はやる気持ち
なんとか地獄の授業の乗り越えて、今は昼休み。
俺はいつものように茜ちゃんや茉希ちゃんと顔を合わせながら、お昼ご飯のお弁当をつついていた。その隣で翔太が一人、購買で買ったパンを食べている。透は授業中寝ていたことを茉希ちゃんに叱られると思ったのか、休み時間が始まるなりどこかに行方を眩ませていた。
「ほんとにあのムッツリ坊主め。逃げ足だけは早いんだから……!」
ぶつぶつと文句を垂れながらお弁当のおかずを口に運ぶ茉希ちゃん。お察しの通り、透に逃げられてご機嫌斜めになっていた。どうせ教室に戻って来るなら逃げられないのに、雷を大きくしてどうするんだろうか。透の危機感知能力は大したものだけど、対処法は間違っていると言わざるを得なかった。
心の中でくわばらと念じながらお弁当を食べ終えて、午後の授業の準備をする。残り二十分で授業が始まるというところで、茜ちゃんが席を立った。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
「あ、じゃあアタシも行く。楓は?」
「俺はいいよ」
教室を出て行く二人を見送って、俺はまた窓から曇り空を見上げる。どうやらぽつぽつと降りだしたようで、アスファルトが濡れて黒さを増していた。
「北見さん」
外を見ていたら、急に後ろから声をかけられた。聞き慣れない声だと思いながら振り返ると、それもそのはずで、同じクラスでもあまり話したことのない女子だった。名前と顔は覚えているけれど、それ以上はよく知らない。
「ちょっといい?」
「うん、いいけど……」
今まで話したことなかった彼女が、一体何の用だろう。そう思っていると、彼女はおもむろに制服のポケットから携帯電話を取り出した。画面が大きい――と思ったら、携帯電話自体が画面だ。最近話題になってるスマートフォンってやつか。実際に使ってる人は初めて見た。
「今更なんだけど北見さん、私が学級委員だったの知ってる?」
「えっ、そうだったの?」
てっきり茉希ちゃんがそうだと思ってた、って言うのはさすがに失礼かもしれなかったから口には出さなかったけど、驚きとしては十分だった。
「やっぱり知らなかったんだね? たぶん、鈴原さんがそうだと思ってたんだろうけど」
「うぐっ、ごめん……」
「ああ、別に気にしないで。なんだかんだ言っても、みんなを纏めるのは鈴原さんのほうが上手いし、学級委員って裏方仕事のほうが多いから、別に知らなかったことを責めるつもりはないんだ」
宥めるようにそう言って、俺の顔を上げさせる。
「分かってもらったなら、私の仕事が速やかに終わるように協力してほしいな」
「それはもちろん……って、何か手伝うってこと?」
「そんな大それたことじゃないよ。新学期の時、学級単位で連絡網を作ってるんだけど、北見さんはその後で転校して来たから。それで今更なんだけど、連絡先を教えてくれないかなって」
「そう言うことなら大丈夫だよ。ちょっと待って」
要はクラスの連絡網に俺の連絡先だけ載ってなかったから、学級委員の彼女が聞きに来たってわけだ。事情はわかったので、俺も携帯電話を取り出してアドレスを教えた。
「急にごめんね、ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
自分の席に戻っていく彼女を見送っていると、教室のスピーカーが予鈴を響かせた。授業が始まるまであと五分だ。俺も席について、茜ちゃんたちの帰りを待った。
「あーもう、じめじめして嫌な天気だな」
下校途中、一番後ろを歩いていた透がぼやいた。
「しょうがないよ、梅雨なんだしさ」
「わかってるけどよ……雨って濡れるし暗いし面倒だし、外で遊べなくなるだろーが」
透の不満はたぶん、一番最後の言葉に凝縮されている気がする。その気持ちはわからなくはないけど、日本に住んでいるならこの季節の雨は避けようがない。北海道辺りは確か梅雨がないって聞いたことあるけど、よもや行くわけにはいかないし。
「一ヶ月くらい我慢しなさいよ、子供じゃないんだから」
茉希ちゃんのその一言でようやく黙る透。たぶん文句を言って子供扱いされるのは嫌だったんだろう。
特に話すこともなくなって、俺たちの足音と雨の雫の音だけが耳に入って来る。傘を開いているとみんな広がらざるをえない。遠くて話しづらいとあれば自然と口数も減るものだった。
透じゃないけど、これはこれで退屈なものだと思う。俺たちは時間を持て余しつつも帰路を進んで、何事もなく北見家の近くまで来た。雨の音に混ざって着信音が鳴ったのは、その時だった。
「ん? 俺か」
どうやら透の携帯電話だったらしい。
「もしもし……ああ、何の用だよ?」
もう少しで家に到着というところでみんな立ち止まった。下校の時間にかけてくるなんて、よっぽど急ぎの用なんだろうか。
「ああ、みんないるけど、それがどうし……」
