君がそれを着ると、彼がまだ小学生だったことを思い出すという妙な感覚を覚える。
茅君が執事らしく、晴香ちゃんの目の前で後部座席のドアを恭しく開いた。晴香ちゃんはそこに乗ろうとしたが、ふと歩くのをやめてこちらを振り返った。
「行きますわよ、コーエイ」
それまで呆然としていた俺たちだったが、晴香ちゃんの言葉で一斉にコーエイのほうを見る。コーエイは静かに晴香ちゃんと、その先で開いている車のドアを見据えていた。
「すぐに行く。でも、少しだけ話をさせてほしい」
動かないまま、コーエイは車に乗る意志を伝える。晴香ちゃんは「わかりましたわ」と返事をして、先に車に乗り込んだ。
話ってなんだろう? そう首を傾げていると、コーエイは俺の目の前に来た。
「楓、その……」
何かを言いかけたかと思ったら、俯いてもごもごし始める。目線を合わせようとしゃがんでやると、恥ずかしがっているのか俺から目を逸らした。
「どうした?」
声に出して尋ねると、ようやくコーエイは決心をつけたのか、息を大きく吸った。
「……短い間だったけど、いっぱい世話になったから。俺、絶対に恩返しに帰ってくる。いつになるかはわかんねえけど、約束する」
少し顔を赤らめて、でも真っ直ぐに俺の目を見ながらそう言った。
「だから、楓も俺のこと忘れるな」
その一言の直後、後ろから四人分の歓声が上がった。驚いて振り向くと、みんな満面の笑みでコーエイを褒め始める。
「ませたこと言いやがって、やるなコーエイ」
「歳の差なんて関係ないわっ、突き進みなさいコーエイ君!」
特に透と茉希ちゃんのテンションは最高潮に達して、翔太と茜ちゃんも控えめながら拍手し始める始末。
「で、楓はどうなんだ?」
「どうって?」
「返事してあげなくちゃ、お姉ちゃん」
「い、いらねえよ! それじゃあなっ!」
急にコーエイは踵を返して、飛び込むみたいに車の後部座席に乗った。そのドアを茅君が閉めると、自分も助手席に乗り込んで、声をかける暇もなく車は発進した。
「返事も聞かずに行っちゃうなんてなあ……」
「あの子なりに頑張ったってことでしょ。じゃ、そろそろアタシたちも帰りましょうか。お腹空いちゃったし。透たちはどうする?」
呆然としている俺をよそに、これからのことを話し始めるみんな。
「お姉ちゃん」
一人だけその輪から外れた茜ちゃんが、俺に声をかけてきた。
「どうかしたの?」
「いや、なんかすごい奴だったなあって」
「コーエイ君が?」
「うん」
俺は頷いて、車が走り去ったほうを見つめる。
たった一人で母親の約束と思い出の場所を守ろうとするなんて、小学生がなかなかできることじゃない。あの家でコーエイにかけた言葉は、俺が本当に思ったことだ。
コーエイだけじゃなくて、晴香ちゃんも。友達のためにできることを考えて、それを行動に移していた彼女もすごいと思った。
一時は決裂しかけた二人だけど、これからは仲良くやっていけるだろう。しっかり者の茅君もいることだし、三人で。
「茜、楓。ほら行くわよ」
茉希ちゃんに呼ばれて、俺たち二人は移動を始めたみんなを追いかける。いつか、大きくなった彼らとまた逢う日を思い描いて。
雨雲はいつの間にかなくなっていて、星が瞬く夜空が広がっていた。
更新が空いてしまい申し訳ありません。
次から新章になります。