ランジェリー・オブ・ヘル
三人で昼食を終えて一息ついた後、早速服屋巡りを始めた。
ペイスは上空から見ると、大きな楕円形の建物になっている。外側にはテナントが多く構え、内側に通路と吹き抜け、中庭がある。まずは服屋が集中する二階、三階をぐるりと回ることにした。
さすがデパートと違って、お店の種類も数も桁違いに多い。ウィンドウショッピングするだけでもなかなか楽しいものだった。
「楓、どこか気になるお店あった?」
「んーっと」
「ああ、服屋以外は却下ね」
「ちぇ……」
本屋、と言おうとしたところに先手を打たれてしまう。他にも楽器、スポーツ用品、貴金属、雑貨、眼鏡のお店もあった。でも、やっぱり服には興味がない。女物はなおさらだ。
「しょうがないわね。じゃああそこから行きましょうか」
母さんが指差したのは、進行方向にある可愛い雰囲気の内装の店だ。あろうことかランジェリーショップで、マネキンには男が直視できないピンク色の布が着せられている。
「ぜったいにやだ」
「あら、子供みたいに言っても無駄よ。楓ちゃんもそろそろオトナにならないとねー、ウフフフフ」
不気味な笑い声を上げながら、母さんは俺の手を引いてその店へ向かって行く。俺は悲鳴を上げながら足を踏ん張るが、ずるずる引き摺られて抵抗も意味を成さない。
「母さん後生だから! いきなりこんなあからさまなのは無理! 中身男だから! 無理!」
大事なことだから繰り返し言いました。でも母さんは聞く耳を持ってくれない。
「観念しなさい。あんたはこれから女の子に染まるのよ」
「おにい……じゃなかった、お姉ちゃん、頑張って!」
ここでも天使は無慈悲だった。
「いやだああああ……」
蜘蛛に捉えられた獲物の如く、俺はファンシーな巣穴に引き摺り込まれた。
「うわ……」
入ってしまったとわかった瞬間、俺は目をきつく閉じて俯く。店頭のマネキンなんて序の口だった。ハンガーやマネキンに掛けられて、店の壁を覆うほどの女性の下着が陳列していたのだ。店全体に甘ったるい匂いが充満していて、わかっていたことだけど長くはもちそうにない。お笑い番組ばりに頭からストッキングを被ってしまえば、幾分か気は紛れるんじゃないかと本気で考えた。
「楓、ちゃんとしなさい。そんな態度じゃむしろ怪しまれるわ」
「お兄ちゃん、ほら」
母さんに掴まれていないほうの手を、茜ちゃんがそっと握った。同じ大きさ、近い体温の掌は優しくて、柔らかい。ぎゅっと目を瞑っていた俺は、事故直後の記憶を思い起こしてしまう。でも、焦燥感や恐怖じゃなくて、安心感がそこにあった。
「大丈夫だから、目を開けて。ね?」
「うぅ……」
手を握ってもらえて落ち着いた俺は、恐る恐る瞼を開く。飛び込んできたのは下着ばかりの店内ではなく、茜ちゃんの顔だった。
「大変だよね、こういうの見慣れてないだろうから。でもわたしたちも、お姉ちゃんがすぐに慣れるなんて思ってないよ。だから、お兄ちゃんのペースでゆっくりいこう。焦らないでいいから」
「……うん」
俺がかろうじて頷くと、茜ちゃんは微笑んで、優しく頭を撫でてくる。いつもは俺がする側だっただけに、こんなのは新鮮だった。でもこれ、本当に落ち着く。俺がやっていたことはあながち間違いじゃなかったんだな。
「ふふ、これじゃどっちが上かわからないわね」
「ごめん……取り乱して」
「想定内よ。むしろ当然かしらね。平然と入ってくる男なんていないもの」
わかっててやったのか、母さん。でも、やんわり誘われただけだったら、俺はいつまで経っても絶対に入ろうとしなかっただろう。
「女性の下着は適当に選んじゃいけないのよ。自分の身体を把握して、ぴったりのものを買わないと大変なことになるわ。女の子の身体はデリケートで壊れやすいの。それを知ってもらうためにも、楓にはここに入るしかなかったのよ」
「何でもかんでも、男と違って大変だ……」
「そうね。でも、これからあんたは女の子として生きるのよ。必要なことと思って、頑張りなさい」
店に入ってからは、母さんの態度が少し柔らかくなった。強引にしたのは母さんなりの作戦なんだ。恨みそうになるけど、ちゃんと俺のことを考えてのことだ。この二人にはもう頭が上がらない。
「さ、そのためにはまず、サイズを測ってもらいましょう。試着室で店員さんに測ってもらえるから、ちょっと呼んでくるわね」
「うん」
もう嫌だって言わない。内心はまだ抵抗があるけど、二人が俺のためにここまでやってくれたんだ。俺が情けないのは構わないけど、これ以上二人に手間をかけさせるわけにはいかない。ここは男らしく腹を括って、女の子の生活に備えようじゃないか!
