守りたかった場所
「……俺の母さんは生まれつき、身体が弱かったんだ」
蝋燭の灯火が揺らめく部屋で、コーエイは静かに語りだした。亡き母親の遺影を胸に、これまで自分が抱えていた思いを、少しずつ言葉にしていく。
「俺を生んだ時にはもっと悪くなって、元気になってもたまにしか家に帰れなくなった。小さい時の俺はほとんど母さんが入院してる病室にいて、父さんは一生懸命仕事をしてた」
写真に写る親子のいる場所は、白い部屋のベッドの上だった。この写真を撮ったのはおそらく父親で、大変ながらも三人で仲良く暮らしていたのが窺える。
でも、コーエイの声のトーンから、その日々が続かなかったことは予想がついた。
「小学生に上がった時だったと思う。急に容態が悪化して、母さんはベッドから起きられなくなった。それからはずっと病室暮らしで、どんどん元気がなくなっていって……」
その時目に見たことを、酷く辛そうに話すコーエイ。たどたどしくて言葉は拙いが、日に日に弱っていく母親を見るのは、男の子とはいえ小学生には過酷な光景に違いない。
「だから俺、毎日1回は絶対にお見舞いに行ったよ。それで小学校の話をいっぱいした。母さんもそれを聞きたがってたし、俺が話してるあいだは笑ってくれたから」
その人の微笑んでいる姿が頭の中に浮かぶ。そのときの彼女の気持ちと、コーエイの気持ちも痛いほどに。
「でも、話が終わったあとは悲しそうな顔をしてた。お母さん、あんまり一緒にいれなくて、遊んであげられなくてごめんねって言うんだ。本当はお家にいなきゃいけないのに、ご飯も作ってあげられなくてごめんって」
写真立ての縁をぎゅっと握りしめながら、コーエイの言葉にも力がこもる。溢れ出る感情を少しでもせき止めるかのように。
「俺は母さんにずっと笑ってて欲しかった。だから、母さんが身体を治して退院するまで、俺が家を守るって約束したんだ。一緒に遊べなくても、家にひとりでいてもいいから、いつか元気になって帰ってきてくれるなら、そのときつらくても大丈夫だから……」
「コーエイ……」
「でも、母さんは最後まで病院のベッドの上だった。家に帰ることができないまま、俺が三年生の時に……」
「コーエイとそのお父様を残して、亡くなりましたわ」
突如、俺の後ろから高い声がした。
「それからコーエイはお母様との約束を守り、仕事で家を空けるお父様に代わって、ここを守り続けてきた。でも、つい一か月前に今度はお父様が家を出て行ってしまいましたの。仕事で人の命を奪ってしまったから、コーエイも家も投げ出して逃げたのですわ」
コーエイから台詞を取り上げた晴香ちゃんが、淡々と出来事だけを語る。コーエイのような悲しみではなくて、凛とした決意を含んだ口調だった。
「晴香、お前……っ」
「玄関が開いていたのでお邪魔しましたの。さあコーエイ、戻りますわよ」
真顔でそう告げる晴香ちゃんの後ろから茅君が現れて、コーエイに素早く近づく。茅君がコーエイの腕を掴もうとしたのを見て、俺は咄嗟に間に割って入った。
「楓お姉さん、何のつもり? 僕たちとコーエイのことは、あなたには関係ないはずだよ」
小学生とは思えない低い声と冷たい眼差しに、思わず気持ちが圧されそうになる。でも何とか手を下さずに踏みとどまった。
「待ってくれ、俺はまだ聞きたいことがある」
