してあげられること
北見家に戻るとすでに茉希ちゃんが到着していて、茜ちゃんも出かける準備を済ませていた。すぐに車に乗り込み、茉希ちゃんに道を教えてもらいながら透の家に向かう。
その合間に、茉希ちゃんからことのいきさつを教えてもらった。
「コーエイ君、取り壊しのことは知ってたわ。だからここに来たみたい。家の近くにいたところを透のお姉さんが見つけたんだけど、もう工事は始まってるし、コーエイ自身が酷くずぶ濡れだったから、ひとまず透の家に行かせたのよ」
「ずぶ濡れって……傘は持ってなかったのか?」
「たぶん、慌てて出て来たんじゃないかしら。家のことを今朝知って、それからすぐここに来たって本人も言ってたし」
コーエイが取り壊しの件を知ったのは今朝。俺たちより遅いことにも驚いたけど、まさか取り壊しの当日とは。段取りをしていたのは晴香ちゃんの家だったから、向こうがギリギリまで伝えなかったということか。
だとすればこれが、コーエイのことを第一に考えた結果なんだろうか?
コーエイのこともわからない。当日になって取り壊しを教えられたとしても、俺はこの雨の中、傘も持たずに見に行こうなんて考えはしない。関係のないことだとは思わないけれど、もう自分の家が変わった以上は、そこまで気にすることじゃないはずだ。
これまでだってそうだ。不登校になってまで、コーエイはあの家にいようとした。その気になれば学校の先生に相談することも、助けを請うこともできたはずだ。それをしないどころか、拒んでいるように見えた。
コーエイがあの家から離れないためにそうしていたんだろうか? だとしても、そこまであの家に拘る理由がわからない。
かつて家族と住んでいた家だから、だろうか? でも、一緒に住んでいた父親はコーエイを残して逃げた。コーエイもそのことは恨んでいるみたいだったし、だとしたらあの家に留まる理由にはならない。
「あ、おじさん、この辺で大丈夫です」
「ん、ここか?」
踏切を通って住宅地に入り、そのうちの家の前で車を停めた。おじさんはそのまま車の中で待つことになり、俺たち三人は傘を持って降りた。
「こっちよ」
茉希ちゃんに案内されて、家の玄関の前を通り過ぎる。そのまま隣の坂を上り、神社に入っていった。
「もしかして、ここが道場?」
「そうよ。今は透と二人でいるはず――って、楓っ?」
それを聞いていても立ってもいられなくなった俺は、一人で先に駆け出して戸を開けた。
「へ?」
戸を開けたすぐ目の前に透がいた。外に出ようとしていたようで、突然開いた戸に驚いて目を丸くしていたが、俺は構わず中に入った。
「コーエイっ!」
名前を呼びながら道場の中に入る。でも、そこにはコーエイの姿はおろか、人っ子一人すらいなかった。
「はあ? なんでコーエイ君から目を離すのよ!」
「しょうがねーだろ。急に腹が痛くなって、トイレ行ってたんだから」
後ろで茉希ちゃんと透が言い合う声がする。俺はその言葉を理解した途端、すぐに二人を押しのけて道場から飛び出した。
「お姉ちゃん!?」
「楓! せめて傘を持って……!」
茜ちゃんと茉希ちゃんの制止の声も置き去りに、俺は坂を駆け下りて道を走る。だんだんと風も雨も強くなってきて、濡れた前髪が額に張り付いて鬱陶しい。けど、それを振り払う暇すら惜しかった。
コーエイが行く場所があるとしたら、一つしかない。
寂れた駅前のアーケードが見えてきて、俺はさらに走った。
安全ヘルメットを被った工事のおじさんが、俺の姿を見て驚いていた。この天気に傘を持たずに走って来て、酷い有様なのは自分の身体を見下ろさなくてもわかる。
「はあっ、はあ……」
ブロック塀に寄りかかって息を整える。全力で止まらず走って来て、すでに疲労困憊だった。男の時だったら、これくらいの距離を走った後でも動けたはずなのに。
「コーエイの、けほっ、家は……」
なんとか顔を上げて、道の先に目をやる。コーエイの家の門に面していた小道には、すでに重機が入って工事の作業員が出入りしていた。門とブロック塀は取り壊されて、ここからでも家が見える状態になっている。
家そのものはまだ取り壊されていないようだ。この天気で足場も悪いし、時間がかかっているのかも。
「あなた、どうしたの!? そんなにずぶ濡れで!」
反対側のブロック塀にもたれかかっていたら、突然、女の人が声をかけて来た。見上げると、安全ヘルメットを被って作業服を着ているのが目に入る。その格好の割には若くて、お姉さんという表現がぴったりだった。
「はあ……あのっ、ここに男の子、来てませんか?」
間違いなく関係者だ。そう確信して息を整え、俺はコーエイのことを尋ねた。
「もしかして、ここに住んでた男の子のこと?」
「えっ」
「ということはあなたが楓さんなのね?」
「な、なんで知って……」
困惑している俺を他所に、何かを納得したお姉さんは俺に笑いかけて言った。
「いつも弟の透がお世話になってます。私、姉の葉月ですっ」
「と、透のお姉さん!?」
俺が驚くと、お姉さんはおかしそうに歯を見せて笑う。その顔は確かに透の面影があった。