一分も待たずに、母さんが店員を連れて来た。母さんと同じくらいの背の、若くて綺麗なお姉さんだ。促されるままに一緒に試着室に入る。デパートのそこと違って、二人が入っても動けるくらいには広い。こうやって採寸することを考えてのものなんだろうか。
「それじゃあ、お召し物を脱いでもらえますか?」
「は、はい……」
がちがちに緊張したものの、すでに決意を固めている俺は、潔く服に手をかけた。外見上は女同士だから何ら問題ないはずだ。そう言い聞かせて、ブラまでを外してパン一になる。着け方、外し方は入院中に茜ちゃんに教わっていたから、難なくできた。
「失礼ですがお客様、今までお使いのブラが窮屈に思ったことはありませんか?」
「そ、そうですね。ちょっときついかもしれません」
「恥ずかしがることはありませんよ。きっとご成長なされているんでしょう」
「はあ……」
要するに胸が育ってる最中なんだって言いたいのか。まあ、それならサイズが合わなくなってくることもあるだろうし、制服みたいに採寸し直すこともあるんだろう。残念ながら採寸は初めてで、これ以上は育ってほしくないけど。自分でも見慣れていない胸を、女性とは言え他人に見せるのは、やっぱり恥ずかしい。
「それでは採寸しますね。体勢はそのままで結構ですから、力を抜いてじっとしてくださいね」
「は、はい」
店員さんが背中にメジャーを回して、胸の前で目盛りを読む。それから胸の下(アンダーバストって言うらしい)、ウエスト、ヒップ。上から順に測り終わると、店員さんが感嘆するように息を漏らした。
「な、何かおかしいですか?」
「いえいえ、その逆です。綺麗なプロポーションだと思いまして。羨ましくなるくらいです」
そうなんだろうか。俺は女性の裸を見慣れていないし、自分では評価できなかったんだが、そう言われると少しほっとする。
いや、待て。なんで安心するんだ。この身体のプロポーションがいいのは多分に茜ちゃんのおかげだし、本音を言うと胸の大きさとかもどうでもいいはずなんだ。気にするなんて男らしくない。今は女だけど、そういうのはまだ……。
「かえでー、どう? 終わった?」
「うぇっ? う、うん」
難しく考えすぎたのか、母さんの声に現実に引き戻される。教えてもらった数字もなんとか覚えた。店員のお姉さんにお礼を言って、母さんにサイズを伝えてもらうように頼んだ。
「あ、やっぱりね。私の眼力に狂いはなかったわ」
と、母さんの謎めいた台詞が聞こえてきた直後、俺のいる試着室に大量の下着が投げ込まれた。
「ちょ、なにこれ!?」
「決まってるでしょー、あんたの下着よ。こっちで選んでおいたわ」
「もう!? サイズは!?」
言いながらブラのひとつを手にとって見てみると、驚くことに数字はぴったりだった。
「お、俺のサイズわかってたの!?」
「目視である程度はね。まあ正確に知るには測ってもらうのが一番いいから。その間に、あんたに着てほしい……もとい、似合いそうなデザインのを選んでおいたのよ」
目視で胸のサイズがわかるなんて、どんなスキルだよ。それ以外にも突っ込むところが多すぎる。主に下着のデザインで。
