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メイプルロード  作者: いてれーたん
初夏の嵐
83/110

雨の役割


「な、なにを……」


 振り解くことも忘れて、コーエイはただ戸惑いの声を上げる。衝動的にこんな行動をとった俺も内心では驚いていたけど、頭だけは冷静なままだった。


「もういいんだ」

「か、かえで?」


 俺より少し小さいくらいのコーエイの身体を優しく、でも離さない意思をこめて。それから俺の気持ちが少しでも伝わるように。


「コーエイ、もう十分だよ」

「え……」


 萎れそうな蕾を膨らませる言葉を、今の俺は知っている。


「ここを守るために、小さい時からたくさん頑張って来たんだろ? お母さんとの約束を、たった一人になっても守ってきたんだろ? すごいじゃないか。お前、ほんっとうに大した奴だよ」


 小さい子をあやすように背中をたたき、頬と頬をくっつけて、ゆっくりとコーエイの心の傷を撫でる。


 この傷はコーエイが頑張った証なんだ。否定するんじゃなくて、認めてあげたかった。孤独と不安と悲しみに耐えた、本当は幼くて弱い心を、強いと言って褒めてあげたかった。


「お、俺はただ、母さんとの約束を守りたかっただけで……」

「ああ、すごいよ。この家が壊されそうになった今日だって、雨の中駆けつけて作業を遅らせたんだ。お前みたいな子供が、大人を追い払ったんだぞ? お母さんだってそこまでやってくれるとは思わなかっただろうな」

「母さん、も……?」

「ああ」


 抱きしめていた腕を緩めて、コーエイと対面する。胸に強く押しつけたせいか、コーエイの鼻先が少し赤くなっていた。


「だからさ、ここまでにしよう? もうコーエイが無理する必要はない。一人でつらい思いを抱えなくていいんだ。これからは晴香ちゃんたちがお前の傍にいてくれる」

「でも……」


 コーエイは俯く。本当にここから出てしまっていいのか、迷っているみたいだった。


「お母さんが悲しむって思うか?」

「……」


 こくり、と頷くその頭を、俺は優しく撫でた。


「確かにちょっとは寂しがるかもしれないな。それでも、コーエイのことを想っているなら、怒ったりはしないと思うぞ?」

「え……なんでだよ?」

「お母さんだってコーエイの幸せを願っているはずだから。この家を守ってほしいって言ったのだって、最後はコーエイのためなんだと俺は思う。そんなお母さんなら、コーエイが幸せになれる生き方をしてくれるほうが、嬉しいんじゃないかな?」

「おれの、ため……?」


 コーエイが視線を下げて、持っていた母親の遺影を見る。その中で子供を抱いて微笑む母親が、子供の苦しむ姿を望むわけがない。


「母さん……」


 コーエイが呟くと同時に、額縁に透明な滴が落ちた。


 ぽたり、ぽたりと、雨の降り始めのように落ちてきて、やがてコーエイが肩を震わせて嗚咽を上げるようになる。


 つられて俺も鼻の奥がつんとするのを感じながら、もう一度コーエイを包むように抱きしめる。それが引き金になったのか、コーエイは声を上げて泣き始めた。


 年相応、いや、むしろ酷く幼い泣き方だった。うわごとのようにただ「母さん、母さん」と口にするコーエイを見て、俺は心の底から安堵した。そしてまたあやすように、その背中を優しく撫でる。


 萎れて折れかかっていた茎が、ようやく水を得て潤いを取り戻していく。この雨が止んだら、どこまでも上に向かって真っすぐに伸びていってほしい。今は丸まったコーエイの背中を摩りながら、そう思った。








 コーエイが落ち着きを取り戻してから、俺は茜ちゃんたちに連絡を取った。いつの間にか日が落ち始めて、雲に覆われた空はさらに暗くなってきている。しばらくすると、まだ雨がやまない中、みんなが集まってくれた。


