心を聞かせて
「もう、気持ちはわかるけど少しは考えて動いてよ、お姉ちゃん!」
「むぐっ、ごめん茜ちゃん……」
茜ちゃんにタオルで顔を拭かれながら怒られる俺。力が入っているのか、強めに顔を擦られてちょっと痛い。
ちなみに、両手が塞がった茜ちゃんのために、茉希ちゃんが代わりに傘を持っている。透は現場から引き上げる葉月さんと顔を合わせていた。
「あなたたちが出てくるまで待っていたいけど、事務所で仕事が残ってるから私は行くね。透、みんなが怪我しないようにお願いね?」
「わかってるよ」
ニコニコするお姉さんを鬱陶しそうに見送り、現場には俺たち四人だけが残った。
「にしてもコーエイのやろー、なんでまたこんなとこに戻ってきたんだ。忘れ物でもあんのか?」
「そんなのわかんないわよ。本人に聞かないと」
「とにかくコーエイ君を説得して連れ出さないとね、お姉ちゃん」
「うん」
大勢いた作業員がいなくなったことで、辺りには強めの雨の音だけが響いていた。目の前の家は暗く静かで、誰もいないと言われれば信じてしまいそうなくらい人の気配がない。
最初に一歩踏み出した俺に、みんなも静かについてくる。そのまま玄関に辿り着いた俺は、取っ手を引いて戸を開けようとした。
「……開かない」
家の中から鍵がかかっている。作業員が中に入るのを拒むために、コーエイがそうしたんだろうか。俺たちは顔を見合わせた後、いつも出入りに使っていた縁側のほうに向かった。
足場に注意しながら庭へ行くと、こっちも人が家に入って来るのを拒むようにきっちりと雨戸が閉められていた。当然中から鍵もかかっていて、外からじゃ開けられない。
「クソッ、何考えてんだよあいつは!」
苛立ちを隠せない透は、力任せに雨戸を叩いた。
「コーエイ! いるなら出て来いよ!」
「やめてよ透、怒鳴ったら力づくで連れ出しに来たと思われる。そんなんじゃますます出て来なくなるだろ?」
「めんどくせえな……」
毒づきながらも拳を収める透。気持ちはわからなくもないけど、コーエイに会えなくなるのは一番避けたいことだ。家中の戸の鍵を全部閉められているなら、本人に出てきてもらうしかないんだから。
でも、さっきの声がコーエイに聞こえていたら、もう警戒していてもおかしくない。その上でどう呼びかけて、コーエイに出てきてもらうか。
まずはコーエイの警戒を解くのが先だ。
「ねえ、みんな」
雨の中振り返って、思いついたことを提案する。
「少し一人にしてくれない? 俺だけで呼びかければ、コーエイも怖がらずに出てきてくれるかもしれないから」
「一人でって……でも……」
「アタシたちにできることはないの?」
「助けがいるときは携帯で連絡する。それまで三人は離れて、屋根のあるところにいてよ。コーエイを待つのは俺だけのほうがいい」
雨はさらに強くなってきて、すでに膝下までびしょびしょだった。こんなところまで、みんなよく来てくれたと思う。それだけでもありがたかった。
「もともとコーエイのことは俺が頼まれたことだし、最後まであいつの面倒を見たいんだ。別れるときくらいは笑えるように……俺の我儘なわけだけど、どうかみんな聞いてくれないかな」
その言葉に、透だけが頷いてくれた。
「わかった。コーエイのこと、頼む」
「ちょっと透、本気なの?」
「楓も本気だ。お前らも一緒に来い、ひとまず俺んちに戻るぞ」
「ありがとう、透。そういうわけだから、茜ちゃんと茉希ちゃんも透の家に行っててよ。俺も後でコーエイを連れてく」
納得のいかなさそうな二人だったが、透の呼びかけでなんとかこの場から離れてくれた。心配そうに振り返りながら歩く茜ちゃんたちを見送って、俺は再び雨戸を見据える。
これだけ外で騒いでいたんだから、会話の内容はともかく誰かがいることは、中にいるコーエイにもわかっているはず。出てきてもらうためには、ここに俺だけしかいないってことをコーエイに伝えなければ。
透の時みたいに強すぎないように注意して、俺は雨戸をノックした。
「コーエイ、出てきてくれ。外にいるのは俺、楓だけだよ」
そしてしばらく待ったが、音沙汰はない。
「透から連絡があって、コーエイが帰って来たって言うから飛んできたんだ。話したいこともある。せめて、顔だけでも出してくれないか?」
雨戸に向かって声をかけるけど、帰って来るのは大粒の雫が弾ける音だけ。風も強くなってきたし、声だけじゃ聞こえづらいだろうか。でも、雨戸を強く叩いたらその音で声を遮ってしまいそうだし……。
「コーエイ、お願いだから……」
途方に暮れつつも、言葉を投げかけ続ける。諦めるという選択肢はなかった。コーエイのことが心配で堪らない。どうしてそこまでしたいのか自分でもわからないけど、ここまで来たらコーエイに一目会って、自分の気持ちを伝えないと気が済まない。