「そんな時間はありませんの。私たち、明日には出発しなくてはならないのですから」
「出発って、なんのこと?」
「お父様の次のお仕事のために、海外に行くことになりましたの。コーエイにとっては転校もできますから、ちょうどよかったのですわ。これでコーエイを傷つけるような人たちから離れられるのですから」
「お前らが勝手に決めたことだろ。俺は行かねえ、ここに残る」
「我儘は通用しませんわ。ここは取り壊されて、あなたのいるべき場所ではなくなる。お父様について行って、わたくしたちと一緒に海の向こうで暮らしますのよ」
晴香ちゃんはどうしてもこの家からコーエイを連れ出したいらしい。それを頑なに拒むコーエイと、執事として晴香ちゃんの言葉で動く茅君。
「なんだよそれ……」
あまりに一方的な晴香ちゃんの主張に、俺は呆然として呟いた。
「晴香ちゃん、君はコーエイのことを助けようとして動いていたんじゃなかったのか? 今の君は、自分の理想をコーエイに押し付けているようにしか見えない。だから、君たちにコーエイを連れて行かせるわけにはいかないよ」
「あなたこそなんですの? コーエイの将来を本当に考えているなら、こんなところに一人でいさせるわけにはいきませんわ。あなたも、コーエイもわかっていることでしょう?」
「だからってこんな強引な手を使わなくたって……!」
「コーエイがこの家に拘る限り、前には進めませんの。出て行くだけでは彼は解放されない。だからこの家を壊して、彼を束縛するものをすべて忘れさせる必要がありますのよ!」
それじゃあ、晴香ちゃんは最初からこの家を取り壊すつもりだったんだ。でも、あくまでコーエイのためだと言い張っている。
コーエイを縛り付けるもの。この家から離れない理由。晴香ちゃんはそれをこの家ごと壊すつもりだ。
「それはだめだ」
言い分はわかる。コーエイが孤独でいる現状を打開するためには、この家から出ることが必要だということも。晴香ちゃんの家に引き取られれば何不自由なく暮らせるだろうということも。
でもそのやり方は、コーエイを傷つける方法だ。
「わかってるはずだ、これは最善じゃないって。コーエイは頑固だけど、それを力ずくで動かそうとしたら傷つけてしまう」
「ええ。だから、わたくしも一緒にその傷を背負いますの。この家の取り壊しはもう止められない。コーエイは傷ついてわたくしに当たるでしょう。それを受け入れることで、わたくしたち二人は前に進めるのですわ」
コーエイがこの家にこだわるのも、気持ちを聞いた今ならわかる。たった一人になってでも、コーエイは母親との約束を胸にこの家を守り、父親の帰りを待つだろう。
そんな彼を晴香ちゃんは見捨てられないのだ。コーエイを傷つけてでもこの家から連れ出したいのだ。その怒りが自分に向けられて、同じように自分が傷つくことを覚悟してまで。
コーエイはもう十分すぎるくらいに傷ついて、晴香ちゃんもその傷を受けようとしている。
俺は必死に考える。コーエイだって本当は救いを求めているし、晴香ちゃんもただコーエイを救いたいだけ。二人が傷つけ合う必要なんてないはずだ。
――――いや、本当にそうだろうか?
コーエイが本当に今、一番に求めているものは何だろう? 彼にとっての救いって何だろう?