透の言いかけていた言葉が尻すぼみに消えた。静けさに雨音だけが響く中、みんなが緊張した面持ちで透を見つめる。
「……いくらなんでも早すぎるだろ。もう決まったことらしいって…………わかった。みんなには俺から伝える」
不満げな表情をしながらそう言って、透は電話を切った。
「誰から?」
「姉貴から。あんまり明るくないニュースなんだけどよ……」
透の表情は暗かった。雲や傘に光が遮られていて、でも、きっとそれだけが理由じゃない。
「コーエイん家の取り壊しが決まった」
何事もなかった雨空に突然、稲光が閃くような感覚。
俺はその場で言葉を失くして、歩くことを忘れたように立ち尽くした。
コーエイが晴香ちゃんの家に引き取られて、すぐに土地の譲渡が行われたらしい。
周りの商店街は寂れているが、駅に近いこともあって住宅にはいい立地だった。コーエイの家は平屋で、庭も含めて面積は広い。それを有効活用したアパートの建築の話が持ち上がったのだ。
そして今週末――――六月の第一土曜日に、コーエイの家の取り壊しが行われることになった。
数日降り続いている雨は、今日も朝から地面を濡らしている。台風とか、せめて大雨なら中止にもなりそうなのに。
でもそれは延期になるだけで、決まったことは覆らない。いずれコーエイの家は取り壊されてしまう。たぶん、誰にも止められないだろう。
「どうした、元気がないようだが」
助手席に座った俺の隣で、車を運転する樹おじさんが声をかけた。
月の第一土曜日の今日。それは俺の定期健診の日だ。
持病があるという説明をして、柊さんからアルバイトの休みの許可も得ている。今はその帰りで、おじさんが俺を家まで送ってくれているところだった。
「雨続きで気分が晴れないのもわかるが……何か、身体のことで気になることでもあるのか?」
「身体のことじゃないですけど……ええ、でも……」
部分的に否定してから、俺は言おうかどうか迷った。
コーエイのことは一度、おじさんにも相談している。何が腑に落ちないのか――そう聞かれて、俺は言葉を返せなかった。俺自身もはっきりわかっていなかったから。
でも、今は違う。あの日、コーエイと笑顔で別れられなかったことがずっと気がかりだってことを、今の自分の気持ちをしっかりと言える。
あとはこの気持ちをどうすればいいのか。俺はどうするべきなのか、それが知りたい。
「あの、おじさん――」
交差点の信号で車が止まったのを合図に、俺はコーエイのことを話した。
「コーエイ君が笑っていなかった、か……。私からすれば些細なことだが、近くで見ていた楓君だからこそそう思うのだろうな」
俺の話を聞いたおじさんは、ハンドルを握りながら呟いた。
「家が取り壊されることを、コーエイ君は知っているのか?」
「わかりません。本人に会えない以上、確かめようもありませんし」
「コーエイ君を引き取った家の連絡先はどうだ?」
「そっちもまだ……」
どうすればいいのかわからない。晴香ちゃんか茅君のどちらかと連絡先を交換していれば、せめてコーエイの声くらいは聞けただろうに。
「病院への通院歴などがあれば調べられそうなものだが。保証はないし、時間もかかるだろうな……」
俯く俺の横で、おじさんも難しい顔をして唸っている。それは職権乱用なのでよくないと思う。逆に正攻法では、どう考えても打つ手がない。
俺にできることは本当にないんだろうか――――。
「……ん、楓君。携帯が鳴っているぞ」
「ふえっ? あ、ほんとだ」
ポーチの中にあった携帯電話の振動音に、おじさんがいち早く気づいた。画面を開けると、透からの電話だ。
「もしも――」
「おい、楓かっ? 早く来い!」
「え、あの、透だよね?」
電話の向こうで叫ばれたせいで耳はキーンとしたけど、それは透の声で間違いなかった。
「いったい何があったの?」
「今俺んとこにコーエイが来てんだよ! だから早く来いって!」
「え――――」
俺は驚きのあまりに携帯電話を落としそうになる。緩んだ手に咄嗟に力を戻して、俺は受話器に向かって大声を出した。
「どういうこと!? なんでコーエイが透のところに!」
「それも説明する! もう少ししたら茉希が家まで迎えに行くから、茜と一緒に三人で来い! いいなっ!」
それだけ言うと、一方的に通話が切られてしまう。
「コーエイ君、見つかったのか?」
「そうみたいです……今、友達の家にいるって……」
さっきの電話の内容をおじさんに話して、改めて混乱してしまった。
だってコーエイが。
今、透の家に来ていて。もうすぐ、会えるなんて。
頭の整理は追いつかないものの、ひとまず茜ちゃんと茉希ちゃんに連絡を取る。都合のいいことにおじさんが午後から空いていたため、三人とも車に乗せてもらえることになった。
今の今まで、打つ手がないなんて悩んでいたのが嘘のようだ。でも一方で、透が酷く焦っていたのが気になる。コーエイもどんな顔をしているんだろう。
一刻も早く会って、知りたかった。