「コーエイっ!」
雨と風に弄られながら叫んだとき、玄関のほうから物音がした。はっとして目を向けると、戸を開けてコーエイが出てくるところだった。
「聞こえてるよ、楓」
出てすぐに強い雨風に晒されながらも、まっすぐに俺を見つめて。
「早く入れよ。風邪引くだろ」
ぶっきらぼうに言ってから、玄関から家に入って行った。
呆然としたのち、これまでにない喜びと安堵がこみ上げるのを感じながら、俺はコーエイの後を追った。
入った家の中は真っ暗だった。取り壊すために家具をすべて出しているからか、最後に来た時よりも家の中が広く感じる。暗さも相まって生活感のない空間だった。
「コーエイ?」
先に入って行ったはずの彼の姿が見当たらない。視界の悪さに注意しながら靴を脱ぎ、いつもの居間へと向かった。
「コーエイ? どこ行ったんだ?」
呼びかけるが、がらんとした暗闇からは何も反応がない。その先の食卓にも顔を出したが、机一つないそこからも人の気配はなかった。首を傾げながら縁側に戻って来て、もう一つ心当たりのある場所を思い出す。
この奥に、もう一つだけ部屋があったんだ。きっとそこにいるはずだと確信に似たような感覚を持って、俺はその部屋を目指す。手を壁についてゆっくり歩き、引き戸の前まで辿り着いた。
「コーエイ、開けるぞ?」
中にいるであろうコーエイに呼びかけてから、戸を開けて入足を踏み入れる。その中はやはり真っ暗――と思いきや、予想外の明るさに一瞬目が眩んだ。その光源は二本の蝋燭に灯された火だった。
コーエイはその前でじっと、光に照らされる写真立てを見つめていた。
「何してるんだ……?」
声をかけて初めて、コーエイが俺のほうを見た。その顔がいつもの様子と違っている。彼も雨の中を走って来たからだろう、髪が濡れて雰囲気が変わっているのかと思ったけど、それだけじゃないらしい。
「何もしてねえよ。ここにいるだけ」
そう言って、また蝋燭の間にある写真をぼんやりと見つめる。
「晴香ちゃんはどうしたんだ。お前、一緒に住んでるんじゃなかったのか?」
「住んでたよ、でっかい家に。でももういい。戻る気はない。晴香は約束を破ったんだ。この家を壊すつもりなら、俺はこの家から出るわけにはいかない」
「戻る気はないって……でも、この家は」
「知ってるよ。取り壊されるんだろ? でも、俺はそんなことさせない」
「コーエイ……」
晴香ちゃんの裏切りは、たぶんこの家の取り壊しのことだろう。コーエイはやっぱり聞かされていなくて、晴香ちゃんが独断で進めたことらしい。
コーエイがこの家に拘っているのを、晴香ちゃんは知っていたと思う。その上で何か考えがあったとしても、コーエイが反対することはわかっていたはずだ。
だからって、コーエイのこの家への拘り方は普通じゃありえない。こんな天気に傘を持たずに飛び出して来るなんて、普通なら思いついても行動に移すなんてできない。晴香ちゃんもそうだっただろう。
「どうしてこの家に拘るんだよ? 何か理由があるのか?」
コーエイがゆっくりと立ち上がって、写真立てを大事そうに両手で引き寄せる。そしてそれを、俺に見せるようにこっちへ向けた。
蝋燭の光が反射して見えなかった写真は、俺のほうに向けられたことではっきり見えるようになった。その中にはまだ小さくて不愛想な男の子と、その子を抱いて屈託なく笑う若い女性が写っていた。
「これって……」
「小さい時の俺と、俺の母さん」
俺ははっとして蝋燭の乗った台を見る。質素で気づかなかったが、写真立てのあった傍には小さな位牌と線香を立てる小香炉があった。これは略式ながらも仏壇だったんだ。
どうしてこれがまだ、取り壊される家の中にあるんだ。コーエイがここに来て作業を止めなかったら、無慈悲に家ごとこの仏壇も潰されていたことになる。コーエイが必死になったのはこのせいなのか。
コーエイにとって大切なものを、晴香ちゃんは壊そうとしていたんだ。でも、俺はそれが腑に落ちない。あの子がコーエイのために動いていたのは誰の目にも明らかだったからだ。ただコーエイを傷つけるために、この家の取り壊しを強行したとは思えない。何か理由があるはずだと信じたい。
そもそも、だ。
母親のことが大事なら、この写真立てと位牌を持ち出せば済む話だ。やはりこの家に拘る部分がわからない。
「コーエイ」
知らなくちゃいけない。そして、コーエイがどうしたいのか聞かなければ、助けることはできない。
「この人、すごく優しそうだ。コーエイのお母さんの話、よかったら俺に聞かせてくれないかな?」
俺がそう尋ねると、写真を抱きかかえた小さな男の子は、ゆっくりと顔を上げた。