それはこの家に留まることでも、何不自由ない生活を約束されることでもない。
今まで寂しかったね、辛かったね、そうやって同情する前に、彼にはかけてあげるべき言葉が他にある。
「晴香ちゃん、やっぱりそれは間違ってるよ。コーエイも晴香ちゃんも、誰も傷つく必要なんてない。俺はそう思うから」
「この期に及んで、まだわたくしを否定するつもりですの?」
「否定じゃないよ。気持ちもわかるし、真剣にコーエイのことを考えていることも知ってる。そんな君たちだから、俺は見ていられない。二人とも助けたい」
「あなたが、わたくしたちの何を知っていますの? コーエイの事情だって今聞いたばかりだというのに、何をわかった気になって!」
たった一週間、晴香ちゃんに至っては数日しか会ったことがない。二人を理解するには、触れ合う時間が少なすぎた。
でも、俺には確かに二人の気持ちがわかる。
「俺も晴香ちゃんと同じ考えを持ってたんだ」
「……っ」
俺が呟くと、晴香ちゃんは目を見開いて止まった。
「そして、コーエイと同じ気持ちも」
「何を言って……ふざけていますの?」
拒否するように叫ぶ晴香ちゃんから、呆然と俺を見上げるコーエイに目を移した。
「俺も自分だけが傷ついてるって思ってた。でもあるとき、俺の傍で一番に俺のことを助けてくれてた人が、俺のせいで傷ついていることを知ったんだ。そして俺はもう、その傷を癒すことができなかった」
コーエイも晴香ちゃんも茅君も、一様に動きを止めて俺の話に耳を傾ける。
「その時は俺も晴香ちゃんと同じように、一緒に傷つけばその人が楽になるって思ってた。実際そうすることしかできなかったし、お互いにそれを望んだんだ」
「でしたら、わたくしの考えは……」
「ううん、それとは別だよ。なぜならコーエイは、晴香ちゃんに傷ついてほしいなんて思ってないんだ」
「――っ!」
晴香ちゃんは目を見開いて息を飲んだ。俺の言葉によって、晴香ちゃんの覚悟も思いも否定されたようなものだったから。
「コーエイは傷つけられることも、傷つけることも望んでいないんだ。だから晴香ちゃん、君もコーエイを傷つけちゃいけないし、傷ついたらいけない」
「そんな……、でも、わたくしが傷つかなければ、コーエイはずっと! ずっと一人で傷ついたままですわ! そんなのあんまりじゃありませんこと? 誰も傷つこうとしない、コーエイの痛みを知ろうとしないから、彼は今まで一人で……!」
「それはもう晴香ちゃんが知っているだろ? コーエイの気持ちも痛みも知っているから、コーエイのために動いてきた。ただ、方法が間違っていただけだよ」
「わたくしでは、コーエイを助けることはできませんの……?」
晴香ちゃんは泣きそうな顔を俯かせて、肩を震わせる。
「晴香ちゃんがコーエイのために頑張ったことは知っているよ。俺も、もちろんコーエイも」
驚いて晴香ちゃんが顔を上げる。俺の目を見た後、コーエイのほうにも目を向けた。
間違いなくコーエイのことを一番に考えて、救おうと動いていたのは晴香ちゃんだ。それに関しては俺も否定していないし、これからコーエイが生きていくには彼女の存在が必要だとも思う。
「コーエイ」
「な、なに……」
「晴香ちゃんは一生懸命コーエイを助けようとしてくれたんだ。お前もわかってるだろ?」
「ああ……」
頷くが、重たい表情をして晴香ちゃんのほうは見ない。わかっていても、それには応えられないという後ろめたさがあるんだろう。まだこの家を出るつもりはないってことだ。
「お前が生きていくためには晴香ちゃんたちの助けがいる。だからコーエイは、この家を出なきゃいけない」
「っ! なっ、なんで……!」
今度はコーエイが裏切られたような悲壮な顔をして俺を見上げる。
「もしここが壊れなくても、一人で生きていけないからだ。誰かの家に引き取ってもらって、守ってもらうしかない」
「俺は守ってもらわなくても強いんだ! だからこの家を守る、絶対にこの家を捨てたりしない! 母さんとの約束を破らない!」
「コーエイ……」
「俺は、父さんとはちがう……っ!」
コーエイがここを離れられないのは、自分で決めたことだから。たとえ母親も父親も、味方が誰一人いなくなっても、この家を守ると約束したから。
同時にその約束だけがコーエイの味方で、自分自身を認められる生き方だったんだ。
でもその心の奥で、コーエイが確かに助けを求める声が聞こえた気がした。孤独と不安と悲しみで押しつぶされそうなコーエイの、幼い心の悲鳴を聞いた。
目の前で枯れていく蕾を見捨てたくはない。まだ花すら咲かせていないというのに。
助けたい――――その一心で俺はそっとコーエイの身体を引き寄せて、優しく抱きしめた。