「翔太も来たんだな」

「今更だけどね。ごめんよ、何もできなくて」

「雨で電車が止まってたんだもの、しょうがないわよ」


 茉希ちゃんがそう言って翔太の肩をぽんと叩く。


「駆けつけてくれただけでもありがたいよ。みんなでいたほうが賑やかだし、元気が出る」

「そう言ってもらえるなら、来た甲斐もあったかな」


 そんな話をしながら、みんなで傘をさして透の家に移動した。


「お姉ちゃんったら、泥んこだよ。帰ったらすぐシャワー浴びてね?」

「あはは、そうだな。あっ、コーエイは大丈夫?」


 さっき抱きしめちゃったから、俺の汚れがコーエイにも伝染してるかもしれないと思ったんだけど。


「平気。ここに来るときから傘さしてなかったから、もともと泥んこ」

「それは平気とは言わねーだろ……。風邪ひかねーように、俺んちで風呂入ってけ」


 湿っぽいコーエイの頭をガシガシ撫でながら、透がそう提案する。その拍子にぽんと手を打つ音がした。


「それじゃあ楓たちもどう? 晴香ちゃんたちも。みんなでお風呂に入っていかない?」

「さすがにそれは……透んちに迷惑かかるんじゃないか?」


 茉希ちゃんがさらっと言うので、俺は驚きながら聞いた。それこそ、透の家の風呂が特大でもない限り、無茶な案だと思ったのだ。


「ああ、正確に言うと、近所に銭湯屋さんがあるの。道場で稽古して汗だくになった生徒たちがたまに行くのよ。そっちならみんなでわいわいしながら入れないかなって」

「へー、銭湯かぁ……」


 翔太ももの珍しそうに声を漏らす。俺も行ったことないし、茜ちゃんもちょっと興味があるようだ。


「たまにはいいんじゃないかな。お父さんに頼んで着替えを持ってきてもらえるし、お父さんも入ると思う」

「それならついでに、アタシのうちに泊まりなさいよ。明日は日曜日だし、夕飯もご馳走できるわよ?」

「えっ、本当? それなら泊まっちゃおうかなあ。あっ、でもお姉ちゃんは明日……」

「アルバイトなら心配ないよ。こっちのほうが駅に近いから、家に帰らずにそのまま行けば問題ない」


 荷物も、悪いけどおじさんに頼んで運んでもらえば大丈夫だろう。


「じゃあ決まり! 今夜、楓と茜はアタシんちで女子会ね! 透たちはどうする?」

「風呂に入って飯食ってから決める。まあ、正直言うと泊まれるけど、翔太がどうするかだな」

「親に頼んでみるよ。せっかくお風呂入った後に雨の中を帰りたくはないしさ」

「それもそうね。コーエイ君たちは?」

「……庶民の大浴場なんかには行けませんわ。それに時間がありませんもの。わたくしたちはコーエイを連れてさっさと帰りま――うわぷっ!?」

「行く」


 つらつらと話していた晴香ちゃんの口を塞ぎ、コーエイが短く答えた。


「なっ、何を勝手なことを!」

「風呂だけならいいだろ。ついでにお前も入れ。スカート、跳ね返りで泥がついてるぞ」

「お嬢、見っともない」

「んなああっ?」


 男の子二人にそう言われた晴香ちゃんが驚いて飛び上がる。でも、さらにそこへ追い打ちとばかりに乗用車が派手に水飛沫を上げていった。


「うわっ」

「ひゃー!」


 大きな水たまりを通過していった後には、ずぶ濡れのみんなが顔を見合わせる。そして誰かが堪えきれずに笑い出すと、次第に大きくなって伝染していった。








 茜ちゃんが一足先におじさんに連絡を入れ、銭湯とお泊まりの件を話すと、快諾と同時に荷物を運んでくれた。ただ、おじさんは今夜にも病院へ戻るとのことで、銭湯やお泊まりには付き合えないらしい。俺たちが銭湯に行っている間に、茉希ちゃんの家で夕飯に招かれることになった。