そうか、ここが取り壊されるっていう情報を、透のお姉さんがいち早く手に入れた理由がわかった。今日ここに来たコーエイを見つけてくれたのも。
「って、自己紹介してる暇じゃなかった! ひとまず屋根の下に行こう? このままじゃあなた、風邪引いちゃうから!」
「いえ、あのっ……!」
俺の腕を引こうとした透のお姉さん――葉月さんを止める。
「その、ここに住んでた男の子は」
「監督ー、まだ動けないんすかー?」
俺がコーエイのことを聞こうとした矢先、作業員の一人が葉月さんに声をかけた。さっき見たおじさんよりも背が高くて若い男の人だ。
「いい加減に作業始めないと、進捗が予定より遅れちゃいますよ」
それを聞いた葉月さんは、ちらりと目線を人垣のほうに向けた。その先には作業服を着ている人たちがたくさんいて、コーエイの家を囲むみたいに立っている。家を壊すための重機も近くにあった。でも、動くどころかエンジンもかかっていない。
「もう少しの辛抱よ。あの子の気が済むまで待ってあげて」
「そうは言いますけど……出てくる気配ないっすよ。時間押してますし天気も悪いんで、早くどうにかならないっすか?」
作業員の男の人が困ったように言う。見たところ工事は止まっているようだけど、雨がそれを邪魔しているわけでもないらしい。あの子、出てくる、待つ……その単語から、俺は今の状況を理解した。
「家の中にコーエイがいるんですか?」
俺の問いかけに作業員は訝し気に視線を向けて来た。その態度に耐えかねたのか、葉月さんが重い口を開く。
「あの子がどうしてもって言って聞かないから、時間をあげたの。もうそろそろ出てきてもらわないと困るんだけど……」
「みんなピリピリしてますよ。この雨の中、一人の子供のせいで作業が止まっちゃってるんですから。もう引っ張り出しちゃっていいっすか?」
「だめよ。あの子が自分から出てこないってことは、まだ気持ちの整理ができてないってことだから……」
葉月さんはたぶん、透から話を聞かされてコーエイのことを知っている。事情まではともかく、本人の気持ちを優先してくれたのは確かだ。現場の監督らしい葉月さんの権限で、取り壊しを一時中断してくれている。
けど、これ以上は限界なんだろう。作業員に詰め寄られて、葉月さんも苦い顔をし始めた。
「それだったら、俺がコーエイを説得します」
「あなたが?」
「もともとそのために来たんです。コーエイの考えてることが全部わかるわけじゃないけど……あいつのためになることなら、何でもしてあげたいから」
力づくで引っ張り出されるより、説得で連れ出したほうがコーエイも傷つかない。それに、話し合うことでコーエイの気持ちが少しでもわかるなら、俺にもできることがあるはずだ。
「ちょっ……まさか監督、今度はこの子を? 関係ない一般人を、もう一人現場に入れるつもりっすか?」
真剣な顔で考え込む葉月さんに危機感を覚えて、作業員が慌てた。
「勘弁してください、ここにはもう重機も入ってますし、瓦礫もまだ片づけられてない危険地帯っすよ。万が一に怪我でもされたら監督が責任取るんすよ?」
「け、怪我なんてしません! 葉月さんに迷惑はかけませんから!」
「悪いけど、説得力が皆無っす。あんたがどこの誰か、家に入って行った子供とどんな関係か知らねーけど、話なら俺たちが連れ出してきてからゆっくりしてください。これ以上、時間取られるわけにはいかねーんで」
「待ちなさい」
立ち去ろうとする作業員を、葉月さんが止めた。
「大柴くん、みんなに伝えて。今日は引き揚げよ」
「はっ?」
驚いて目を見開く作業員、俺もびっくりして、葉月さんを見た。
「無理は禁物だわ。足場の瓦礫を一ヵ所に纏めたら、今日の作業は終わりにしましょう。スケジュールは遅れるけど、この雨で誰かが作業中に事故でも起こしたら大変だから」
「マジで言ってるんすか、それ」
「大マジよ。もっと喜びなさい、今日は早上がりできるんだから。さ、みんなに伝えてきてくれる?」
作業員の人はしばらく葉月さんの顔を無言で見つめた後、隣にいた俺のことを一瞥して、現場に戻って行った。
葉月さんの言う通り、雨足はだんだん強くなってきている。取り壊し作業を中断するまで酷いかどうかは、一般人の俺にはわからないけど。
「そういうわけで、今日はもう仕事できないわ。瓦礫とかはある程度片づけていくけど、くれぐれも気をつけてね?」
「は、はいっ」
反射的に返事をすると、葉月さんは満足そうに笑って現場に戻っていく。と、思い出したように俺のほうに帰って来て、
「これ、小さいけど使って?」
懐から折り畳み傘を取り出して俺に渡してくれた。
「返す時は透に渡してくれればいいから」
そう言って今度こそ、彼女は現場に戻った。
貸してもらった傘をさして、俺はコーエイの家を見つめる。その間にも、取り壊されたブロック塀の瓦礫や庭の石がどんどん一ヵ所に固められていく。
家の玄関までの道が綺麗に片付いたころ、ようやく茜ちゃんたちが追いついた。もちろん、傘も持たずに飛び出した俺が叱られたのは言うまでもなかった。