これでもかとフリルのついているもの、ピンクと黒のストライプもの、リボンが派手なもの。片っ端から見て行っても母さんの下着のセンスはよくない。むしろあんたはこういうのをつけているのかと、息子としては白々しくなる。可愛いかどうかはともかく、もっとシンプルなのがいい。そう、例えばさっきまでつけていた、茜ちゃんに借りている下着みたいに、つけるなら女子高生らしいのがいい。こんなスケベなのは死んでも嫌だ。
そんなふうに思いながら探していると、白くてシンプルなブラショーセットを見つけた。その周辺には同じように華美でない、清楚なイメージの下着がいくつか固まって落ちている。消去法で茜ちゃんのチョイスだとわかった。天使の加護がやっと発動したらしい。茜ちゃんがいなければ母さんの趣味に付き合わされて、とんでもない下着をつけさせられたかと思うと、今更ながら怖くなった。
しかし、女子高生らしい、か。俺は今手にしている下着をつけて、学校や外に出なければならない。すごいことになっちゃったなあ、とブラの手触りを確かめながら思った。
茜ちゃんが選んでくれたブラを重点的に試着して、問題ないことを確かめる。それらをキープしてから元の下着をつけ、服を着込んだ。窮屈だけど、買ってもいない下着をつけることはまだできない。お店を出てからトイレででも着替えればいいだろう。そう思って、母さんが選んだエロティックな下着をその場に放置したまま、俺は試着室を出た。
個人的には善戦した下着選びだったが、俺は母さんの行動力と財力を舐めていたらしい。最終的に俺が選んだ茜ちゃんチョイスの下着はすべて購入になったが、お金を払うのは母さんだし、何を買ってあげようが自由だと母さんが主張したのだ。その結果、母さんチョイスの下着の一部を購入されてしまったのである。
「まあ、いつかつける機会も来るわよ」
「絶対に来ない。来てもつけない」
母さんは俺がその恥ずかしい下着をつけるのを想像してニヤケ顔だ。もう突っ込むのも疲れて、俺は母さんを茜ちゃんに預けてトイレへ向かった。とりあえずサイズのきつい下着を、さっき買ったばかりの下着と着替えるためだ。
意識せずにトイレへ向かったせいで、危うく男子のほうに入りそうになったが、変な目を向けられる前に女子トイレへ逃げ込んだ。個室で着替えを済ませて、二人のもとに戻る。
なるほど、下着は女性にとってかなり大切だということを身をもって知った。胸の窮屈さから解放されて、紐も背中に食い込まない。初めは慣れないものをつけたから違和感があるんだと思っていたけれど、自分にぴったりのサイズだと違和感はかなりなくなった。むしろカップに包まれた胸がきつすぎない程度に固定されていて動きやすい。
「お兄ちゃん、どう?」
「うん。びっくりするくらい違和感がない」
すっきりした顔で答えると、茜ちゃんと母さんは顔を見合わせて笑っていた。俺はちょっと恥ずかしくなって頬を掻く。
男だった俺からすれば、女性用の下着なんて手に持つことも考えられなかった。ましてや自分が着用する日が来るとは。でも、女の子になってしまった今の俺には必需品らしいのである。
確かにつけてみて動きやすくなったし、それでいてちゃんと大事なところを覆っているから、すごいとは思う。ただし完全に抵抗がないわけじゃないから、今は必要なことだと考えて、羞恥心を紛らわすのが精一杯だった。
そしてやっぱり、ランジェリーショップには今後もあまり近づきたくないな、と思った。