「ありがとうね、茉希ちゃん」

「いいのいいの」


 脱衣所でお礼を言った茜ちゃんに答えながら、茉希ちゃんは早速服を脱ぎ始める。続いて茜ちゃんも上着のボタンを外し始めて、俺は反射的に顔を逸らした。


「楓はどうしましたの? そんなにこそこそして」

「わあっ、あ、ごめんっ」


 振り向いた反対側に、すでに一糸纏わぬ姿となった晴香ちゃんが堂々と立っていて、さらに俺は90度身体を回転させる。


「晴香ちゃんいたんだね、気づかなかったよ」

「それはどういう意味ですの!?」

「あ、いや、単に気づかなかったって言うか……抵抗なく入ってくるものだから」


 帰り道でも晴香ちゃんは気が進まなさそうだったから、てっきり入らないものだと思っていたのだ。入るとしてもお嬢様なんだし、初めてだからこういう場所にもっと戸惑うものだと思っていた。


「泥んこのままでは家に汚れを持ち込んでしまいますわ。それに、コーエイを待つ間は手持無沙汰になるから、仕方なくですわよ」


 それは、まあ。服もずぶ濡れだったし、あのままだと風邪を引きかねなかったから、本人としてはいやいやなのは変わらないだろうけど。

 そこへ会話を聞いていた茉希ちゃんが、俺の後ろから晴香ちゃんに声をかけた。


「せっかくだし、広いお風呂を楽しんだらどう?」

「ふん、わたくしの家の浴室のほうが大きいしよっぽど綺麗ですわ」

「あはは……ま、茉希ちゃん、気持ちはわかるけど抑えてね?」

「さ、さすがに女の子に手は上げないわよ……でも、なんか腹が立つわね……」

「もう、せっかくみんな一緒なんだから、仲良くしようよ? ね?」


 晴香ちゃんのセレブ発言で一瞬は茉希ちゃんの額に青筋が走ったものの、茜ちゃんがなんとか宥めて、先に大浴場へ行ってもらう。


「ほら、晴香ちゃんも行ってきな」


 茜ちゃんと茉希ちゃんは、もうほとんど俺が元男だったことを気にしていないんだけれど、俺のほうはまだ気まずくて、一人でないと着替えにくい。まあ、見られながら着替えるのが好きっていう人はあんまりいないとは思うけど。


 だから、晴香ちゃんにも先に行ってもらって、一人になってから服を脱ごうと思ったんだけど、晴香ちゃんは俺の顔をじっとしたまま動こうとしない。


「どうかしたの?」

「……いえ」


 僅かに俯いた拍子に、晴香ちゃんのブラウンの前髪が表情を隠した。俺がその様子に違和感を覚える前に、晴香ちゃんは再び視線を上げて、


「感謝しますわ。コーエイを、あの家から連れ出してくれたこと」


 凛とした目を俺に合わせながら言った。


「あ、ああ」

「わたくしだけでは、コーエイを助けることはできなかった。少し悔しいですが、それは認めざるを得ませんわ。なので、一応はお礼を言っておこうと思いましたの。それだけですわ」


 俺が呆気にとられていると、晴香ちゃんは早口でそう言って、俺の脇を通り抜けて行く。すれ違うときの表情は、よく見えなかった。


「晴香ちゃん」


 だから、気のせいかもしれない。唇をかんで悔しそうな表情をしているなんて、単なる錯覚だったのかも。


 けど、思い当たる節はある。だから、振り返った晴香ちゃんに、頭に浮かんだ言葉をそのまま伝えた。


「コーエイと、これからも仲良くしてあげてくれ」

「……ええ、当然ですわ。あなたにできなければ、わたくしがやるしかありませんもの」

「ああ、そうだな」


 晴香ちゃんはおかしそうに、ちょっぴり不敵に笑って。それから、茜ちゃんたちの後を追って青いタイルの大浴場へ入って行った。


 それを見送った俺は、自然と顔が綻んでいくのを自覚しながら、ようやく服を脱ぎ始めたのだった。



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